先週の水曜日、そして木曜日について①
アパートの共同廊下がヒールの先で叩かれている。コッコッコッという音が夜の闇を割る。革がすっかりくたびれたパンプスを履いている女は2階の角部屋の前で立ち止まった。女が手にする金属の鍵が紺色の扉に差し込まれると、ドアはすんなり開いた。中に入った女は、振り返ってドアに備え付けられたポストの中身を確認する。電気料金を請求する薄く細長い紙には「下里つばき様」と書かれていた。女はその紙に一切興味を示さず、立ち上がって廊下の奥へ進んでいく。
女が部屋の明かりを点けた。狭いキッチンの他に一部屋しかない。設備としては少し高額なビジネスホテルのような体裁だった。あまり物が多くないところも、生活感のなさに拍車をかけている。まだ建物自体が新しいのだろうか、壁紙を貼る糊の匂いが空間を覆っていた。
上着も脱がず、持ち帰ってきた鞄も電気料金の請求書も床に投げ出して、女は部屋の4分の1を占領するベットに横向きに倒れ込む。肩にかかるほどの髪が乱雑に顔にかかった。
そのまま数分の間、女は沈黙を保った。冷蔵庫のモーターの音が低く唸るように鳴っているだけで、他は時間が止まったかのようにしんとしている。誰からも忘れられたお化け屋敷のセットだと説明しても疑われないだろう。
唐突に女が声を発した。ろう人形のように固まった顔の筋肉から、口の周りだけを動かして小さく喋った。
「もうだめだ」
「死ぬしかない」
「明日死ぬことにしよう」
立て続けにそう言うと、女はまた沈黙し、そして笑いだした。はじめは唇を横に引くだけだったが、次第に八重歯が見えるほど口が開かれ、目はらんらんと輝きを放った。肩が揺れ、クックックと笑みをこらえる息づかいが始まったところで、再び沈黙にもどった。
しかし今度は数秒で元に戻った。
女はいきなりベットの上で正座をすると、何もない空間へ向けて拳を突き上げた。そして鞄からノートパソコンを取り出し、ベットのサイドテーブルに載せて電源を入れた。ふと思い出したように、女は上着を脱いだが、途端にくしゃみをした。女はもう一度上着を身につけつつ、エアコンのリモコンボタンを押しながら
「まだ死ねない」
と呟いた。
一夜明けたとき、深夜までパソコンで作業していた女は帰宅したときのままの姿でベットの中にいた。携帯電話のアラーム音で起きると、はっと顔を引きつらせ慌てた様子でベットから出ようとしたが、すぐに動きを止めた。そして携帯電話を操作してどこかへ電話を掛けた。
「すみません。今日はちょっと体調が悪くて。はい。取材も入っていないので自宅作業にさせていただいてよろしいでしょうか。はい。申し訳ありません、ありがとうございます。よろしくお願いたします」
なめらかに会話をしていた女は、電話を切った途端にろう人形のような顔つきに戻った。そのまま、亀のようにのっそりとベットから体を起こし、シャワーに向かう。背中が丸まって姿勢が悪く、髪はそこらじゅうで絡まってタワシのようだ。歩く様子もナメクジが這うような不気味な連続性を持っている。女はこの世の者とは信じがたい奇妙さを放っていた。体は動いているが魂は入っていない、まるでゾンビのようだった。
しかしシャワーから出てきた女は一転、巣立つ直前の雛鳥のような躍動感に満ち溢れた動きで身支度を整え始めた。踊るように服を身に着け、高価な宝石に触れるような手つきで化粧をした。一つの工程が終わるたび、女の輝きは増していった。昨夜のお化け屋敷は時空の彼方に追いやられ、代わりに豪華な貴族の館が用意されたようだった。
一通りの準備が終わると女は外へ出るドアの前に立った。そして部屋の方へ向き直ると、大事な秘密を打ち明けるような細い声で「ありがと、バイバイ」と言った。そして部屋を出た後は一度も振り返らなかった。
それから女は繁華街に向かった。冬とはいえよく晴れており、太陽の光があたたかく降りそそいでいた。平日の午前10時はスーツ姿のサラリーマンや幼い子供を連れた女性などが多い。夜とは違う平穏な光景だ。
