第6話 邪悪なるモノ

「私立零梅高等学校で社会科を担当している丹羽と申します。この度は、当校の生徒が大変なご迷惑を……」

「迷惑どころの話じゃないですよね」

 丹羽先生が頭を下げようとしたのを手で制し、松山がいきなり辛辣な言葉を吐いた。本気で容赦をする気が無いようだ。

「そこの馬鹿万引き犯が盗ろうとしたの、税抜五五二円のコミックが七冊ですよ。もし取り逃がしていたら、三八六四円の損失です。丹羽先生、三八六四円と言ったら、あなたの昼食何日分ですか?」

「……十二日分ですね。十三日分には少し足りないです……」

 丹羽先生、毎日昼食が牛丼の並盛であると思われる。松山が「うん」と頷いた。

「例えばの話、丹羽先生がいつもカツカツの生活をしていたとしまして。誰かのせいで三八六四円を失った。十二日間昼食を摂る事ができない……なんて事になったら、迷惑で済みますか?」

「それは……」

「済みませんよね? 三八六四円って大きいですよ。特に、あまり収入が多くない者にとってはね。ご存知と思いますが、昨今の本屋はどこも苦しいです。インターネット販売に押されて、売り上げが軒並み下がっている状態ですからね。たかが三八六四円なんて言ってられないんですよ。迷惑どころの話じゃないんです。潰れるかどうかの死活問題ですよ」

「……」

 丹羽先生が黙り込んだのを見て、松山がはぁーっ、と大きくてわざとらしいため息を吐いた。そして、すっかり小さくなっている万引き少年の方を見る。

「かーわいそっ! 先生は何にも悪くないのにねぇ。教え子が万引きなんて馬鹿な真似をやらかしてくれちゃったせいで、やりかけの仕事ほっぽりだして用の無い本屋に行く羽目になって、こんなに理不尽に嫌味言われまくって。これで時間取られているから、今日はきっと残業だよねぇ。改めて生徒に万引きするなって指導しなきゃいけなくて、仕事も増えちゃったよねぇ。先生には残業代なんて出ないって聞くけどねぇ、サービス残業しなくちゃねぇ。本当かわいそう。馬鹿な教え子が、万引きなんてしなきゃ、こんな事にはならなかったのにねぇ。本当、かーわいそーっ!」

