十七歩目 子猫と本当のひとりぼっち

 

 *


 寒い。

 マノルは体をぶるっとふるわせて、うっすら目を開けました。目の前はけむりが立ちこめたように真っ白で、風がごうごう鳴いています。ぼんやりしながらも、なんとか目を開けてみると、けむりの正体は雪のつぶであることが分かりました。

 台風のごとくふきあれ、辺りをまたたく間に白く染め上げていく粉雪は、昨日と同じものだなんてまるで思えません。ほおに当たるつぶは痛いくらいに冷たく、そして乱暴です。桜の花のようなしとやかさは、魔法のような楽しさは、一体どこにいったのでしょう。

 そういえば、昨日はどんなふうにしてここに帰ってきたのでしょうか。よく覚えていません。もちろん、いつもの道をたどってきたのだと思いますが、記憶がすっぽり抜け落ちているのです。

 ナツキからあたたかいパンをもらい「お店には来ないんだ」というセリフを聞いた、そのあと。いつパンを食べ終わって、別れ際にナツキがどんな表情をしていたのか、まったく思い出せないのです。

 マノルはよろよろと立ち上がり、何かにあやつられるようにして地面をほり始めました。お腹はすいていないけれど、食べなくてはいけない気がしたのです。このふぶきを乗りこえるためには、そうしなければいけないと、体が教えてくれています。

 でも、ほっても、ほっても、雪が足先を冷やしていく一方で。アリ一匹どころか、茶色い土さえも顔を見せてくれません。

 つかれきったマノルは、あらく息をはきながら、どこまでも広がる雪の上にたおれこんでしまいます。きっとこのまま続けても、体力をうばわれるだけで何も狩ることはできないでしょう。でもだからといって、今日ばかりはナツキをたよることもできません。悪いことって、どうしてこんなふうに重なるのでしょうか。

 もういっそのこと、このままじっとしていたほうが――

「あなたの毛色、雪にそっくりだね」

 遠ざかっていく意識の中で、耳のかたすみに残ったナツキの声がこだまします。

 ほめ言葉であるはずの彼女の一言も、全然うれしくなんかありません。むしろ、にくらしいくらいです。昨日、この言葉をきちんと受け止めることができていれば、もっとステキにひびいたはずなのに。

「ボク、このまま死んじゃうのかな……」

 かすれた声でにび色の空に問いかけてみても、答えは返ってきません。

 もしも、ドライトのとなりに寄りそって体をあたため合えたなら、ドライトが「バカなこと言うなよ」なんて笑い飛ばしてくれたなら、きっとこの寒さにもたえられたでしょう。

 でも、彼は今、ここにいないのです。どうしたって、いないのです。今日までがんばって平気なフリをしてきたけれど、そろそろ限界でした。

 寒さと、悲しさと、さびしさがごちゃ混ぜになって押し寄せてきて、一度目を閉じてしまったら、もう永遠に起きられないような気さえするのです。

 ドライトと出会った反対の季節がめぐってきて、ようやくマノルは知りました。これが本当のひとりぼっちなのだと。

 会いたい。

「会いたいよ……ドライト」

 今の願いはただひとつ、それだけです。


「――ル」

 だれかが呼んでいます。でも、目にも、耳にも、うすくまくが張ったような感じで、その呼びかけに応えることができません。

「――ノル」

 なぜでしょう。ずっと聞きたかった声のような気がします。夢でも見ているのでしょうか。

「マノル!」

 しかりつけるような大声で呼ばれ、マノルはやっとの思いで目を開けました。いつの間にか訪れたらしい夜の暗やみの中で、だれかの緑色のひとみだけが光っています。

 ……だれ、だっけ?

 たしかに彼のことを知っているはずなのに、なんだかぼーっとしてしまって、頭がうまく働かないのです。体全体が冷えきって感覚がにぶっているようで、ふわりふわりと宙にういている気分でした。

 好きなだけ暴れ回って去っていったふぶきは、マノルの体温と思考力までうばってしまったのでしょう。

 彼は、マノルの意識が戻ったと分かると、

「よかった……」

 と、心の底から安心したような、優しさに満ちた声でつぶやき、マノルの冷たい体をくるむようにしてそばに寄りそいます。

 彼のぬくもりにつつまれたら、こおっていた心が少しずつ動き出しました。

「……ドライト?」

 ささやくようにたずねると、彼は切なげなほほ笑みをうかべます。

「ただいま。悪かったな、ひとりにして」

 ただいま。

 その一言で、はっとしました。――そうです。帰ってきたのです、ドライトが。

 あんなに会いたいと願っていたのに、どうして忘れていたのでしょう。

 そうと分かったらもう、笑顔を作る余裕なんてありませんでした。目じりがカーッと熱くなって視界がぼやけ、丸いつぶがポロポロこぼれます。「おかえり」と言おうとしても、情けないおえつに変わるばかりで、ちっとも声になりません。

 彼が名前をくれた夜と同じです。子猫は今もまだ、あふれ出してしまったなみだの止め方を知りませんでした。おえつはどんどん大きくなっていき――

 やがてマノルは、今までこらえていたものを全部はき出すように、声を張り上げて泣き始めます。ほおをつたう安心と喜びのしずくを、ドライトは何も言わず優しく、優しくなめ続けてくれました。

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