女は真っ直ぐファッションビルに向かった。開店したばかりで、女の他に客はまばらだ。女はどこかの店に立ち寄るでもなく、ぐいぐいフロアを進んでいく。口は真一文字に結ばれ、目はきっと前を見据えている。
エスカレーターで3階まで登ったところで女は降りた。そのまま直進するとひときわ広い空間を確保している店の前についた。店の前に置かれた大きなウィンドウの中では2体のマネキンがポーズをとっている。着せられている洋服は古典的でシンプルなデザインであったものの、良い生地で作られていることは明らかだった。女はしばらくウィンドウを見ながら立ち尽くしていたが、やがて意を決したように店の中に入っていった。「いらっしゃいませ」と応じた店員に向かって、女が「大事な用があるのでおしゃれな格好をしたいんです。洋服一式を見つくろってほしいのですが」と告げる声がした。
店から出てきた女は、家から着てきた服を一切身につけていなかった。かわりに真新しいコートを着ており、コートの間からはシックな雰囲気のセーターとスカートが見え隠れしていた。ヒールのある靴を履いているせいで、身長まで高くなったようだった。防犯カメラで見たとして、先ほど店に入った女と同一人物だと見破るのは骨が折れる作業かもしれない。
女は片手に黒い革のバックを持ち、もう一方の手に店の名前が入った紙袋を下げていた。紙袋は大層膨らんでいたが、女は気にする素振りを見せずにまたぐいぐいとフロアを進んでいく。そしてファッションビルから出ると、今度は駅に向かって歩き出した。通行人のうちの何人かが、女とすれ違った後に振り返った。一人は映画のワンシーンのように口笛を鳴らした。女には聞こえていないのか、そうした注目にかまうことなくずんずん進んでいく。
駅に着いた女は、大きめのゴミ箱の前で立ち止まった。そして紙袋をもちあげると、中に入っていた洋服を全てゴミ箱に放り込んでいった。ジーパン、シャツ、くつ下、コートまでも。一寸のためらいも感じさせずに女は服をどんどんゴミ箱に入れていく。周囲の人間も女の行動に気がついているようだったが、誰も咎めはしなかった。女はただゴミを捨てていた。
電車で移動し昼頃に表参道に着いた女は、またどこかへ向かってぐいぐいと進んでいった。途中で道端に置かれた看板を見つけると、よくよく眺めたうえで店の中に入っていった。看板にはランチメニューが書かれていた。ビジネス街の相場の3倍近い金額だったが、女に気後れするような気配は感じられなかった。
飲食店から出てきた女は、またずんずん歩いた。しばらくして大通りから外れ、携帯を見つつ何かを探すように視線をあちこちへ動かしていた。そうして何度か道を曲がったところで「あった」と言いながら立ち止まった。そこはまるで小人の隠れ家のように可愛らしく、入り口がわかりにくい美容室だった。素人が手作りに挑戦したのか、入り口脇の壁には塗料のムラが残っている。窓は小さく高い場所にあり、道路からは中の様子が見えない構造になっていた。女は携帯の画面と店の入り口を交互に見比べていた。数回の確認のあと、女はゆっくりドアを開けて中に入っていった。
約3時間後、女は全く別人のようになって美容室から出てきた。髪はどこも絡まっておらず艶っぽくすらあった。毛先に向かってゆったりとした曲線を描いており、女が歩くリズムに合わせてサラサラと揺れていた。女は顔つきまでも変わってしまったようで、店に入る前と比べて目がひと回りも大きくなっていた。
女の足取りは軽い。美容室を出てからずっと歩きつづけている。午前よりも多くの人がすれ違った後に女に向かって振り返った。そのうちの何人かは女の周囲にも目を凝らしていた。何かの撮影をしているとでも思ったのかもしれない。
渋谷駅に着いてからも、女への視線は絶えることがなかった。むしろさらに極的に女へ声を掛ける男が数人現れた。数人がかりでしつこく言い寄る若者のグループもいた。女は何度か「ごめんなさい。そういうんじゃないんです」と答えていた。
