観覧車の頂上

 病室のドアが3度ノックされた。下里つばきが「どうぞ」と応えると、妹の下里あかねは「お姉ちゃん、具合どう?」と言いながら入室した。


「いい感じよ。朝食も残さず食べた」


「脚の方は?」


「そっちはまだ。でも、昨日は寝ているときに痛みを感じなかったの。久しぶりにゆっくり寝られた気がする」


「よかったぁ」


あかねはつばきの上体を起こし、背中に枕を差し込む。すでに何度も同じ動作が行われたのだろう、あかねは手際よく全てを整えた。最後に部屋の隅に置かれたパイプ椅子をつばきのベットの脇によせ、あかねはちょこんと腰掛ける。


「そうそう、頼まれたもの買ってきたよ」


「ありがとう。お金払うから棚から財布を取ってくれる?」


「大丈夫。お母さんが買ってくれた。ちょっと感心してたよ。『たしかに必要だけど、そういうことに気が回るならもう大丈夫よね』だって。だからプレゼントでいいって言ってた」


「あんたお母さんにメールのこと言ったの……」


「ついでにあたしの分も買ってもらえるんじゃないかと」


「相変わらず抜け目ないねぇ」


「生き抜く知恵と言って。ちょっと中身を確認してくれる?」


あかねが差し出した紙袋を受け取ったつばきは、そのまま封を開けて中に入っているものを取り出した。つばきの膝の上に透明なフィルムで包まれた四角い箱が並ぶ。同じ大きさのものは無く、長方形や立方体が混じって形もバラバラだ。しかし一様にピンクやゴールドといった華やかな色で輝きを放っていた。


「うん、バッチリ。これでちゃんとメイクが出来る。化粧水も欲しかったんだ。ありがとう。手間かけたね」


「ぜんぜん平気。ていうかお姉ちゃん、30過ぎたんだからもうちょっと高いラインを使ってもいいんじゃないの? こんなドラッグストアで買えるものじゃなくてさ。若いときに安いのばっかり使うと肌に悪いよ」


「ちなみにあんたは何を買ってもらったの?」


「レミゼの化粧水、乳液、化粧下地を買ってもらったよ」


「それ、デパートの1階で見たことある」


「お母さんはファンデーションとかも買ってたよ」


「わたしの分は!?」


「しょうがないじゃん。ファンデーションは肌に合わせてみないとどれを買っていいか分からないし」


「それは、そうだけど……」


「早く退院して、一緒に買いに行こう?」


「そうね。そうよね。うん、ありがと」


 つばきが自分の足元へ視線を送った。姉の視線に気がつき、あかねも同じようにつばきの脚を見つめる。車に撥ねられ、複雑に折れてしまった姉の脚。また歩けるようになるためには長期のリハビリが必要だった。包帯が巻かれたことで本来よりも何倍にも膨れ上がった脚は、ピクリとも動かないまま天井から吊られていた。


「時間かかっても大丈夫だよ。待つから」


「うん。ありがと」


 姉妹の間にじわじわと暖かく柔らかい空気が流れる。幼いころから共に暮らしたもの同士だけが醸すことが出来る、安心して眠くなるような時間だった。


 姉が病院に運ばれた当初、あかねは「姉が車に轢かれた」とのみ聞かされていた。そのため犯人に対する怒りしか浮かばず、たまたま救急車に同乗してくれていた親切な人に対して「あんたが轢いたの!」と食って掛かったほど頭に血が上っていた。

 しかし警察から姉の当日の行動について説明を受けるようになると、あかねは混乱した。普段の姉からは想像もつかないような突拍子もない行動、特に、声をかけてきただけの男と数時間も遊び歩くなどまるで別人のようだった。一通りの話の最後に「轢いた犯人はまだ見つかっていません」「目撃者の証言によると自殺をしようとしていた可能性もあります」と言われたときには血の気が引いていた。「赤信号の交差点に飛び込むようにして撥ねられた」という姉に対して、あかねは戸惑った。そして姉が3週間ほど意識を取り戻さないでいる間、あかねは自分の姉が意識を取り戻したいと思っているかどうかについて考えつづけた。真面目で、慎重で、センスは悪くないのに地味で居続ける姉。10代の頃には「大人の言いなりの面白みがない人間」と蔑みの対象にしていた姉。自分も働き始めたことで偉大さが分かり、尊敬の対象になった姉。その姉は死のうとしてヤケになっていたのではないか、そして目論見が外れて息を引き取ることができずに今ここで横たわっているのではないかと思うと、あかねは言葉を失ってしまうのだった。



