第5話

 外に出た俺は、しかしあっという間に黒煙に包まれてしまった。ハンカチを口元に当て、歩を進める。視界はゼロに近い。その時突然、


「うわっ!」


 派手にこけた。地面がぬるり、と嫌な滑り方をしたのだ。びちゃっと音を立てて、俺は尻餅をついた。両手を見てみると、赤黒い液体が掌を染めていた。火薬のそれに負けないほど、鼻腔を満たす鉄の臭い――血だ。血溜まりに踏みこんでしまったのだ。


「……!」


 地下鉄の排煙システムが作動して、急速に視界が広がっていく。そこで目にしたのは、あまりにも凄惨な光景だった。

 血の海に、コンクリートや車体の破片が散りばめられ、その合間に人間のパーツが浮かんでいる。それはちぎれた手足であったり、骨であったり、紫色の臓物だったりした。


 微かな声が聞こえる。そちらを見た瞬間、俺はその場で嘔吐した。顔の半分が焼け爛れた赤ん坊が、上半身だけになってうつ伏せになった母親の肩を揺すっていたのだ。

 俺は再びハンカチで口を押さえながら、急いで逆方向へと駆け出した。階段を二段飛ばしで登り、地下鉄のホームを出る。

 とにかく、清浄な空気を肺が求めていた。何とか駅の外に出た俺は、口に溜まった唾をその場で吐き捨ててから、急いで家に引き返した。


 五分後、家についた俺は息を切らしながらドアをくぐり、玄関タイルの上にへたりこんだ。

 世の中一体どうなってるんだ? 親父とお袋の次は、俺が死ぬところだった。しかもあの凄惨な光景……。とても自分の耳目が正常だとは思えない。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 胸に手を当て、呼吸を整える。やっと落ち着いてきたかと思った、ちょうどその時、


「!」


 嫌な震えが俺を襲ってきた。と思ったら、マナーモードの携帯が鳴っているところだった。

 手に取って相手の番号を確かめると、そこにあった名前は、


「美奈川? 美奈川か?」

《無事だったようだな、佐山くん。こちらにもようやく情報が入ったところだ。止められなかったな……》


 葉月は長いため息をついた。


「人……死んだ……その、バラバラになって……」

《言われなくても分かっている。これでも私は現場指揮官だ。テロや銃撃戦の最中に飛びこんでいくこともある》

「……」

《どうした、佐山?》

「……いんだ……」

《何?》


 俺は声を振り絞った。


「怖いんだって言ったんだ!!」


 携帯を傾け、精一杯の大声で叫んだ。


「どうすればいい? こんなことをやるのはどんな人間なんだ? どうやったら止められるんだ?」

《ふむ》


 相変わらず葉月は冷静だった。俺はこんなに混乱して、喚き続けているというのに。

 しばしの沈黙の後、


《佐山、君は荷物を整理しろ。十二時間後に迎えに行く》


 するとかかってきた時と同じように、通話はプツッと切れた。ゆっくりと耳から携帯を離し、画面を見つめる。通話時間五分三十三秒、現在時刻は朝の八時半をまわるところだった。


 乗りかかった船だ。俺は葉月についていく。そうすれば、この恐怖感を拭い去る一助になると思ったのだ。彼女は場数を踏んでいるようだし、何らかの対抗策、すなわち大人との戦いに関する知識や経験が、少なくとも俺よりは豊富だろうという読みもあった。


 俺は早速荷造りを始めた。数日分の着替えに歯磨きセット、財布、携帯、葉月から与えられた名刺と写真。

 こうして荷物は大分まとまってきた。しかし余計なものを持っていくわけにはいくまい。

 ふと、ひょんなことを思った。これからどんな事態が起ころうとも、過去を変えることはできない。時間に余裕のあることを確かめた俺は、小学校の頃の文集を探し出し、目を通してみた。両親の慈愛の庇護の元にあって、なおかつ小さい頃の自分の考え方。それを知りたくなったのだ。するとそこには、


「命を大切にしましょう……?」


 俺の胸に、再び怒りの火が灯された。俺は文集を思いっきり床に叩きつけ、


「殺してやる!!」


 と叫んだ。

 殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 思っていただけなのか、実際に叫んでいたのかは分からない。だが、一言『殺してやる』という言葉が脳裏をよぎる度に、俺は文集を踏みにじるのを止めなかった。


 俺は荒い息をつきながら、文集を部屋の隅に蹴飛ばした。命を大切に、だと?