女が渋谷駅前に立ち始めてから30分後、それまでじっと女の様子を伺うようにしていた男がそっと近寄ってきて「誰かと待ち合わせですか」と尋ねた。女は男へ向き直りながら、目を大きく見開いた。その表情は、人間の体が真っ二つに割られる手品を初めて見せられた子どものようだった。女は返事をしようと口を開く。その唇はわずかに震えていた。やっと漏れ出た言葉は「待ち合わせしてたんですけど、振られちゃいました」というものだった。女の動作を不審がることなく、男はすかさず「ぼくも一緒です。よければ一緒に夕飯でもどうですか」と誘った。
女と男の一往復半のやりとりを、周囲の人間がそれとなく聞いていた。そして誰もが「『そういうんじゃない』らしいよ。残念だね」という顔をしていた。男の直前に女へ声をかけていた若者グループも二人の様子を遠巻きに眺めながらニヤニヤしていた。グループのうちの一人が「ぼっちゃんじゃあ無理だよぉ」と侮蔑の言葉を投げかけた。
しかし女は大方の予想を裏切り、男に向かって「わたしでよければ」と返事をした。男はその返事がさも当然と言わんばかりに「じゃあ行きましょうか」と女の手を取る。女は少し身を強張らせたようだったが、抵抗するわけでもなく男についていった。女と男が離れていく後ろ姿に向かって、若者グループのうちの一人が唾を飛ばした。
女は男と数時間一緒に過ごした。女が渋谷駅に戻ってきたときには22時半を回っていた。ハチ公前にたむろしていた人間は入れ替わり、渋谷はすっかり夜の顔を見せていた。あちらこちらに怪しげな露天や演奏家、大道芸らしき動きを見せるものまでいた。複数のタバコや香水の匂いが入り混じって、駅前は臨終間際の病人の夢のようだった。女は周囲にまったく目をくれず、通路に残された吐瀉物の残骸を避けながら一目散に改札を抜けていく。複雑な渋谷駅構内を我が物顔で足早に進み、女は地下深くの副都心線のホームへたどり着いた。
すぐに元町・中華街行きの電車がやってきた。深夜と言えども、渋谷駅では多くの乗客が降りていく。女は人がまばらになった電車に乗ると、乗降口のすぐ脇の席に座った。そのまま手すりに身を預けるような姿勢になり、目をつむる。
渋谷から数えて二つめの駅に着いたところで女は目を開ける。再び蝋人形のようになった女は、釣り糸で体を引っ張られているようなぎこちない動きで電車を降りた。
ほとんど人気のないホームに女は一人で立っていた。しばらくは時刻表の看板を見たり、ホームの端に立って線路をながめたりしていたが、やがて電池が切れたかのようにベンチに座り込んだ。
女の目はどこにも焦点が合っていない。うなだれるでもなく、のけぞるでもなく、ただただ背中を丸めて女は座っていた。胸や肩が上下する様子はわずかで、いよいよ本物の蝋人形になったかのようだった。所有者に存在を忘れられた蝋人形は世の中にいくらでもあるだろう。歴史資料館の片隅に置かれ永遠に同じ表情を取り続ける蝋人形のことを、帰宅後も思い出す子どもはいない。女は愛するものの視界に入れず、かといってこの世界から消えてなくなるわけでもなく、ただただ存在し続けていた。
ふいに、子どものお遊戯会で流れるような明るい電子音が流れ、次の電車がこの駅を通過すると人工的な音声が告げた。
硬直したまま座っている女の目の縁が赤くなる。頬や首の毛細血管に必要以上の血液が流れ込む。少しずつ少しずつ、女の顔が小刻みな震えとともに歪んでいく。それまで覆っていた蝋が体温で溶かされ、中に塗り込められていた生身の人間が姿を現したかのようだった。
人工的な音声が「間もなく電車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください」と注意を促した。それを合図にしたように、女の体はベンチから離れる。一歩、また一歩、これから電車が猛スピードで飛び込んでくる線路に向かって女の体が引き寄せられる。もはや女の意志とは関係なく体が動いているようで、ぎこちなく震えながら脚が交互に前に出された。狭い歩幅ながら、しかし確実に前へ進む女。線路の奥では電車の警笛が響いた。
女の足は止まらない。一歩、また一歩。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます