こぶし探偵ともちん

松田悠士郎

蘇る本能 #1

 陽光が斜めに差し込む朝の街を、漆黒の影が駆け抜ける。

 叶友也かのうともやは、全身を真っ黒なジャージで包み、軽快な足取りで私鉄の駅へ向かう会社員や学生を追い抜いて走る。まだ四月半ばだと言うのに、額から首筋へと大量の汗が流れ落ちて行く。

 駅を過ぎて、古びた雑居ビルに差し掛かった所で叶は足を止め、大きく息を吐いてからジャージの襟に手を突っ込み、中から首に巻いたタオルを引っ張り出して顔の汗を拭った。呼吸を整えながら近くの自動販売機に歩み寄り、ズボンのポケットから小銭を取り出してペットボトルのミネラルウォーターを購入した。その場で開栓して勢いよく呷る。

「ふぅ、美味い」

 呟いてからもう一度口をつけて一気に飲み干し、脇の空容器入れにペットボトルを入れた直後、不意に背後から呼びかけられた。

「おはよう、ともちん!」

 膝から崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪えると、叶は苦笑しながら振り返った。そこには、雑居ビルの一階で『喫茶 カメリア』を夫と営む椿桃子つばきももこが、上下ピンクのスウェットを着て、箒とちり取りを手にモデル立ちしていた。

「その呼び方、そろそろ勘弁してくれないかなママ?」

 叶が言うと、桃子は口を尖らせた。

「もう! ママじゃなくて桃ちゃんでしょ? 何度言ったら判るの?」

「あ、ごめん、も、桃ちゃん」

 叶は謝りながら『喫茶 カメリア』の横に開いたビルの出入口に入り、壁に設置された複数の中から『叶探偵事務所』と記されたボックスの扉を開けて、中からスポーツ新聞を取り出して閉めた。すぐ側のエレベーターは使わず、反対側にある階段で二階に上がった。昔からの習慣、と言うより癖である。

 踊り場をターンして顔を上げると、わずかに人の後頭部が見えた。

「何だ? こんな早くから」

 いぶかりつつ叶が階段を上ると、事務所の玄関扉の真ん前に立つ後ろ姿が徐々にあらわになった。

 腰の辺りまで伸びたつやのある黒髪、紺色のブレザーに緑のチェックのプリーツスカートという容姿は、完全に女子高校生のそれだった。ほぼ全身が見えた所で、叶は瞠目して足を止めた。

「あ、麻美あさみ?」

 呆けた様な表情で呟くと、震える両手を前に出して再び階段を上り、後ろ姿に近づいた。足が最上段を踏むと同時に、叶が目に涙を浮かべながら大声で呼んだ。

「麻美!」

 その声に驚いた女子高校生が咄嗟とっさに振り向き、涙目で薄ら笑いを浮かべながら覆い被さって来る叶の姿を見た瞬間、

「きゃあああぁっ!」

 と叫ぶなり両腕を思い切り振り回した。その手に提げられていた通学鞄が、無防備な叶の顔面にクリーンヒットした。

「ぶぇっ」

 不意打ちを食らった叶は、持っていたスポーツ新聞を舞い散らしながら吹っ飛び、階段を転げ落ちて踊り場の壁に激突した。

「何? 何があったのともちん!?」

 異変に気づいて階段を駆け上がって来た桃子が叶を抱き起こすと、叶は焦点の合わない目で虚空を見ながら、

「凄ぇブーメランフックだ、ぜ」

 と言い残して気を失った。


《続く》


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