第404話 森の異変

 左のこめかみから結構な量の出血をし、流れ出た血が肩口まで濡らしている。

 だがしっかりと自分の足で立っているところを見ると、それほど深い傷というわけでもなさそうだった。

 ライエルはこちらに気付くと、半分血塗れの顔をパッと輝かせた。

 やめろ、その状況で爽やかな笑顔を浮かべても怖いだけだ。見ろ、フィーナがドン引きしているじゃないか。


「ニコル! 来ていたのか。フィーナもお出迎えしてくれたのかな?」


 両手を広げ、こちらに迫ってくるライエルだが、俺はフィーナを抱えて素早くバックステップした。

 顔面を血に染めて両手を広げ迫ってくる姿は、どう見てもアンデッドモンスターにしか見えない。

 ギリギリ回避した俺の目の前を、ライエルの腕が通り過ぎていく。危ないところだった。

 渾身のハグを空振りしたライエルは、情けなさそうな顔でこっちを見上げる。


「悪いけど父さん、お風呂に入ったばかりだから」

「なんてこった。怪我をして帰ってきたパパを、慰めようという気はないのか?」

「そんなに元気に動き回る怪我人とかいないでしょ」


 俺に反論されしょんぼりと肩を落とすライエル。ようやく怪我人らしくなってきたな。


「はいはい、でもニコルの言うことも一理あるわよ? はい、治癒光キュアライト


 マリアの魔法で、瞬く間にライエルのこめかみの出血が止まる。

 干渉系魔法の治癒光キュアライトは、数ある治癒魔法の中でもダントツで治癒力が低いというのに、この威力である。

 俺の使う魔法とは、やはり桁が違った。


「はい、おしまい。でも血まみれだから先にお風呂に入ってきてね?」

「おう、そしたらニコルをハグできるんだな!」

「それはニコル次第」

「断固として拒否する」

「きょひするー」

「なんてこった……」


 俺とフィーナに無邪気に拒否権を発動され、今度こそ地に腕をつき、うなだれるライエル。

 その背をマリアがポンポンと叩いて慰めるのも、いつもの光景だった。




 ライエルが風呂から上がり、俺たちは食堂で夕食を取る。

 今この屋敷には、家族全員と住み込みの家政婦がいるのだが、彼女は今ライエルの服を洗濯してくれている。

 夜だと言うのにご苦労な話である。


「それで、父さん。なにがあったの?」

「それがな、梟熊オウルベアと聞いて森に入ったんだが――」

「別の何かがいたと?」

「いや、オウルベア自体はすぐ見つかって討伐はすぐに済んだ。ああ、土産の肉は持ち帰っているから、ミシェルちゃんにも持って行ってあげなさい」

「それはすごく喜ぶと思うよ。でもまさか、オウルベアにその怪我を負わされたわけじゃないよね? それとも鈍った?」

「まさか。怪我一つなく一刀の元に両断したさ。問題はその後だ」


 マリアの作ったシチューを口に運びながら、不本意そうに顔をしかめる。

 その中には先の話題に出たオウルベアの肉も入っている。新たに具材を追加したらしい。


「森の奥から羽音がするので見に行ってみれば、奥から角を持った一メートルほどの甲虫が飛んできたんだ」

「一メートル……」


 角を持った虫というのはいくつか心当たりがある。だが一メートルとなるとかなりの大きさだ。

 それもライエルにダメージを与えるほどの存在となると……


針甲虫ニードルビートル、くらいしか思いつかない?」

「そうね、そんなところかしら」


 俺の出した答えに、マリアが太鼓判を押す。

 だがその答えに俺自身は納得ができていない。その理由は一つだ。


「あれって、世界樹の中の迷宮でしか、確認されていなかったんじゃ?」

「そうね。中層の敵って話だったかしら」

「他の場所に出たって話は聞かないんだけど」

「今回が初の目撃情報になるわね」


 世界樹の迷宮は特殊な生態系を持っている。

 ただ内部で繁殖したモンスターだけでなく、世界樹の防御機構として異界から召喚された存在……いわゆる魔神も存在するからだ。

 召喚されたモンスターだけに、他の場所での目撃情報はまったくない。

 それが今回は、ライエルを森で襲撃している。


「なんか変だね」

「そうね。迷宮からモンスターが抜け出したという事例は、今まで聞いたことがないわ」

「それも聖都フォルネウスでなく、この北部で……」

「少し調べた方がいいかもしれないわね」

「そうだな。だがもう日も暮れている。森の中に探索に行くとなると、夜目の利かない俺たちの方が不利だ」

「村に被害が出てないなら、そう急ぐ必要もないわ。明日にしましょう」

「そうだな」


 ライエルとマリアは、翌日の予定についてに話題を移していた。

 そんな二人を無視して、俺はフィーナの世話をしている。

 彼女は俺の膝の上に乗って、握り拳でスプーンを掴んで、シチューを相手に悪戦苦闘していた。

 もちろんスープの部分は飛び散って、周囲は惨憺たる有様になっている。

 俺も彼女を膝に乗せた時点でこの惨事は把握していたので、別段慌てはしない。

 帰ってから着替えればいいだけの話だ。どうせ今日は、もう戻って寝るだけである。


「にこねーちゃ、あい」

「うん、ありがとうね」


 どうにかスプーンに掬い上げた肉をこちらに差し出してくる。その口元は、シチューでべたべたになっていた。

 俺は一口でその肉を飲み込むと、テーブルナプキンを取って、その口元を拭ってやる。


「にゃうぅぅ」


 顔を拭われてむずがる様子は、まるで小動物のように愛らしい。


「あーもう、この子ってば反則ぅ!」

「むぎゃー!」


 俺に背後から抱きすくめられ、フィーナは悲鳴のような声を上げて笑っていた。

 これが俺の、ここ最近の夕食風景だったのだ。

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