飛龍天にあり

ははそ しげき

第一章 イスラム商人の末裔


「わしらの祖先は商賈しょうこだったそうだ。はるばるタージ(大食)から海を越えて渡来した、と伝えられている。タージというのは、はるかに遠い西のかなたにあるホエズウ(回族)の国で、そこへ行くには大きな帆船を使う。大陸の海岸伝いに、西に向かってどこまでも進むのだ。途中、民族も違えばことばも異なる多くの国々がある。広い外海をわたり、危険な海峡を越えてゆく。嵐や津波をやりすごし、太陽の熱波に耐え、海盗の襲撃を退けながら船を乗り継いで、何ヶ月もかけてようやくたどり着くのだ」

 六、七歳のころ、兄の劉隠りゅういんが声をひそめて教えてくれたのを、十年経ったいまでもよく覚えている。父が亡くなった直後だったせいかもしれない。軍人でも貴族でもない、一介の商人で、しかも西方の異人が祖先だというのだ。だから、「なまじ兵略などに興味を持たず、商売を学び、金儲けに徹しろ」と真顔で諭す兄のおもんばかりをよそに、まだ幼い弟の劉厳りゅうげんは、はじめて聞く異国の名に感動し、「行ってみたい」と憧れたものだ。

 もともとタージとはアラビア人のことで、唐土もろこしではこれを大食と表記した。幼い劉厳がペルシャやアラビアといったはるかな中東の地域の総称としてタージを捉えていても無理はない。そして十年後のいま、その憧れは少しだけ実現に近づいている。

 祖父劉仁安りゅうじんあんが、近く出航する交易船に乗船することを許してくれたのだ。

「どこまで行くのか。タージまで行けるのか」

 興奮を隠し切れず、顔面を紅潮させて、劉厳は夢中で訊ねた。

「おまえにとっては、はじめての外洋航海だ。そんなに遠くまでは行かない。チャンパまで行って戻ってくる。タージへは、かなり船旅に慣れてからでないとむりだ」

 チャンパは、「占城」と表記する。ベトナム中部に位置する国だ。

 はなしを聞いていた劉隠が、「よかったじゃないか」とばかりに笑顔を向けて祝福してくれた。この兄にしてもタージに興味がないわけではないが、父の死後、仕事が増えて忙しくなり、悠長に夢をむ暇はなくなっている。


 劉一族は兄弟の祖父仁安のとき、戦乱を逃れ、中原から福建の泉州に近い仙游に出て、南海交易で栄えた。仁安は多才の人だったらしく、同じ時期、商売のかたわら福建に隣接する広東カントンの潮州で、唐朝の官吏もつとめていた。その後、一家を挙げて、嶺南れいなんでもっとも重要な通商港のある広州にうつった。

 ちなみに嶺南とは五嶺の南、広東カントン広西カンシー以南をいう。治所はいまの広州だ。五嶺は、湖南・江西南部と広東・広西北部を分ける五つの嶺、越城えつじょうれい都龐とほう嶺・萌渚ほうしょ嶺・騎田きでん嶺・大庾だいゆ嶺の総称だ。千年前には、この嶺南に南越なんえつ国という独立した王国もあった。

 劉氏のもともとの出自は上蔡(河南駐馬店)の商賈だが、はじめ福建に出たのは、海のシルクロードといわれる西方との交易路に興味を抱き、商売上の伝手つてを求めてやってきたのだ。

 海のシルクロードというのは、陸のシルクロードに対比することばで、この海路をたどり、漢初、南越国の帆船はアフリカ東部海岸にまで達していたといわれる。

 唐は玄宗のとき、タラス(怛羅斯)で黒衣大食というイスラム帝国(アッバース朝)と戦い大敗し、中央アジアの軍事支配権を失った。以後、陸のシルクロードの安全は保障されず、陸路の交易は衰退した。かわって海路による物資輸送が主流となり、船舶の発達、航海術の進歩にともない海のシルクロードが繁栄した。ペルシャやアラビア、インドの船舶にまじり、絹織物や陶磁器を満載した中国商船が広州扶胥ふしょ黄埔こうほ)港を出帆し、南海(南シナ海)を下り、マラッカ海峡を抜け、インド洋を経てペルシャ湾にいたる長大な航路を往来した。

