第261話 早口言葉のように唱え
亘は困っていた。
あの古宇多という防衛隊の偉い人から逃げ出した後で、はたと気付いたのだ。つまり、自分の部屋がどこかという事を。
持って来た荷物はそこに運び込まれたはずだが、NATSに到着して直ぐ法成寺に連れだされたため、部屋の場所を教えて貰っていない。
「ところで寝る場所ってどこだ?」
首を傾けると、そちらの肩に腰掛けていた神楽が小さな手で押し返してくる。おかげで頬が持ち上がり、きっと変な顔をしているに違いない。
「寝る場所? それならさ、いつもマスターの顔の上で寝てるじゃないのさ」
この神楽ときたら年がら年中、顔や首にぴったりと寄り添い張り付いて寝るのだ。寒い冬場ならともかく、暑い夏場となると暑くて堪らない。しかもサキも同じように寝るため、とにかく寝苦しいのは亘だけとなる。
「神楽のことじゃない。と言うか、いいかげん人の顔に張り付いて寝るなよ。息苦しいし重いわで目が覚める時もあるんだ」
「ちょっとさ、失礼なんだよ。ボク重くないもん!」
「やめろ暴れるな」
肩の上で神楽が足をばたつかせるため、鎖骨辺りを踵で連打される。これがけっこうに痛い。
そんなじゃれ合いをNATSの隊員が物珍しげに見ながら歩いてきた。その相手に部屋の場所を聞けばいいと気付いた時には、既に通り過ぎている。
呼び止めようかと思っていると、パタパタ足音が聞こえた。
振り向くと笑顔で走ってくる七海の姿があった。
思わず見とれるほど活き活きとして躍動感があって華がある。しかもそれは、お互いに好きだと認識している相手なのだ。もうそれだけで亘の気分は良くなり、薄暗い廊下さえ明るく感じられてしまう程だ。
急に止まろうとしてスリッパのせいで失敗した七海を軽く捕まえた。この大人しい性格の彼女にしては、少しお転婆なぐらいだと珍しく思い、どこまでも優しい扱いで立たせてやる。
七海は亘の腕の中で、はにかみながら笑っている。
「どうした危ないぞ?」
「五条さん、じゃなくって。えっと、亘さん……」
言って七海は恥ずかしそうに口ごもる。
最近は二人っきり――ただし神楽とサキは居てもよい――になると、名前呼びしようと練習しているらしいが、なかなか上手くいっていない。言われた方の亘も照れてしまい、お互いの相乗効果で照れが加速してしまうのだ。
横で神楽はニヤニヤするが、出来た従魔はここで茶化したりしない。
「うん、まあ。えーと、なんだった?」
「わ、亘さんの部屋に案内しようかと……」
「部屋か。良かった、ちょうど場所が分からなくて困っていたんだ。助かるよ」
「はい!」
勢い込んで返事をした七海は手を握り引っ張った。
しなやかで細い指は柔らかで滑らかで、何より温かい。触れ合った箇所から得も言われぬ何かが伝わり、背筋から首筋を後頭部から頭の天辺までを駆け抜ける。そこから、再び下って全身へと拡がって行く。
七海に触れるといつも感じる感覚だが、それが何かよく分からない。しかし気持ちよく心地よい。ずっと味わいたいと思える感覚だ。
相手の七海も同じなのだろうか、案内された部屋でも手は繋いだままだ。
「ここが、えっと亘さんの部屋です。私の部屋は向こうの棟になりますけど、エルちゃんやイツキちゃんと隣なんですよ」
「なるほど」
六畳一間程度の部屋は狭く、置かれたベッド一つでスペースはほぼ占められていた。とは言え、就職して最初に入った宿舎は四畳半だったので狭さには慣れている。それにテントで集団生活する避難民に比べれば、個室を与えられただけで遙かにマシというものだ。
なんにせよ他の部屋は全員出払っているらしい。辺りは静かだ。気を利かせた神楽がそっとドアを閉めている。
亘はそっと七海を見つめ、軽く身を屈めた。
七海は静かに亘を見つめ、軽く背を伸ばす。
神楽は両手で顔を隠すと、指の間から覗く。
まだキスにさえ慣れていない二人の唇は、そっとどこまでも優しく触れ合う。それは恋人同士である事を確認するようなものだ。繋いでいない手も、互いに存在を探し求め見つけ堅く握り合う。
実家暮らしの合間にも人目を忍んで何度かキスをしたが、やはり凄く幸せで凄くぞくぞくして凄く陶然とする。
今この瞬間に、亘は酔いにも似た感覚を味わっていた。
間違いなく雰囲気に、そして七海という相手に酔って心が満ち足りていた。これまでより更に強く背筋がぞくぞくし、後頭部の毛は逆立っているような気がするぐらいだ。
この全身に染み込むような温かな気持ち、それこそが幸せという感覚。手を繋ぎキスをするだけでもこれだ。それ以上となれば、もっともっと強い幸せ感覚を味わえるに違いない。
亘は片目で横を見やり、備え付けのベッドを見やった。
