飛龍天にあり
ははそ しげき
第一章 イスラム商人の末裔
「わしらの祖先は
六、七歳のころ、兄の
もともとタージとはアラビア人のことで、
祖父
「どこまで行くのか。タージまで行けるのか」
興奮を隠し切れず、顔面を紅潮させて、劉厳は夢中で訊ねた。
「おまえにとっては、はじめての外洋航海だ。そんなに遠くまでは行かない。チャンパまで行って戻ってくる。タージへは、かなり船旅に慣れてからでないとむりだ」
チャンパは、「占城」と表記する。ベトナム中部に位置する国だ。
はなしを聞いていた劉隠が、「よかったじゃないか」とばかりに笑顔を向けて祝福してくれた。この兄にしてもタージに興味がないわけではないが、父の死後、仕事が増えて忙しくなり、悠長に夢を
劉一族は兄弟の祖父仁安のとき、戦乱を逃れ、中原から福建の泉州に近い仙游に出て、南海交易で栄えた。仁安は多才の人だったらしく、同じ時期、商売のかたわら福建に隣接する
ちなみに嶺南とは五嶺の南、
劉氏のもともとの出自は上蔡(河南駐馬店)の商賈だが、はじめ福建に出たのは、海のシルクロードといわれる西方との交易路に興味を抱き、商売上の
海のシルクロードというのは、陸のシルクロードに対比することばで、この海路をたどり、漢初、南越国の帆船はアフリカ東部海岸にまで達していたといわれる。
唐は玄宗のとき、タラス(怛羅斯)で黒衣大食というイスラム帝国(アッバース朝)と戦い大敗し、中央アジアの軍事支配権を失った。以後、陸のシルクロードの安全は保障されず、陸路の交易は衰退した。かわって海路による物資輸送が主流となり、船舶の発達、航海術の進歩にともない海のシルクロードが繁栄した。ペルシャやアラビア、インドの船舶にまじり、絹織物や陶磁器を満載した中国商船が広州
劉仁安が南海交易で栄えたというのは、この中継貿易で財をなしたことを指す。財といっても並みの額ではない。小国であれば、一国を経営するに足る巨万の富と思っていい。とうぜん自前の外航船を数多く保有し、船を操る
劉隠・劉厳兄弟の父
韋宙は唐の朝廷で宰相をつとめたほどの要人だったが、唐の威勢は昔日の比ではない。韋宙の経国積極論は時代に受け入れられず、ついには帝の勘気をこうむり嶺南に下向したいきさつがある。従順に謹慎しておりさえすれば、やがて帝の勘気も解け、京城復帰の道もある。しかし一徹な韋宙には、京も嶺南もない。かえって恵まれた嶺南の自然風土に魅入られた。
広大な嶺南の地は一年中緑につつまれ、作物は年に二度も三度も実る。一年の過半を雪にうずもれて暮らす
繁栄の頂点をすぎた京城とこれから発展しようとする新興地域とでは、人の勢いが違う。それは若者の眼を見れば分かる。韋宙の劉謙にたいする高い評価は、けっして気まぐれでも、思いつきでもない。
広州に来てまもなく、韋宙は羅浮山に上った。羅浮山は、広州の東七十キロ、嶺南道教の本山だ。『
羅浮山人はいくどか京に赴いたことがあり、韋宙とは肝胆あい照らす旧知の仲だった。宣宗に召されて
山人は乱世を憂い、平和な世の再来を嶺南に託した。
「もはや唐朝に往時の隆盛は望むべくもない。藩鎮が割拠し、やがて天下は分裂、唐朝は滅びる。世は戦乱にまみれ、
さらに山人は、嶺南が歩むべき新たな道を示唆し、予言めいたことを口にした。
「余力あれば、むしろ大海に目を向けよ。南海より
福地とは仙人の住む、幸いに恵まれた地をいう。いわゆる極楽のことだ。いずれ嶺南に極楽が現出する。その国を築く龍王の父、それが少壮気鋭の劉謙だと、会うなり韋宙は喝破した。山人の予言が意識下に潜在していたことは、言をまたない。
それがあるから娘を嫁がせるにあたり、諄々と説いて聞かせたのだ。
「龍の子を産め」
励ましは負担となって、
この時代、中原にあっては北方遊牧民族の内地移住が引きもきらず、治安強化のため地方の拠点に節度使がおかれた。やがて節度使は各地に割拠し、軍閥化していった。中央政府の統制はきかず、力のあるものは
事実、かれら節度使は地方の軍事・民政・財政権を掌握し、地方政治を牛耳った。韋宙がまさに、その藩鎮の典型といっていい。
もともと劉謙には、軍人としてすぐれた資質と才覚があった。くわえて嶺南節度使の後ろ盾があれば、効果は倍加する。もてる力を超えて劉謙は働き、韋宙の期待にこたえた。
唐末、山東に発した
おりから疫病が蔓延し、壊滅の危機に陥った黄巣軍は広州を放棄し、北へ転じた。湖南から湖北に入り、洛陽を陥落、余勢を駆って、長安に侵攻した。
都城を制覇した黄巣は大斉国を建て皇帝を自称するが、配下の朱温のちの朱全忠が政府軍に寝返り、黄巣の勢力を圧倒した。
北方山西の軍閥李克用が朝廷の要請をうけ南下、各地で黄巣軍を蹴散らし、長安に入城した。黄巣軍は四散し、翌年、黄巣の死をもって乱は鎮定する。この内乱で各地に割拠した軍閥・節度使はさらに勢力の拡大につとめ、唐朝は二十三年後に崩壊することになる。
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