 見ている方の胃が痛くなってきた。早くこのやり取りを終わらせてほしいと考えながら、暦はチラチラと扉を気にする。……が、誰かが入室して空気を変えてくれる気配は無い。

 それにしても。毎度暦は思うのだが、松山の嫌味はいささか度が過ぎているのではないだろうか。これでは、万引き犯が逆ギレしてしまってもおかしくない。

「ちょっと、何なんですかさっきから!」

 ほら、キレた。ただし、キレたのは万引き少年ではない。丹羽先生と一緒に入ってきた、四十代半ばほどの女性だ。

「うちのマサくんが万引きをしたのが本当だとして、そこまで言う必要があるんですか!? ちゃんと反省して、商品を返せば済む話じゃないですか!」

 どうやら、母親のようだ。暦は先ほど失敬した生徒手帳の名前をちらりと見る。齊藤正義。正義が万引きとは、これまた皮肉な話だ。

 齊藤母の言葉を受けて、松山がハッと鼻で笑った。更にアクセルを踏み込む気満々のようである。帰りたい。

「何か勘違いをなさっているようですけどねぇ。商品を返して反省すれば済む話じゃないんですよねぇ」

 寒い。本当に空気が寒くて重い。誰か温かいスープを下さい。

「万引きって言うのは中毒性があるらしくって、一度やると何度でも繰り返しちゃうらしいんですよねぇ。反省したように見せかけて、何度も何度も万引きを繰り返す馬鹿の何と多い事か。このお馬鹿ちゃんが初犯だって証拠はどこにあります? 以前に盗んだ商品を返されても、困るんですよ。今回は持ち帰って開封される前に発見したので事なきを得ましたけどねぇ。そもそも、一度万引きされた商品は棚に戻す事ができないんですよねぇ。一度でも開封されてしまったら、それはもう中古品ですから。返されたところで売る事ができないんじゃあねぇ。なら、買い取ります? そうやって買えば済むと思わせれば、またやりますよ。絶対に。今回は八パーセントの税込で四一七三円ですけど、本って一冊一万円する物もあるんですよ? では、お子さんが万引きした商品、合計十万円お支払い願いますって言われても、ポンと支払えるんですか? 渋りますよねぇ? けど、渋れば警察沙汰にされるし、面倒ですよねぇ? そうならないようにするには、どうすれば良いか? 確実に反省させるしかないですよねぇ? どうやって確実に反省させるか? 二度と万引きなんて馬鹿な真似はしないようにしようと心の奥底から思えるくらいの深ぁいトラウマを、刻み付けてやるしかないですよねぇ? だから僕は、痛む心を抑えながら、こうして嫌味を交えた説教をするんですよ? それもこれも、お子さんが世間様に迷惑をかけない、正しい社会人になるためです。これ、本来は親であるあなたがやるべき躾ですよねぇ。わかってます? あぁ、痛い。本当に心が痛いですよ。あ痛たたた……」

 絶対に嘘だ。心なんて一ミリも痛んでいないに決まっている。それにしても、今回も四百字詰め原稿用紙二枚以上分の文字数を噛む事無くつらつらと――しかも誰にも口を挟ませる事無く――言い切った松山のトーク術には少々感心する。トークの質に問題はあるが。利益の計算がどこかおかしいような気がするのに、それを深く考えさせずに押し切ってしまうという点が、悔しいが、すごい。

 何やら、齊藤母がぷるぷると小刻みに震え始めた。松山の言葉に腹が立ったが、言い返す言葉が見付からないという顔だ。あの量の嫌味を真正面から聞かされたのは少々気の毒ではあるが、先ほどの「反省して商品を返せば良い」発言には暦もカチンときていたため、擁護はしない。……と言うか、こうなったのは元をただせばあなたの躾の結果です。ざまあみろ。

「あと、ついでにこれも教えておきましょうかねぇ」

 松山は更に追撃をするつもりらしい。齊藤母子と丹羽先生のライフはもはやゼロに近いが、まぁ、やめてと言ったところでやめる松山ではないだろう。放置しておく事にする。それよりも誰か温かいスープを下さい。

「知らない方が多いんですが、一冊の本を売った際に本屋に入る利益は、本の価格の五パーセントから十パーセントほどなんですよ。例えば、五百円の本が一冊売れたら、本屋の取り分は多くて五十円、残りの四百五十円が出版社とか、作者とかの取り分になるわけですね」

 突然始まった本屋の売り上げ講座に、暦以外の人間はぽかんと口を開けた。暦は何度も聞いた事があり、耳にタコができている話だ。

「本屋は、出版社から商品を預かっている身ですからね。五百円の本が一冊盗まれれば、本屋の損害はまるっと五百円です。けど、売ったところで五十円の利益にしかならない。つまり……」

「……つまり?」

 社会科教師だけに、察したのだろう。丹羽先生が恐る恐る次の言葉を促した。

「五百円の本を一冊盗まれたら、店の損害は五百円。その損失を埋めてプラマイゼロにするためには、同じ価格の本を十冊売らなければいけない。そういう事になりますよねぇ?」

 そして、正義少年がスクールバッグに入れていた七冊のコミックを指差して見せる。

「今回、このお馬鹿ちゃんが盗ろうとした本は、全部で七冊。もし窃盗が成功していたら、こちらは単純計算で七十冊売らなきゃ損失を埋める事ができないんですよ。もちろん、従業員を雇っていますし諸経費もかかりますから、売り上げがプラマイゼロではダメですよねぇ。先ほども申し上げましたが、昨今はインターネット販売に押されて、本屋の売り上げは軒並みよろしくないです。そんな状況で、七十冊余計に売らなければいけないなんて、どれだけ酷な事かわかります? 迷惑どころの話じゃないですよねぇ?」

