第4話

 伊能雅道いのう まさみちがその日ショッピングモールに来ていたことに、特に大きな意味はなかった。


 無職になってからというもの、毎日特にやることもないので散歩ばかりしていた。

 あてもなく歩き回っていたら、スマホの歩数計機能で一日平均2万歩歩いていることがわかった。体重は六本木や中目黒界隈で毎夜飲み歩いていた最盛期から比べれば、20kg近く減っていた。

 自宅に閉じこもっていても気持ちがますます滅入っていく気がして、音楽もテレビも、ましてネットも見る気になれず、ただ歩くことが気分転換に一番あっていることに気がついたのだ。何も考えずにただ歩く。そうすることでほんの一瞬だが自分の現状を忘れることが出来た。


 自宅から暫く歩いたところで自動販売機で飲み物を買おうと立ち寄ったのがショッピングモールの近くで、そのまま中へ入った。イベントスペース近くのベンチに腰掛けてぼんやりしていたところに何やらせかせかとした若い男がビラを配りにやってきた。

「このあとイベントスペースでミニライブと握手会をしますのでぜひいらっしゃってください!」

 もさっとした前髪と黒縁の眼鏡。スーツは着ているもののネクタイが曲がっているし、全体的に印象は冴えない。年齢は20代前半くらいだろうが、見ようによっては若く見える40代、という気もする。だが伊能には男が芸能関係者であることが直感的にわかった。それは芸能界の第一線に20年以上いた伊能だから感じる部分かもしれない。

 ビラを受け取って眺める。三人組のアイドルグループがデビューするようだ。名前もまだ未定。随分とお粗末な事務所だ。売る気はあるのだろうか?

 現在日本のアイドル人口は数万人とも一説には数十万人とも言われている。

 メジャーな事務所にいる者、ご当地アイドルと呼ばれる者、今や一大勢力の地下アイドル、そしてユーチューバーと呼ばれる素人との境目が極めて曖昧な「自称アイドル」まで含めてしまえば、その対象はさらに広がる。日々名もなきアイドルがデビューしては消えていく。人々の記憶に残る者たちがその中に果たしてどれだけいるだろうか。

 しかし、伊能にとって湯本麻美ゆもと あさみは忘れたくても忘れられないアイドルとして、今もこれからも永遠に残るはずだった。


「麻美が飛び降り?」


 第一報を受け取ったとき伊能はテレビ局の局内で音楽番組のプロデューサーと次回の番組出演に向けて打ち合わせをしているところだった。

 打ち合わせを無理やり終わらせてもらい、スマホを握りしめたまま無意識に走り出していた。


 嘘だ。そんなはずがない。あさみが死ぬなんて。自分から死を選ぶなんて。

「笑顔しか取り柄がない」と言い切った少女が。

「自分の笑顔でみんなを元気にします」といつでも言い切っていた少女が。

 どこでも笑顔だった。悩むことだってあるだろう。疲れるときだってあるだろう。機嫌が悪くなるときだってあるだろう。そう思っていた伊能にいつだって「伊能さんは人のこと信じてないんじゃないですか?」とニコニコしながら言った。麻美はそういう女の子だった。アイドルになるために生まれてきたような女の子だった。


 麻美の自宅であるマンションに着いたとき、最初に思ったのは赤いサイリウムが振られるライブ会場のことだった。

 グループの中であさみのイメージカラーは赤だった。ライブ前、ブログやツイッターではいつも「サイリウムの色は赤×赤でお願いします!」と書き込んでいた。闘志を燃やす色だ、と言っていた。


 マンション前には赤色の光が溢れていた。

 パトカー、救急車の赤色灯が夜の路上に残酷な光を無慈悲に反射させていたのだ。規制線があちこちに張り巡らせられ、集まった野次馬たちが好奇心をむき出しにした下卑た笑いでスマホのカメラ機能を起動させる。その光景にライブ会場でファンの降る赤いサイリウムで照らし出された麻美の笑顔が重なった。