 いざ姉が目を開けたとき、あかねは耳を疑った。姉は一言「観覧車乗りたかった」と言ったのだ。意識が混乱したまま夢を見ているようなものだと医者は説明したが、あかねには姉が生きたがっている証拠のような言葉に聞こえた。以来、姉は不幸な事故に遭ってしまっただけということにして、あかねは思考を止めていた。今は生きていたことを喜ぶだけでいい、というのは両親の言葉でもあった。家族が同じような心配をし、そして同じ言葉をきっかけに安心した。今回、姉が化粧品を一揃い買ってきてくれと頼んでくれたおかげで安心はさらに深まった。見た目に気を遣い、きれいであろうとすることは前向きな気持ちのあらわれに違いなかった。

 そして、あかねには一つ思い当たることがあった。


「ねぇ、化粧する気になったのって、斎藤さんのせい?」


「ちょっと、やめてよ」


「ちがうの? 家族以外でお見舞いに来てくれるの斎藤さんだけでしょ」


「だって、みっともないじゃない」


「やっぱりそうなんだ。ただベットで横になってるだけなのに。お姉ちゃんも隅におけないねぇ……ま、物理的に無理なんだけど」


「何言ってるのよ、もう!」


 斎藤というのはつばきを助けてくれたサラリーマンの男だった。撥ねられたつばきの体が落ちたところへ駆け寄り、後続の車からさらに撥ねられそうになっているところを守ったばかりか、救急車の手配、病院への同行もした。勘違いしたあかねに食って掛かられても逆上せず、ただただ黙っていた。

 状況を理解した両親が何度も頭を下げるのに対し「ぼくもただ必死だっただけで」と恐縮しきりで、その場限りの縁になるはずだった。しかし目を覚まさないつばきを気にかけ何度か病室を訪れただけでなく、つばきが意識を取り戻してからも度々顔を見せては花や食べ物を置いていっている。


「いいんじゃないの。正直、見た目が良いとは思わないけど。優しい人だし真面目そうだよね。お姉ちゃんにぴったり」


「だから、そういうんじゃないんだってば」


「じゃあ、あたしがアプローチしちゃおっかな」


「それは! 困るんだけど」


「冗談。ね、本当にいいと思うよ。頑張りなよ」


「……うん」


少し顔を赤らめた姉の口元が笑っているのを確認して、あかねは腰を上げた。


「そろそろ帰るね」


「うん。お母さんによろしくね」


あかねは再びつばきの背中に手を当てると枕を取り出した。そのままつばきの背中を支え、ベットに横たわらせる。あいかわらず手際がよく、そして丁寧だった。


「そういえばさ、お姉ちゃんが最初に目を開けたとき「観覧車乗りたかった」って言ってたよ。斎藤さんと一緒に行く約束しなよ。リハビリのモチベーションにもなるし」


「わたしそんなこと言ってたの」


「言ってたよ。ね、いいと思わない?」


 つばきは少し困ったという顔をしながら数秒何かを考えていたが、柔らかい笑顔になって言った。


「観覧車の頂上には、もう用が無いのよ。でも、そうね。斎藤さんとだったらちゃんと戻ってこれるかも」


「誰と乗っても戻ってこれるよ?」


「そうだよねー。すっかり忘れてたの。馬鹿だったわ」


姉の目に涙が浮かぶのを見て、あかねは慌ててバックからハンカチを取り出して目元をぬぐった。


「馬鹿じゃないよ。誰だって忘れることぐらいあるよ」


「うん。でもわたし、本当に忘れていたの」


なおも涙を流しながら、つばきは絞り出すような声を出した。


「戻ってこれて良かった」

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