「……」

「……」

「……」

 齊藤母子が、丹羽先生が、黙り込んだ。松山も黙り込み、暦と栗栖も発する言葉を持たない。場は、再び寒くて重い沈黙に支配された。

「あのー、店長?」

 再び足立が扉を開けて顔を覗かせた。六人全員が視線を向けると、足立は少々居辛そうな顔になる。

「警察の方がいらっしゃいましたけど……」

「警察!?」

 途端、齊藤母子が目を剥いた。その表情に、足立は「ひっ」と短く悲鳴をあげると、思わず顔を引っ込める。扉が閉まり、彼はそのまま店に戻ってしまった。

「警察呼ぶなんて聞いてないですよ!」

「いや、普通呼びますよねぇ? 未遂とは言え、窃盗事件なんだし」

「……ってか、一体いつの間に呼びやがったんだ!?」

「高校に電話をかける時に、一緒に。君は僕に嫌味を言われ続けてたから気付かなかったのかもしれないけど、うちの店では万引きを見付けたら、最初っから通報する事になってるんだよね」

 瞬時に、齊藤母子が暦を睨み付けた。蛇に睨まれたカエルのように、暦は体が硬直して動かなくなる。

「さっきまで散々、そちらが警察を呼んだら、みたいな言い方をして、こっちを脅しておいて! 結局最初から呼んでるなんて卑怯だ!」

「……どの辺が卑怯なのかよくわからないんですが。警察を呼ばれたくなければ、みたいな事なんて一言も言ってませんよね、店長」

「シッ!」

 思わず余計な事を口走る栗栖を、暦は慌てて黙らせた。……が、言葉を声に出してしまった以上、後の祭りだ。

「笑ったわね! 鼻で笑ったわね!? 客を落とし入れておきながら鼻で笑うなんて、一体この店はどういう教育をしているの!?」

「笑っていませんよ。被害妄想が過剰じゃありませんか?」

「万引きするような奴と、客という立場を神様か何かと勘違いしているような輩は、うちの店では客として認めていないんですよねぇ。ただのクズって呼んでます」

「あ、勿論バックヤードで、ですよ。こんなにはっきりと正面切って言ったのは、例えこんな店長でも今回が初めてです。……と言うか、ただのクズって呼ぶようになったの、今日からですから」

 栗栖と松山が冷めた目で淡々と言い。暦も自棄になってフォローになっていないフォローを繰り出した。

 当然の事ながら、齊藤母子の目付きは更に険しくなっていく。怒髪天を突く、という言葉が頭を過ぎった。一人置いてけぼりを喰らった丹羽先生は、唖然とした後におろおろと全員の顔を見渡している。今回最大の被害者は彼であるような気がしてならない。

 そして、それは突然起こった。

 ズン、という腹に響く音がした。ただでさえ薄暗い事務所が、更に暗くなる。急に息苦しくなり、胸がモヤモヤし始めた。

「……? 何だ、急に……」

「あー……やっちゃいましたね……」

 天井を見上げながら、栗栖がため息を吐いた。つられて見てみれば、天井に黒い煤のような物がどっさりとこびり付いている。

 この期に及んで、天井が煤まみれだから掃除しなきゃなー、などと思う暦ではない。……と言うか、平成の書店バックヤードで煤が発生するような事態が想像できない。

「……天津君、一応訊くんだけど。アレは何かな……?」

「見ての通りですよ。人々の心の闇が生み出した、邪悪なるモノです」

 言い方。

「店長の万引き犯を憎む気持ちと。万引き犯の、警察を呼んだ本木さんに対する逆恨みの気持ち。逆恨みの他に、我が子の悪行を何とか無かった事にしたい万引き犯母の気持ち。それらが混ざり混ざった上、そこらにいた雑霊を取り込み、悪霊合体をしてしまった……。それが、アレです」

 何故二人とも、松山ではなく暦を逆恨んでいるのか。確かに呼んだのは暦だが、それは店の方針であるし、説明したのも最初に煽ったのも松山だ。

 それはさておき。

「店長の万引きを恨む気持ちとか、警察呼ばれた事に対する逆恨みなんて……これまでにも嫌と言うほどあったよ? けど、今まではこんな事、一度も無かった。それが、何で今日は……」

「恐らく……先ほど、黒の丞を召喚したからでしょうね。式神である黒の丞が店内に出現した事が呼び水になって、この店は一種の霊的スポットに変化しつつあるんだと思います」

 結局のところはお前のせいか。

「……どうするつもりなの、これ……」

 諦めた顔付きで暦が問えば、栗栖は「そうですねぇ……」と思案顔だ。式神を召喚する事に関してはもう何も言う気は無いが、召喚するなら召喚するで、その後予測される事態の後片付け方法も考えておいて欲しい。今思案するな、今。

「まぁ、あとでちゃんと調伏はしますが……とりあえず、ひと暴れさせてみましょうか。痛い目を見れば、愚かなる万引き犯とその母親も、少しは反省するかもしれませんし」

「いや、あのね? いくら万引き犯でも、店の中で怪我するような事は止めて欲しいんだけど……」

「呪いや霊の仕業なら、現代の……平成の世では犯罪になりませんよ?」

「そういう意味じゃなくって」

「痛い目見させるのは大賛成なんだけど、呪いや霊の仕業って事をどうやって他の人に信じさせるか、だよねぇ」

「店長、何言ってんですか」

 こんな物騒な会話をしているにも関わらず、万引き犯の齊藤母子や丹羽先生は突然の霊障による圧迫感でこちらの話を聞く余裕すら無くなっているようだ。今だけありがとう、邪悪なるモノ。

「大丈夫だと思いますけどね。邪悪なるモノは、体調を悪くする事はできても、ポルターガイストを起こして人に物をぶつけたり、特殊な力を使って炎を出したりはできませんし」

「なら、良いか」

「良くないですよ。突然全員が体調を崩したとか、どうやって警察に説明するんですか。……って、そう、警察! もう来てるんですよね!?」

 こんなにダラダラと喋っているのに、何故警察が部屋に入ってこないのか。暦が言えば、栗栖が事も無げに言う。

「あぁ、結界を張りましたので」

「はい?」

 いつの間に、どうやって。暦が口をぱくぱくと開閉させていると、栗栖はニヤリと笑って見せる。

「千年もの間、陰陽の術を何となーく学んできた我が天津家の実力、ナメないで頂きたいですね」

 いや、その紹介の仕方はナメざるを得ないだろう。暦はそう言いたいのを飲み込んで、むにむにと口を動かしている。そんな様子は意にも介さず、栗栖は上着の内ポケットをまさぐり始めた。先ほどは大量の呪符をしまい込んでいたポケットに、まだ何か入っているのか。

 栗栖は、内ポケットから右手を抜き出した。その手には、透き通った石――恐らく水晶で作られている数珠が握られている。

 数珠を素早く左手に巻き付け構えた栗栖の姿に、暦と松山は、思わず「おぉっ!」と声を発した。

「それっぽい!」

「たしかに……見栄えも良いですし、ああやって数珠を構えているとどこか平成の陰陽師、って感じはしますね……」

 その、「陰陽師っぽい」「それっぽい」という期待に応えるためだろうか。栗栖は数珠を構えたまま、右手を突き出し、サッサッと動かし、何か形を作り始めた。

「あ、何かあの動きも陰陽師っぽいですね」

「いわゆる、印を結ぶ、って奴だね。……何だ。本木君も何だかんだで、ノリノリになってきたじゃない」

「悪ノリでもしなきゃ、やってられませんよ。こんな状況……」

 肩を竦めてため息を吐き。そして、暦はヒュッと息を呑んだ。辺りの空気が、いつの間にか酷く冷たくなっている。

 ……いや、元々冷たくなってはいた。松山の万引きに対する嫌味攻撃で精神的に寒々しくなり、邪悪なるモノとやらが出てきてからは物理的にも冷えていた。

 ……が、今の冷たさは違う。例えて言うなら、冬の朝。それも、年が明けたばかりの朝の、吸い込むだけで体を清めてくれるような気がしてくるあの清々しい冷たい空気だ。

「……天津君?」

 思わず、その後ろ姿に呼び掛けた。だが、栗栖は答えない。ただ、淡々とした静かな声だけが聞こえてくる。

「高天原にかむづまりかむぎ神漏みの命もちて、是に荒振るまがものをばかみやらいに給いて、おのがじしたつを安くおだいにさきく有らしめんと御霊みたまちわう、神々のみたまのふゆを乞いまつり来しも、ゆくりなくも禍津神の禍事か……」

 何と言っているのか詳しい意味はわからないが、どうやら栗栖が唱えているのは祝詞だ。栗栖が一言口にする度に空気が清々しく軽くなり、モヤモヤとしていた胸が晴れ渡っていく。

 齊藤母子や、丹羽先生の顔にもホッとした表情が見て取れた。松山だけは、最初から全く顔色を変えていない。どういう事だ。

 仰ぎ見れば、邪悪なるモノとやらは先ほどよりも色が薄く、小さくなっているように見える。よくわからないが、あの祝詞らしき物で力が弱められている、と考えれば良いのだろうか。

 栗栖の横顔が、ニヤリと笑った。数珠を巻きつけた左手と、何も装着していない右手。両方を前に突き出し、凄まじい勢いで両手を組み合わせ印を結んでいく。

「臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」

 あ、なんかそれ漫画やアニメで聞いた事ある。そう、暦が思った瞬間、室内だというのに強力な風が吹き荒れた。風は机の上にまとめてあったスリップや注文用紙を巻き上げながら上昇し、小さくなった邪悪なるモノを包み込む。

 ギュオオオオォォォォン! という甲高く耳障りな音が室内に響き、暦達は咄嗟に耳を塞いだ。塞がずにいるのは、栗栖だけだ。

「往生際の悪い……流石は、万引き犯の逆切れの気持ちが元になっているだけありますね」

 軽く舌打ちをすると、栗栖は上着の内ポケットから一枚の呪符を取り出した。呪符を取り出したと一目でわかってしまった上にその光景を何の疑問も持たずに受け入れてしまっている己に、暦は戦慄する。

 栗栖は呪符を構えた。薄い紙の呪符が、栗栖の右手人差し指と中指に挟まれピシッと立っている。その呪符に、栗栖はフッと息を吹きかけると、邪悪なるモノに向かって勢いよく投げ付けた。

「疾く消し去れ! 急急如律令!」

 バシッという、電気がショートした時のような音。そして、邪悪なるモノと呼ばれた黒い煤のような物は一気に霧散した。息苦しさが完全に消え、清々しさも消え、辺りには埃っぽいバックヤード特有の空気が戻ってくる。栗栖が、呪符を放った右手と数珠を巻きつけた左手、両方を静かに降ろした。

「調伏……完了!」

「一応訊くんだけど、そういう台詞って言わなきゃいけないものなの?」

「いえ、言った方がそれっぽいと思いまして」

「だと思ったよ……」

 暦が疲れたように肩を落としたのと同時に、バックヤードに警察官が入ってきた。特に訝しむ様子も無く、何事も無かったかのように淡々と署名を名乗ったり事務的な話をし始めたりしている。

 栗栖は結界を張ったと言っていたが、時間軸を狂わせる効果でも付随している結界だったのだろうか。恐るべし、千年もの間何となーく陰陽道を学んできた一族。

「だから、この本屋おかしいんだって!」

 正義少年の声が、暦の耳に届いた。見れば齊藤母子は二人揃って、何事かを必死に警察官に訴えている。二人の指は、主に松山や暦を指差している。時折、栗栖にも向いているようだ。

「本当! 本当なんだって! 出入り口のところで黒くてでっかい化け物が出て、俺に襲いかかってきたんだって!」

「襲い掛かってきたって言ってもねぇ……君、どこも怪我してないじゃないか。夢でも見たんじゃないのか?」

「私も見ました! この部屋の中に、真っ黒の煤のような物が拡がって、急に息苦しくなったんです! この本屋は、変な毒ガスか何かを作って隠しているのかもしれませんよ!」

「毒ガスって……」

 警察官が、思わず苦笑した。その横では松山が、小ばかにするように失笑している。

「そんな物使ったら、防護服も何も着ていない僕達までどうにかなっちゃうじゃないですか。大体、そんな煤がどこにあるんです? 目に見えるほどの濃度を持つガスが、そんなにすぐに消えますか? 消えたとして、そんなにすぐに体調が戻るもんなんですか? そんな物があるのだとしたら、それはガスじゃなくてお化けとか呪いとか、そんな感じの物の類になると思いません?」

「呪い……」

 丹羽先生が、ぽつりと呟いた。その場にいる者達の視線が、自然に集う。

「呪いというのは……そうかもしれません。あそこの……」

 指が、栗栖を指した。

「あの学生さんが祝詞のような物を唱えたり、何かお札のような物を投げたりした途端に、騒ぎが収まって……」

「夢でも見たんじゃないですか?」

 栗栖はにこやかに切り捨てた。

「先生、お勤め先の生徒さんが万引きなんて馬鹿な真似をやらかしてしまってお疲れなんじゃありませんか? 今、和暦で何年かわかります? 何時代ですか? 平成ですよ? 今時、お化けだ呪いだなんてあるわけないじゃないですか」

 迷い無き栗栖の言葉に、丹羽先生の顔は明らかに狼狽えている。見ていて気の毒になるほどだ。……が、気の毒という感想を抱いたのは暦だけであったらしい。

「まぁ、仮にこの書店の時空が捩じれて、ここだけ奈良や平安の時代になってしまい、呪いや化け物が現れてもおかしくない状態だったとしまして。出たの、別に僕達のせいじゃないですよね。……と言うか、彼が祝詞やお札で化け物退治したって事なら、寧ろ僕達、感謝されなきゃいけませんよね。化け物に襲われそうになっているところを助けてあげたんですから。それなのに何で僕達が化け物をけし掛けてあなた方を襲わせたみたいな話になってるんですか? 冗談じゃないですよ。まだ万引き犯が社会的制裁を受けて没落していく様を見ていないってのに、なぁんで一息で楽にしてやらなきゃいけないんです? 僕らはそんなに甘くありませんよ。万引き犯は真綿で首を絞めるようにじわじわと追い詰める。それも、自分の手を汚さずに。それが、この店のモットーなんですから」

「店長、俺、それ初耳です」

「うん、今からモットーにする事にしたから」

 松山と暦の会話に、警察官がくつくつと笑った。

「松山さん、相変わらずですねぇ。勘弁してくださいよ、警察官の前で真綿で首を絞めるだとか、自分の手を汚さずに、だとか」

「あ、すみませーん。つい、本音が」

 そう言って、松山と警察官は揃って爆笑し始める。万引き犯に悩まされ、犯人を捕まえようが捕まえなかろうが警察を呼ぶのは月に一度や二度の話ではない。オペレーターの女性が思わず「またですか?」と口走ってしまう程だ。松山とこの警察官も、既に顔見知り以上の仲となっている。

 一しきり笑ってから、警察官は齊藤母子を連れて裏口から外に出た。松山もそれに続く。

「それじゃあ、僕は事情聴取でちょっと警察に行ってくるから。本木君、後は頼んだよ? 何かあったら、携帯に連絡ちょうだい」

「はい」

 暦が神妙な顔付きで頷くと、松山はニコリと笑った。

「そんなに緊張しなくても、天津君が万引きGメンとして超有能だって事はわかったでしょ? 大丈夫、大丈夫。あ、もし他の万引き犯を捕まえるような事があったら、とりあえず僕の代わりにトラウマ植え付けておいてね!」

「俺にはハードルが高過ぎます!」

 悲鳴をあげた暦に「大丈夫大丈夫」と笑ってから、松山は出掛けてしまう。目の前に設置されたハードルの高さに、万引き犯がこれ以上現れない事を二重の意味で祈りつつ、暦はため息を吐いた。

「……まぁ、店長の無茶振りはいつもの事だけどさ……」

「大丈夫ですよ、本木さん!」

 気落ちした様子の暦に、栗栖が爽やかな笑顔を向けた。

「本木さんなら、きっとできます! 何しろ、本木さんにはどんな非日常的な光景もすぐに受け入れてしまう順応力があります。そして、あの松山店長の一番弟子! 今は不安でも、いざ本番となれば滞りなく万引き犯を打擲できると、僕は信じています!」

「信じなくて良いから。……と言うか、一番弟子? 誰が? 誰の?」

 顔を顰めながらも、暦はバックヤードの片付けを始めている。そんな暦を手伝いながら、栗栖は、ふ、と顔を険しくした。そして、小さな声で呟く。

「黒の丞が呼び水になったとは言え、こんな町の本屋なんて場所に、あれだけのモノを生み出す元になるような雑霊があんなにいるなんて……。これは……何かあるかもしれないな……」

「……天津君? 一応言っておくけど、全部聞こえてるよ?」

 小さい声と言っても、バックヤードは狭い。ましてや今は、暦と栗栖しかいない。口に出せば、大概の言葉は聞こえてしまうのが道理だ。

「……この時、僕達はまだ気付いていなかった。今日のこの騒ぎが、あの大事件の幕開けでしかないという事に……」

「不吉なモノローグを自分で言うんじゃない」

 暦が栗栖の頭をスリップの束で叩き、ぺしん、という軽い音がバックヤード内に響いた。

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