 劉仁安が南海交易で栄えたというのは、この中継貿易で財をなしたことを指す。財といっても並みの額ではない。小国であれば、一国を経営するに足る巨万の富と思っていい。とうぜん自前の外航船を数多く保有し、船を操る水手かこも相当数雇い入れていた。さらには警護のため、武力を備える軍団を身内に抱えていた。商人とはいえ、数百人の私兵を擁する新興の大富戸だったのだ。人は仁安を「武装商人」と揶揄した。


 劉隠・劉厳兄弟の父劉謙りゅうけんは若いころから質実剛健、実直を絵に描いたような男で、祖父おやの海運業には直接組せず、軍人として嶺南の節度使韋宙いちゅうに仕えた。身分は牙校がこう(下級武官)、けっして高い地位ではない。ところが、「またとない逸材だ!」。ひと目見て韋宙は、劉謙の才気を見抜いた。妻女の猛反対を押し切り、娘を嫁がせるほどの入れ込みようだ。娘は実は姪だったが、兄の子を養女として育ててきた。

 韋宙は唐の朝廷で宰相をつとめたほどの要人だったが、唐の威勢は昔日の比ではない。韋宙の経国積極論は時代に受け入れられず、ついには帝の勘気をこうむり嶺南に下向したいきさつがある。従順に謹慎しておりさえすれば、やがて帝の勘気も解け、京城復帰の道もある。しかし一徹な韋宙には、京も嶺南もない。かえって恵まれた嶺南の自然風土に魅入られた。

 広大な嶺南の地は一年中緑につつまれ、作物は年に二度も三度も実る。一年の過半を雪にうずもれて暮らす朔北さくほくや水を求めてさまよう不毛の西域にくらべ、なんと豊かな可能性に満ち溢れていることか。それにもまして頼もしいのは、活気のある若者が眼を輝かせて、社会くにの発展と生活くらしの向上のために、みずから立ち向かおうとしていることだ。

 繁栄の頂点をすぎた京城とこれから発展しようとする新興地域とでは、人の勢いが違う。それは若者の眼を見れば分かる。韋宙の劉謙にたいする高い評価は、けっして気まぐれでも、思いつきでもない。

 広州に来てまもなく、韋宙は羅浮山に上った。羅浮山は、広州の東七十キロ、嶺南道教の本山だ。『抱朴子ほうぼくし』で知られる葛洪かっこうは五百五十年まえ、この地で金丹を煉り、道仙書を著した。韋宙もまた羅浮の白雲洞にこもり、羅浮山人さんじんの教えをうけたのだ。

 羅浮山人はいくどか京に赴いたことがあり、韋宙とは肝胆あい照らす旧知の仲だった。宣宗に召されて風湿リューマチを治療したこともある。歳は分からない。百年以上もまえの話を綴った実見記録が残っているから、百歳はとうに越えていると思われるが、ときに青年にも壮年にも見えることがある。人は山人を評して「尸解仙しかいせん」といって敬った。現世における仮の死後、己が肉体を残して抜け出た魂魄が、他の肉体を借りて蘇える仙人を「尸解仙」という。時空を越えて生き、なんども蘇えることができる。道教の極致だ。

 山人は乱世を憂い、平和な世の再来を嶺南に託した。

「もはや唐朝に往時の隆盛は望むべくもない。藩鎮が割拠し、やがて天下は分裂、唐朝は滅びる。世は戦乱にまみれ、百姓ひゃくせい(人民)は塗炭の苦しみにあえぐことになる。しかし、この嶺南は違う。東は南海に臨み、北と西は五嶺に護られているから、戦乱はおよばない。あえてみずから中原に覇を競おうとしないかぎり、平和は保たれる。内に力を貯え、孤高の道をゆくのだ。けっして五嶺を越えて武力を用い、嶺北を制覇しようと思ってはならぬ。嶺南にこだわり、嶺南に徹するのだ。嶺南の大地を拓け。未開の大地は、限りない恵みを与えてくれる宝庫と知れ」