 両親を失った俺に、まだ倫理や道徳観念を説くつもりか。俺自身でさえも。

 命を大切に、なんて、大人の倫理観の押し売りじゃないか。本当に命が大切なら、つまり少なくとも大人がそう思っているなら、何故テロなんかを起こすんだ? 何故銃撃戦になるんだ?

 ……何故、俺の両親は殺されたんだ?

 

 もう、考えるのは止めよう。何かアクションを起こさなければ、また今日の地下鉄やデパートでのようなことが起きる。

 しかし、アクションを起こそうにも、俺には重要な要素が欠けていた。冷静さだ。 

 正直、やけっぱちだった。俺はデスクを殴り、ゴミ箱を蹴り飛ばし、窓ガラスに拳を叩き込んだ。だが、暴れているうちに一つ、考えがまとまった。文集を目にしたことで、俺の心の中でせめぎ合っていた複雑な感情が、一色に染まったのだ。

 復讐心。

 命を賭してでも、『腐った大人たち』をぶっ殺してやる――。

 と、その時、また携帯が鳴った。


《近所のファミレスに駐車している白いセダンだ。御足労願えるか?》

「……了解」


 心中の興奮を抑えながら、俺は葉月に応じた。部屋を出る前に、先ほど蹴飛ばしていた文集を手に取った。部屋の中央に放り、ライターで火をつける。このマンションのスプリンクラーは部屋ごとに熱源を感知するから、お隣さんに迷惑をかけることはないだろう。

 俺の過去が、燃えていく。記録も学歴も思い出も、情け容赦なく消えていく。


 これでいいんだ。俺はもう、大人に飼われるただの子供ではないのだから。


         ※


 目的のセダンはすぐに見つかった。前方から歩み寄ると、運転席の葉月がちょいっと手招きするのが見える。俺は荷物を抱えたまま、助手席に乗りこんだ。


「ひどい目に遭ったな、佐山。無事で何よりだ。荷物は後ろに置くといい」


 ありがちなご挨拶だった。だがそれよりも、俺は焦っていた。


「今日のあれは一体何だったんだ? テロなのか?」

「まあ落ち着け。今ここに来たということは、少しは私を信用してくれた、と解釈してよいのかな?」


 俺は葉月の落ち着きぶりに、何だか肩透かしをくらった気分になって黙りこんだ。こくこくと首を上下に振り、意志表示する。


「そうか。幸いだ。では先を急ごう」


 葉月はゆったりと車を発進させた。片側二車線の国道を、焦らず騒がず走っていく。レストランや洋品店、金融会社のビルのネオンが、今日は一段とケバケバしく見えた。その日常的な風景が、余計に俺の心を波立たせた。

 俺はもう、ただの一市民ではない。そんな自覚が、俺の脳裏をつつく。


 ふと、気になって俺は葉月の方を見た。


「君は年齢、いくつなんだ?」


 すると、ははっ、と乾いた笑い声をあげて、葉月はチラリと俺を見返した。


「女性に年齢を尋ねるのか?」

「いや、何か、その……。俺と同い年ぐらいに見えたから。もしそうなら君は十七だろ? 運転免許なんて――」

「心配するな。ドクがちゃんと手配してくれたから」

「ドク?」


 誰のことだ? 医者か?


「まあ、百聞は一見にしかず、だ。会ってからのお楽しみだな。他のメンバーも、君に興味津々なのでね」

「……」


 他のメンバー、か……。どんな連中なんだろう? やはり戦闘行為に携わるのだろうか。

 車は市街地を抜け、脇道に入った。田畑に囲まれた平坦な道を進み、やがて山道へ。未舗装でカーブの多い山道を、セダンは滑らかに走り抜けていく。俺も葉月も無言だった。

 しばらくして、セダンは一軒の寺の前に駐車した。

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