第3話 呪符がいっぱい
夕方になり、客数が次第に増え始めた。今は学校帰りの学生が多いが、もう少ししたら会社帰りの社会人も増え始めるだろう。
こういう、店内が混雑し始めた時間が一番怖いと、暦は思う。
客が増えれば客対応も当然増えて、スタッフの目は自然と店内に向かなくなる。人が増える分死角も増えるから、商品をこっそりと袋や上着に隠す事も比較的容易になる。人が増えれば、大勢で固まっていても目立たなくなり、グループの犯行による大量の万引きを許してしまう事になりかねない。
しかも、混雑し始めというのは、何故かスタッフの交代時間帯と被り易い。増え始めた客に慌て、引き継ぎもそこそこになってしまう。結果、不審な動きをしている要注意人物の情報が交代要員に伝わらないままになってしまう……などという事も少なくない。
暦のシフトは夕方から閉店時間までである事が多い。今日は変則的に、昼過ぎから夜の十時までだ。聞けば、栗栖もほぼ毎日、暦と同じようなシフトだと言う。
「つまり、混雑し始める時間帯から、店内がほぼ空になる時間帯まで……って事?」
「そうなりますね」
コミックの在庫チェックをする暦の横で、栗栖は頷いた。万引きGメンである栗栖は、店のエプロンは着けない。何も知らない者が見れば、店員と仲が良さそうなただの客だ。
いつもより格段に早く終わったチェック表を眺め、暦はため息を吐く。コミック根こそぎ万引き事件から、まだ数日。ぼちぼち補充は入ってきているが、棚にはまだまだ空きが目立つ。
空きの多い棚と、ため息を吐く暦と。交互に見てから、栗栖は真剣な眼差しで拳を握った。
「……許せませんね」
「……天津君?」
栗栖の目は、今や棚の空きスペースにがっちりと縛り付けられている。上がり気味だった口角が下がり、唇が動いた。
「本屋とは本来、とても楽しい場所のはずです。お客さんは未知の物語への期待で胸を躍らせ、お店の人は自らが薦める本をお客さんが買っていってくれる事で喜びと共感を得る。本屋とはそういう場所だと……少なくとも僕は、認識しています」
「……そうだね。自分に合った本を探す時、面白そうな本を見付けた時、それを買って家に帰るまでの道のり。その全部にワクワクする気持ちがある。自分の好きな本を、もっとたくさんの人に好いて欲しくて、一生懸命ポップを書いたり、陳列に頭を悩ませたり。お客さんがそれを見ているとドキドキするし、レジに持ってきてくれた時は語りたくなるのを必死に抑えてる。……うん、お客さんもお店の人も、どちらにも楽しい場所だよ、本屋は」
思いがけない真面目な言葉に、思わずしんみりとして暦は頷いた。頬が、少しだけ緩む。だが、逆に栗栖の顔は更に険しくなっていく。
「そんな楽しい場所で、犯人は窃盗という愚行を犯しました。棚を空にし、誰の目にも留まる事無く立ち去る事で、お客さんの本を選ぶ楽しみと読む楽しみ、お店の人の共感と喜びを得る機会を奪ったんです。許す事ができません!」
頭から湯気を出しそうな程怒っている様子に、暦は栗栖の認識を改めた。何だ、ただの変人じゃなくって、ちゃんと人の気持ちを慮る事のできる良い子じゃないか。
「ですから、今後そのような愚行を犯すような人間には、きちんと然るべき制裁を受けて頂きましょう」
「……待て。今本に何を挟んだ?」
栗栖への認識は、一分と経たずに元に戻った。栗栖は暦の問いにどう答えるか言葉を探すような顔をしながらも、次々に上着の内ポケットから細長い紙切れを取り出し、スリップと同じようにして本に挟み込んでいく。
一冊から取り出して見てみれば、そこには赤色の梵字やら漢字やらが割と達筆な筆遣いで書かれている。
「……天津君さぁ……一応訊くけど。これ、何?」
顔を引き攣らせながら問う暦に、栗栖は「え?」と首を傾げた。
「呪符ですよ?」
当たり前の事と言わんばかりの栗栖に、暦は再び眩暈を覚えた。倒れそうになるのを堪えながら、問いを重ねる。
「呪符って……何? 参考までに訊くけど、何の意味があって挟むの、これ?」
まさか、この呪符を挟んだ本は万引き犯が手を出さなくなるというような都合の良い物でもないだろう。そんな物があるのであれば、是非全国の出版社はスリップの裏面にこの呪符を印刷するようにしてもらいたいものだ。
「この本が狙われなくなったところで、別の本が狙われるだけです。それでは、いつまで経っても万引き犯は減りません」
暦の心を読んだかのように、栗栖は言った。暦が抜き取った呪符を本に戻しながら、どこか誇らしげな顔をする。
「この呪符には、一枚一枚に僕の霊力が込められています。もしこの呪符が挟み込まれた本を、レジを通さずに店外へ持ち出すと……」
「……持ち出すと?」
嫌な予感はするが、聞いておかなければなるまい。栗栖が、ピン、と右手の人差し指を立てた。
「呪符が式神へと変化して、犯人に一生涯消えないようなトラウマを与えたり与えなかったりします」
「今すぐ全部回収してこい」
割と広い店内を指差して言う暦に、栗栖が「えー……」と不満げな声を発した。
「このコーナーが最後なんですよ? 他のコミックと文庫、文芸書には挟み終わっているのに……全部回収するんですか?」
「え……全部?」
「はい、全部に」
栗栖が頷き、暦は店内をぐるりと見渡した。コミック、文庫、文芸書は店内在庫の半分ほどを占める。数は、一万や二万では済まない。
「……いつの間に……」
少なくとも、今日紹介されてからはそんな時間は無かったはずである。
「あ、二日前の夜。閉店後に面接を受けたんですけど、その場で決まったのでそのまま」
「……うち、閉店時間、深夜一時だよ?」
「夜の作業は慣れていますから。悪霊退治で徹夜する事も多いですし」
聞かなかった事にして、呪符の回収は諦めた。
購入したお客から「気味の悪い紙が挟んであった」とクレームがあったら、どこぞの悪ガキがイタズラした事にしておこう。その旨をすぐに店員全員に申し渡そう。
そう決めた暦は、申し渡しのための回覧文書を作成しようと、バックヤードに足を向けた。その時だ。
「ひぃぃっあぁぁぎゃああぁぁぁっ!」
店内に、男とも女ともつかない叫び声が響き渡った。驚き、危なく取り落としそうになったクリップボードを、暦は慌てて持ち直す。
「なっ……何だ!?」
「愚かな鼠が、早速罠にかかったようですね」
出入り口に近い棚を見て、栗栖がクスリと笑った。……と言うか、嗤った。顔が正義の味方どころか悪の組織の参謀になっている事は、この際言うまい。
「ほら、行きますよ本木さん! 鉄は熱いうちに打ち、万引き犯は熱いうちに鞭打ちませんと!」
「さらりと怖い事を言うな! うちはそういう店じゃないから!」
しかし、例えばの話で。もし武器になりそうな物でもバックヤードに置いてあろうものなら、松山はやるかもしれないな。そんな考えが頭を過ぎった暦は、声の聞こえた方に駆けながら、後でバックヤードに危険物は置いていないか徹底的にチェックしようと心に決めた。
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