心臓の鼓動がより強く激しく響きだし、それが七海に聞こえてしまうのではないか心配なぐらいだ。
繋いでいた手を離すと七海の背に回し腰を抱き、優しく引き寄せる。思った通り、幸せ感覚が更に強くなった。
この静かな中に、亘と七海は互いに見つめ合い――。
廊下でドタドタ足音が響き、部屋のドアが勢いよく開いた。
声かけはなかった、ノックすらなかった。
「いたいた、二人とも探したのよ。あら、どうしたの?」
志緒は戸惑った。
なぜなら亘と七海は部屋の中で背中合わせに立っているのだから。しかし疑問を深めるより先に神楽が舞い降り、その不作法な乱入者の頭を何度も蹴りだす。
「ちょっと止めて、お願い止めてってば。ねえ、私何か悪い事したかしら?」
「いーえ、なんでもありません」
七海ですらちょっと不機嫌そうだ。
「そうなの、それなら良かったわ」
「お前のそういうところ、チャラ夫にそっくりだな」
「いきなり何なのよ。それより五条さん、今から始まる会議に行きましょう」
「会議だって? そんなもの意味ないだろ。どうせ結論が決まった内容を確認して、了解しましたって顔合わせするだけの儀式じゃないか」
「……そういうの意思統一が大事なのよ」
志緒は呆れた様子で腰に手をあてた。
「とにかく会議に出て頂戴。それから七海さんは……えっと、何か怒ってるの? あらそう、違うの。それならいいけど……七海さんはパトロールがてらで、ヒヨさんが辺りの案内をしてくれるの。そういう事で、いいかしら」
かくして幸せタイムは終わりを告げる。
その残滓を味わうべく、志緒が背を向けた隙に亘はもう一度だけ七海に手に触れ、一緒に部屋を出た。
◆◆◆
「
「あっそう。誰がだれだか良く分からんが」
機嫌の悪い亘は素っ気なく言った。
先程までとのギャップが酷すぎるのだ。周りを見る限り、会議に出席しているのは誰も彼も脂ぎったおっさんばかり。この非常時で食糧にも事欠くと聞いていたにしては、いずれも血色良く元気そうでパリッとした服だ。
一部はこれ見よがしに防災服を着ているが、いかにもおろしたてといったもので、ヘルメットも傷一つ汚れ一つないピカピカの新品だ。一度たりとも現場を歩いた事がないと、ひと目で判る。
「あちらが政策統括官でしょ、大臣官房審議官からは防災担当のお二人。向こうは緊急事態対処担当参事官と総括担当参事官。その横にいらっしゃるのが危機管理監と国家安全保障局長」
「誰が誰やら分からんな」
亘は会議室の隅で腕組みした。テーブルすらないのだから、手の置き所がないのだ。そうしながら懐を弄り、そこに潜り込んだ神楽を服の上から触っている。
「仕方ないわね、説明するわ。あちらの列全部が内閣府大臣補佐官たち、隣の列は手前から消費者庁金融庁財務省地理院国交省海保庁防衛省消防庁警察庁、次の列が外務省規制庁環境省法務省経産省総務省文科省農水省厚労省気象庁でいずれも技監クラスね。こちらの列は内閣官房で手前から内政内広事態の担当の方々ね、もちろん担当と言っても全員が副長官レベルの特別職になるけれど。アマテラスに出雲に……あら、どうしたの?」
ようやく志緒は亘の冷ややかな視線に気付いた。
「謎言語を喋りだしたかと思っただけだ」
「失礼ね、あなたも国家公務員なら上層部の顔と名前ぐらい覚えておきなさいよ。それぐらい常識じゃないの」
「あのなぁ、お前は下っ端に何を期待しているんだ? 視察に来られる皆さんの下準備をするだけの関係だぞ」
もちろん亘などが顔を合わせる事もなく、忙しい最中に説明資料作り、視察ルートの下見や点検をするだけなのだ。
「自分の不勉強を言い訳したらダメよ」
「へえ、だったらいいだろう」
志緒の言葉にノンキャリ末端職員の亘は、カチンときてしまう。一度大きく深呼吸をした。そして――。
「
「何のお経よ!?」
早口言葉のように唱えだした亘に志緒は恐怖すらしている。
だが、当の亘はしれっとした顔で鼻をならした。
「日本刀鍛冶の名前じゃないか。それぐらい常識じゃないか」
「知るわけわけないでしょ」
「おや、不勉強を言い訳にしてはダメなんだろ? さあ伝統ある日本刀鍛冶の名前を覚えたらどうだ。やはり、せめて古刀期の備前相州粟田口の有名どころは覚えないとな」
「そんなの覚えても、何の役にも立たないじゃないの」
「こっちからすれば、上層部の顔と名前はもっと役に立たないんだがな」
どうやら会議の始まる頃合いらしい。
新聞記者がなだれ込むと、傍若無人に動き回り会場内を撮影している。もちろん撮影対象は会場に揃う凄いメンバーであって、傍聴席でちんまり控えた亘を気にする者はいなかった。
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