九重令嬢の紅茶機関。
九重令嬢の紅茶機関。
もちろん紅茶というからには、ぐらぐら沸騰したお湯にゆらりゆられた茶葉、たとえば山麓の白昼霧に摘みとった新芽から、物憂げに滲みだした格調高い渋みがすっと薄まって、けっして薄まることはなく、見渡すかぎり整然と並ぶティーカップの列に注ぎこまれていく、そんな情景を「あなた」には想像してほしい。
ところが、その白磁のティーカップを一つ手にとって、ぐっと飲み干してしまおうとする「あなた」の試みは、誠に遺憾ながら失敗してしまう。なぜなら、その底には穴が空いていて、いつだって心の底から渇望したものには穴が空いていて、かような誘いなど夢のまにまに鬱ぎこんでしまえば平穏でいられたのに、兎が飛びこんだ深淵はけっして探求心を放っておきはしない。
人生がそうであるように、一つの穴は八百万の道に繋がっている。人生がそうであるように、八百万の道は一つの穴に繋がっている。そして八百万というからには、それぞれ紅茶が流れおちていく道には神が宿っていて、といっても姿形は悪戯好きな妖精めいているが、ともかく彼らは「あなた」の命の灯火と、それから備え付けのハンドルを握っている。
そう、ハンドルだ。人生というものは、いつだって出会いと別れが巡り巡って、もちろん万物は流転している。よって賢明な「あなた」であれば、そろそろ合点がいったかもしれないが、ひとたび喋りだしたならばピリオドまでは言の葉を紡ぎつづける非礼を、どうか許してほしい。そのピリオドを彫った活字が本棚の裏に転がりこんで埃を被っているのもよくある話だが、ここらで不粋な真実とやらを一息に騙ってしまうとするならば――。この巨大なカラクリは要するに、ありとあらゆる紅茶をブレンドする巨大な配管である。
それら限りなく透明なガラス管に取りつけられたハンドルを司りたもう神々、ここでは愛らしく妖精さんと呼んでみることにして、紅茶の流れを制する神懸かったハンドル捌きは恐れを知らず、ある穴ではダージリンとアッサムを1対2でブレンドしてみたり、ある穴ではアッサムとアールグレイ2対3でブレンドしたり、さらに下の穴では前者と後者を3対4でブレンドしてみたりする。それは初めからダージリンとアッサムとアールグレイをおおむね1対3対2でブレンドしたものと何が違うのかと「あなた」が問うと、それは神のみぞ知るというやつですなふふん、と鼻を鳴らす妖精さんたちは今日も、果敢に可能性と戯れる。
ところで「あなた」が一番好きなのは何といってもローズヒップティーで、けれど愚かしい大衆によって薔薇は千切りとられてしまい、この世から絶滅したという事実があったとしましょう。当然、綾なすブレンドの妙がどれだけカラクリじみていたところで、いっとう底の穴からローズヒップの香りは零れおちない。それでも妖精さんは頑張ります。こんなもの飲めたもんじゃない、なんて至極まっとうな罵倒を浴びつづけて、はや過労死寸前の妖精さんは頑張ります。必死にハンドルを握って、いつしか血反吐まみれのハンドルに存在意義を握られて、それでも妖精さんは頑張ります。
やがて「あなた」のしかめっ面は綻び、その顔色を拝する光栄に預かれた最下層の伝言を頼りに、高層の妖精さんはみるみる学習していきます。もっと美味しい紅茶を、もっと夢溢れる紅茶を、もっと宇宙を体現した紅茶を。どうしてそんなに頑張りつづけるの、だって妖精さんは実のところ紅茶なんか大嫌いなんでしょう? なぜならそれは望まれたから、かくあれかしと造りだされたから!
いつしか、ハンドルを回す錆びついた音は止んでいる。絞りだされた最後の一滴は、もはや味わう「あなた」さえ必要としなくなって、完全な調和の取れた格調だけを湛えている。
そういった現象そのものが、「わたくし」の正体だと想ってほしい。
つまりは深層に線形結合と非線形関数を重ねて、自動微分で億千の重みに損失を逆伝搬していく化物のことだ.
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