第7話

 パチンパチン、という軽い音。銃声ではない。何が起こったのか分からず、俺は困惑した。


「……?」


 目の前では、ドクが微笑を浮かべて立っている。ゆっくり状況を振り返ってみると――。

 そうか。踏み込まれたのだ。あまりに一瞬なので捕捉しきれなかったが、確かにドクは俺が引き金を引く直前、泥を跳ねながら急接近した。


 次は何が起こった? 俺は自分の頭が右に傾いているのを感じた。左頬に、軽く熱を帯びた痛みがする。引っ叩かれたようだ。これが『パチン』の一回目。二回目はというと――思ったとおりだ。手元から拳銃を弾き飛ばされたのだ。すぐそばに、泥にまみれた拳銃が転がっている。

 俺の視界を狂わせ、それから武器を使用不能にする。どちらが先で正しいのかは分からないが、これだけ一瞬ならばどちらでも構わないだろう。


 俺が顔を正面に戻すと、いつの間にやらドクは先ほどと同じ場所に立ち、嫌味のない笑みを浮かべていた。


「流石に速すぎたかな?」

「それはそうですよ、ドク……。彼はまだ、使えるかどうか分からないんですから」


 葉月がフォローらしきことを口にする。何だかさっきから自分がモノ扱いされているようで気に食わなかったが、彼女の言うことは正しい。


「ではこうしよう、佐山くん。私はもう少しゆっくりと攻撃を仕掛ける。ただし、威力は増すと思って欲しい。覚悟はいいか?」


 覚悟……。俺の心の中で、この二文字が反響した。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は、ゆっくりと頷いた。


「では……」


 ドクは軽く、深呼吸を一つ。そんなドクの前で、俺は拳銃を拾い上げ、先ほどと同じように構えた。しかし、時既に遅し、だった。

 今度は踏みこんでくるドクがはっきりと見えた。そしてその口元が、ニヤリと引き攣っているということも。それは、獲物を狩る狩猟動物を連想させた。


「うっ!」


 俺は慌てて、拳銃そっちのけで頭をガードし、目を閉じてしまった。そこに見事なボディーブローが入る。


「かはっ!」


 俺は一瞬で後ろに倒れこんだ。腹部に鈍痛が走る。目が回る。吐きそうだ。

 酸素を求めて口をパクパクさせると、ドクは


「戦闘中に敵の得物から目を逸らすんじゃない。たとえそれが武器による攻撃でなくともね。それができなければ、ただのチンピラ同士の喧嘩になってしまう」


 と優しげな声音で助言をくれた。俺に手を差し伸べ、立つのを手伝ってくれるドク。


「もうしばらく、君の素養を見てみようか」


 そこから先は、ドクの一人舞台になった。俺は脇腹を殴られ、足元をすくい上げられ、首を絞められて、やがて意識が朦朧としてきた。


「反撃のチャンスは与えたぞ、佐山くん。戦うんだ。私の挙動に集中して、自分の信じる攻撃を落ち着いて繰り出してみろ。抗え。ただし冷静にな」


 だが、もうそんな言葉は俺の耳には入らなかった。


「うわあああああああ!」


 叫びながら、泥まみれの俺は掴みかかるようにしてドクに突撃した。が、そんな攻撃でドクに触れることなどできはしない。ドクは大きく右足を振り上げ、下ろし、俺の脳天に踵を直撃させた。


「がっ!」


 べちゃり、と音を立てて、俺は顔面から泥の上に倒れこんだ。否応なしに泥が口や鼻に入ってくる。しかしその時の俺にはもう、顔を拭う力も、立ち上がる気力さえもなかった。


「まあ、最初はこんなものか――」


 ドクの声。ギャラリーからもため息が聞こえてくる。

 そうか。俺の実力はこんなものなのか。両親の仇を討ちたいと思いながらも、一歩その世界に飛びこんだらこの体たらく。


 悔しい。情けない。親父にもお袋にも、あの世で顔向けできないだろう。


「くそっ……」


 その時、俺は突然シャツの後ろ襟を掴まれ、


「こんの、軟弱者が!」


 という言葉とともに引きずり上げられた。


「ノリ、何してるんだよ?」

「彼を放しなさい、憲明!」

「……ふっざけんじゃねえぞ!」


 俺を振り返させた憲明は、思いっきり俺の頬を張った。また倒れかけた俺を、ぐいっと引いて立たせる。


「いいかタコ野郎、てめぇのような雑魚は俺たちの足を引くだけだ、とっとと失せろ! 俺が最初にドクと手合わせさせられた時はな、俺だってドクの腹に二、三発はぶちこめたんだ。それがてめえの攻撃ときたら、ドクを掠めもしねえ! 喧嘩もしたことのねえようなお坊っちゃんなんぞ、俺たちには必要ない!」

「ちょっと憲明! 止めろ!!」

「いいや、気が収まらねえ」


 葉月の方を見もせずに、憲明は叫び続けた。


「俺の両親は、デモ隊の行進の最中に、警官に撃たれて死んだ。一年半前、国会前でのデモ行進の時だ!」


 俺は回りの悪くなった頭で、そのニュースを脳裏から引っ張り出した。確か、防衛大臣に関するスキャンダルが発覚し、警官隊とデモ隊が、随分と激しく衝突したという。

 だが、『撃たれて死んだ』だって? まさか、そんなことが?


「信じられねえって顔だな、あぁ?」


 すると憲明は、俺を突き飛ばすようにして腕を離した。俺は二、三歩よろめいて、なんとか転倒を防ぐ。


「ところが警官隊の奴ら、ちゃんと拳銃で武装してたんだ。ご丁寧に消音器までつけてな」


 まさか、その警官たちがデモ隊に向けて発砲したというのか。


「で、でも政府発表では、発砲なんてなかったって……」

「甘いな、佐山」


 脇から口を挟んできたのは、葉月だった。


「ニュースでも取り上げられないが、日本国内でも、ジャーナリストの失踪事件は度々起こっているんだ」

「な、何……?」


 俺の喉から掠れた音が出る。


「つまり、憲明のご両親は警官隊の発砲により死亡、その瞬間の映像を記録したジャーナリストも消えてしまった、ってことだ。霧のようにね」

「だが証拠はある」


 憲明が一歩、俺に向かって歩み寄った。


「アングラの映像投稿サイトに、まさに俺の親父とお袋が映ってたんだ。二人とも最前列にいたからな」


 憲明は興奮冷めやらぬ勢いで再び喋り出した。


「よーく見えたぜ。親父とお袋、それに周りにいた連中が倒れ込むのが。彼らの倒れ方に違和感があるっていうんで、ドクが調べた。動画サイトの映像を鮮明にしてな。そうしたら、はっきり見えたんだよ。拳銃が」


 もちろん持っていたのは警官隊の方だろう。


「つまり、俺の両親は何の罪もなく政治活動に参加しただけなのに、国家の暴力によって殺されたんだ」


 憲明はプッと口内の唾を自分の足元に吐き捨てた。


「だからお前のことは嫌いだったんだよ、佐山。葉月に話を聞いた時からな」

「俺の、ことが?」

「何でも、両親を殺されておきながら、自分が人殺しになるのには抵抗がある、っていうじゃねえか。信じられねえよ」

「だ、だから俺は、それじゃあ憎しみの連鎖が――」

「黙れ!!」


 憲明の怒声が、周囲の木々をざわつかせた。


「いいか畜生、『人を殺しちゃいけない』なんてものは、全くの詭弁だ。大人たちが作った幻想なんだ。それを頭っから信じるようなお前は、よほど両親に対して無関心だったんだな!」


 俺は葉月に言われたことを思い出していた。『君にとってご両親はその程度の存在だったのか』と。

 俺が言葉を返せないでいると、憲明は再び俺に向かってずかずかと歩み寄ってきた。相変わらず俺の口は閉じたまま。


 だが、そこまで言われても俺は目を逸らさなかった。ドクが言っていたではないか、『相手の得物は常に視界に入れておけ』と。せめて、それくらいはやって見せなければ。軟弱者には軟弱者の意地がある。


 憲明の右フックが俺の左側頭部へと向かう。汗と泥が飛び散って……などと分析する間もなく、俺はまたもや、呆気なく泥の中に倒された。しかし――。


 先ほどドクと戦っていた時の俺なら、ここで気を失うなり何なりして戦力外通知を頂戴するところだっただろう。だが、今回は違った。倒れてから目を開いた、その時から急に視界が広くなったのだ。夜だというのに、薄暗いはずの周囲がよく見える。

 俺は手をつき、ゆるゆると立ち上がった。何故か、先ほどまで抱いていたドクへの畏怖の感情や、憲明に対する恐怖心は消え去っていた。


 何だ、これは?


 すぐに目に入ったのは、憲明の顔だった。俺より頭一つ分は背の高い憲明。俺は、俺から少し距離をとった憲明の首の下、胸の上あたりを見据えた。これで相手の全身が、バランスよく視界に入る。

 憲明はといえば、


「……何だ、こいつ?」


 と、放心したように呟いていた。それは俺も知りたいところだ。しかしとにかく、確実に俺を昏倒させたはずの憲明の右フックが、俺の体調を急速回転させる『きっかけ』になったのは事実だ。俺はしゃきっと背を伸ばし、自分の両掌を見つめた。

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