 さらに山人は、嶺南が歩むべき新たな道を示唆し、予言めいたことを口にした。

「余力あれば、むしろ大海に目を向けよ。南海よりでて西方を目指せ。さよう、東西交易じゃ。唐朝隆盛のおりには、広州の港は交易船の往来で、殷賑をきわめたものだ。ところが、さきの黄巣の動乱で広州に居住する西方の番商(ペルシャやアラビアなどの外国商人)は根こそぎ殺され、東西交易は途絶えてしまった。この交易を絶やしてはならぬ。波濤万里を越えてくにの門戸を開く帆船航海は、嶺南の伝統だ。航海術に長けた嶺南の海人かいじんは、一千年前から西方航路を拓いている。この伝統にかけて、東西交易を再開するのだ。戦によらず友好の心をもって平和裡に万国と交わり、物産や利便を分け合うのだ。思案は無用。智慧を磨けば、益はおのずとついてくる。人を用い、育ててみよ。おぬしの配下に、やがて龍の子をもうける男がでる。遠からず、この嶺南に福地の園をもたらす龍王の父となる男だ」

 福地とは仙人の住む、幸いに恵まれた地をいう。いわゆる極楽のことだ。いずれ嶺南に極楽が現出する。その国を築く龍王の父、それが少壮気鋭の劉謙だと、会うなり韋宙は喝破した。山人の予言が意識下に潜在していたことは、言をまたない。

 それがあるから娘を嫁がせるにあたり、諄々と説いて聞かせたのだ。

「龍の子を産め」

 励ましは負担となって、韋氏むすめの意識下に重い責任を背負わせた。


 この時代、中原にあっては北方遊牧民族の内地移住が引きもきらず、治安強化のため地方の拠点に節度使がおかれた。やがて節度使は各地に割拠し、軍閥化していった。中央政府の統制はきかず、力のあるものは自儘じままに軍備を増強し、勢力を伸ばした。そのさまが封建諸侯の台頭を思わせたから、藩鎮と呼ばれたのだ。

 事実、かれら節度使は地方の軍事・民政・財政権を掌握し、地方政治を牛耳った。韋宙がまさに、その藩鎮の典型といっていい。

 もともと劉謙には、軍人としてすぐれた資質と才覚があった。くわえて嶺南節度使の後ろ盾があれば、効果は倍加する。もてる力を超えて劉謙は働き、韋宙の期待にこたえた。

 唐末、山東に発した黄巣こうそうの乱は十年におよんで全土を蹂躙、広州とその周辺の州県も災禍を免れなかった。黄巣の叛乱軍は嶺南の旧い統治秩序を徹底的に破壊した。旧秩序の破壊は、新興勢力の台頭が容易になる土台を築いた。その一方で絹の源泉たる蚕桑業を破壊し、広州で東西交易に従事する番商を大量に虐殺した。そのかず、十数万人といわれる。経済基盤の破壊は、政治統制の崩壊を招いた。前任の節度使が殺され、ボスの席が空いた。韋宙が嶺南に下向したのはそんな時期だった。ほどなく韋宙に見込まれた劉謙が官軍をひきいて出動し、黄巣軍を駆逐する。

 おりから疫病が蔓延し、壊滅の危機に陥った黄巣軍は広州を放棄し、北へ転じた。湖南から湖北に入り、洛陽を陥落、余勢を駆って、長安に侵攻した。

 都城を制覇した黄巣は大斉国を建て皇帝を自称するが、配下の朱温のちの朱全忠が政府軍に寝返り、黄巣の勢力を圧倒した。

 北方山西の軍閥李克用が朝廷の要請をうけ南下、各地で黄巣軍を蹴散らし、長安に入城した。黄巣軍は四散し、翌年、黄巣の死をもって乱は鎮定する。この内乱で各地に割拠した軍閥・節度使はさらに勢力の拡大につとめ、唐朝は二十三年後に崩壊することになる。

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