第2章 一人じゃ光になれないの!
第1話
「んん? どういうこと?」
ファミリーレストランで聖奈は浅尾と向き合いながら、ずっとニット帽を被っていた為にクセが付いて元に戻らない前髪を必死に両手でかきあげながら、眉間に皺を寄せた。
マネージャーの浅尾は聞こえているくせに黙ったままじっと下を見て何も答えない。顔には悲壮感が漂っており、浅尾の人間性を知らない人が見かけたら思わず「大丈夫ですか?」と声をかけたくなるほどだ。そのくせ、聖奈より先にファミレスに来てがっつりと和風ハンバーグ定食を完食しているところが癪に触る。元気だろう、お前と言いたくなる。
「…えー、まあ、結構有名なシリーズらしいんですよね。あの
浅尾が数年前に「ギリギリエロアイドル」というキャッチコピーでバラエティ番組を中心にちょこっとだけテレビで見かけた女性タレントの名前を引き合いに出す。そのタレントは確か大物芸人の不倫騒動を起こした挙句いつの間にか消えて行った。
「で、それを私もやれと?」
言いながらテーブルの上に置かれたやけに立派なつくりの企画書を片手でばすんと叩く。表紙には
「現役アイドル ギリギリエロ計画! どこまで出来るかいろいろやらせちゃいましたシリーズ」
という文字が書かれている。
念のため中身をざっと見たが、
「極小ビキニで混浴風呂!?」
「快感オイルマッサージに初挑戦!」
「マジックハンドでもみもみしてください!」
など、これがアダルトビデオと何が違うのかわからない具合が悪くなりそうな惹句のオンパレードで、実際最後の方のページには「AVは無理!だけどこれなら…なアイドルたちが多数出演」とある。だけどこれなら…となぜ思うのか。何がこれならなのだ。
浅尾は喋らない。このマネージャーは所属タレントと話をするときでも自分には黙秘権があるとでも主張したいのだろうか。
聖奈は食欲も起きないままとりあえず目に入って頼んでしまったドリアが目の前で冷めて行くのを見ながら、頭のどこかではここまで来たか、とやけに冷静に感じてもいた。
本当はもっと早く見切りをつけるべきだったのかもしれない。それをなんだかんだと引き伸ばしていたのは、やはりどこかでまだもう少しだけ、と夢を見ていたからだ。
綺麗な衣装を着て煌びやかなスポットライトを浴びながら自分を見つめる羨望の眼差しを受ける。一度この経験をしてしまったら、もうそれを手放すことは難しい。いつだったか、やけに尊大なテレビ局のプロデューサーと名乗る人物と食事をしたとき、彼がこんなことを言っていた。「ショービジネスは三日経験するとやめられなくなる」そして「始めることよりも、辞めることの方が何倍も難しい」とも。真面目な顔をしてそんな会話をしたかと思えば、さっさと食事を切り上げると会合の中で一番若かった巨乳のグラビアアイドルと二人でどこかに消えていった。その時点で一番の年長者だった聖奈が中指を立てて見送ったことは言うまでもない。
きっと、今が最初で最後のチャンスなのだ。
ここで辞めなければ、きっと自分はいつまでもずるずるとこの業界に残ってしまう。挙句高額なギャラと、自分をお姫様扱いしてくれる優しい、だが残酷なスタッフたちに乗せられて一枚、また一枚と服を脱ぎ、気がつけば男優とベッドの上で絡み合いながら自分はカメラを見つめているに違いない。事実、聖奈のアイドル仲間だった女の子たちにもそうしたルートを辿った子は何人もいる。数本のAVに出演後に体調を崩し、田舎に戻ったものの出演したビデオの映像はインターネット上で流出していたため、彼女の出身である小さな田舎町でもその事実は瞬く間に知られることになった。やっと雇ってもらえた地元の小さな会社でも、そのことをもとにセクハラを受けた挙句数カ月で辞めることになった。そして彼女は今、心療内科に通いながら実家の、自分の部屋の中で丸一日を過ごす生活を送っている。
自分にはその覚悟は無い。田舎の両親はまだ元気だし、弟は上京して今は都内の大学に通っている。家族に迷惑をかけることは出来ない。聖奈は水を一口飲むと、唇を湿らせてから言った。
「やめるわ」
浅尾の表情に特に変化はない。小刻みに頷くと「ですよねー」と無機質に言いながら企画書をしまいはじめたので、その企画書の上に手を置いて、聖奈はもう一度静かに言った。
「この仕事を、じゃなくて、もう事務所を辞める。それで、芸能界からは引退する」
浅尾の動きが止まった。
「このまま続けても、先無いし。だったら今のままで業界から消えたいんだ。まだ私をさ、一人のアイドルとして見てくれてる人がいるままで」
浅尾の手が静かに企画書から離れる。流石の浅尾もこれには怒るだろうか。わがままと言えばわがままだ。もちろん日雇いのアルバイトと違うからやめます、と言ってその日のうちにぽんとやめられる訳ではない。小さな事務所とはいえ、専属のタレント契約を結んでいるわけだから社長とも一度話さなければならない。しかし、聖奈はそれでいい、と思っていた。この八年間社長には世話になった。感謝してもしきれない。見た目はどこにでもいいるようなおばちゃんだが、女手一つでこの魑魅魍魎の芸能界と渡り合ってきた手腕は伊達ではないことくらい聖奈にもわかっている。だからこそ、このまま芸能界を去って行くことをわかって欲しいと思っていた。
「ごめんね。急にこんなこと言って。短い間だけどいろいろありがとう」
どうしようもないマネージャーだったが、絶対に愚痴は言わなかったな。聖奈は浅尾のことをそう思い返しながら、声を掛けた。浅尾は下を向いたままだ。肩が小刻みに震えている。嫌だな、怒っているんだろうか。普段怒らない人間が怒る時ほど怖いものはない。聖奈は普段気を張っているものの、アイドルになる前までは人前に出ると一言も喋れないような内気な人間だったし、何より大きな声で怒鳴られることを恐れていた。
浅尾が顔をぐっと上げる。思わず怯んで身を後ろに引いた聖奈は、その目に大粒の涙が溜まっていることに気がついた。
「聖奈さあん」
すでに全開の涙声となっている浅尾が叫んだ。あまりの大声にファミレスの店内にいた人間たちが一斉にこちらを振り向いたほどだ。
「やめるなんて言わないでくださいよお。アイドル松下聖奈はこれからなんですよお。僕なんでもしますからあ」
浅尾はついに声を放って泣きはじめた。周囲の訝しげにこちらを見つめる目線にたまらず聖奈は浅尾をなだめ始める。
「ちょっと、泣かないでよ。なんなのあんた」
「僕ずっと聖奈さんのこと見てきたからわかるんですう。松下聖奈は絶対売れますう。僕が一番のファンなんだから、間違いないんですう」
浅尾は周囲のことも気にせずに大声で叫んだ。相変わらず店内中の視線を集めてはいたものの、聖奈は浅尾の言葉に胸が詰まった。使えない奴だとばかり思ってきたが、こんなに聖奈について考えてくれていたとは思いもしなかった。どうしてそれほど熱い思いを持っていたのであれば先に言ってくれなかったのか。もっと早くにその情熱を教えてくれていれば、こっちだって仕事に対する考え方を改めていたかもしれないのに。
聖奈もこみ上げてくるものを必死に押さえつつ、まずは何とかして店を出なくてはいけない、と浅尾の肩を掴んで立ち上がる。なんでもしますからあと叫び続ける浅尾を引きずりながら、聖奈はでもやっぱり辞めよう、と決意していた。
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