 満員の会場、振られる赤いサイリウム。だが、そのスポットライトを浴びるはずのメインステージのど真ん中に麻美の姿はなく、アスファルトの上には生々しい血痕が広がっているだけだった。


 担当マネージャーである伊能の処分は速やかに下された。

 彼の所属する一部上場も果たしている大手芸能事務所「セント・ミューズ」が重点的に力を入れてプッシュするアーティストとして全社方針で決定されていた5人組アイドルグループ「ガールズトーク」のメンバーの一人、それも人気が最も高かったセンター的存在というケアが必要なタレントに対する監督不行き届き、マネジメント不足。その結果としての自殺、という原因付けがまるで事件の真相であるかのように固まっていった。

 伊能には事件の翌日から無期限の謹慎処分が下された。とはいえ、その間も自宅待機というわけではない。出社はし、連日朝から退社時間まで上層部からの審問会が何度も繰り返された。警察の事情聴取にも何度も呼ばれ、繰り返し自殺の兆候についてどこまで認識していたのかを確認された。仕事用のパソコンは押収され、スマホでメールやLINEのやりとりもすべてチェックされた。

 スケジュールの過密ぶりが原因ではなかったか、熱狂的なファンにストーキングを受けていなかったか、恋愛で悩み事はなかったか、メンバーや事務所のスタッフとの人間関係はどうだったのかー


 麻美は手がかりにつながるようなものを、何も残していなかった。

 自宅の部屋のパソコンや、プライベートのスマホからも親しい友人からも親からも、何一つ有力な証言は得られなかった。

 インターネットの掲示板は、瞬く間に麻美の自殺の真相についての推理合戦で溢れた。

 何一つ根拠のない書き込みたちが真実かのごとく膨張し、その中に伊能の名前が出るのに時間はかからなかった。

 一番多かったのは伊能が麻美に肉体関係を迫ったことが原因である、という説だ。

 デビュー時からすでに関係はあり、耐えきれなくなった麻美が自殺したのだというものもあれば、自殺直前に無理矢理襲われ、衝動的に飛び降りたというものもあった。ご丁寧にどこからか拾ってきたらしい伊能の写真もそこには添えられており、出身大学や居住地などの個人情報まで流出し始めていた。すべてでたらめな書き込みの中にあって、その情報だけは皮肉なことに正確だった。

 自宅の電話には連日無言電話や彼を罵る相手からの電話が鳴り、ついに自宅のポストにいやがらせの手紙や張り紙までされるようになった。どこにいても自分が見られているような視線恐怖に陥った。やがて、本当に麻美を死に追いやったのは自分ではないかと考えるようになった。

 警察からも事実確認を何度も行われた。会社からは騒動の責任を取るよう求められ、結果的に自主退社という形ではあったが、事実上の解雇処分を受けた。


 気がつくと麻美が飛び降りた自宅のマンションの前に立っていた。

 彼女が倒れていたとされるあたりには山のような花束や彼女が好きだと公言していたアニメのキャラクターグッズが所狭しと並んでいる。千秋楽の楽屋のようだった。ファンからのプレゼントを定期的に彼女に渡していたが、ひとつひとつを恐縮そうに受け取っていた様子を思い出す。

 そこには彼女がアイドルとして生きた5年間が息づいていた。彼女の肉体は消えてしまったが、彼女の存在が消えずに誰かの心の中にはある。それがこの場所には形として現れている。

「伊能さん、アイドルって素敵なお仕事ですよね」

 いつか麻美はそう言った。

「ずっとアイドルでいられたらなあ」

 冷たいアスファルトの上に彼女の身体が叩きつけられる直前、彼女は何を思っていたのだろうか。不意に目の前の光景が滲んで、雨かと見上げた空は晴れ渡っていた。

 自分の目から静かに、溢れるように涙が流れていることに、伊能は気がついた。


 ビラをもう一度見直し、伊能はベンチから腰を上げた。

 そして、人もまばらなイベントスペースへと足を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る