第1話 ユニコーンと乙女
その日は春の寒い日で――中学校の卒業式が行われた日だった。
近所に住んでいる幼馴染みの朝比奈菜摘(あさひななつみ)とたまたま一緒に帰ることになって、高校生活によせる淡い期待を互いに話しながら歩いていた。周りには誰もいなかったし、彼女の進学先は女子高で、もちろん俺が入れるような場所ではなかったものだから、その瞬間に覚悟を決めたのだった。
彼女の家の玄関先で、俺は菜摘を引き止める。
「あのさ、朝比奈?」
俺が声を掛けると、門を開けていた菜摘は手を止めて振り向いた。
「なに? 周(あまね)君」
きょとんとした不思議そうな彼女の表情に、俺の心拍数が急上昇。おそらく、顔も赤くなっていたことだろう。俺は視線を一度外し、それから再び彼女を見据える。
「俺、ずっと前から朝比奈のことが好きなんだ。付き合ってくれないか?」
彼女の目が点になったのがわかった。喜んでいるという様子は全くない。急に言われて驚いているといったところだろうか。ま、突然の告白には違いなかったのだからそれは理解できる。しかし菜摘は持っていたカバンごと自分のおなかを抱えて笑い出した。
「面白い冗談!」
「冗談じゃないよ! 本気で言っているんだ! バカにすんなよ!」
俺の反論に彼女は笑いを抑えようとしているらしかったが、それでもなお笑い続けている。
「あははっ、だって想像してみなさいよ。あたしよりスカートの似合う男と一緒に街を歩けると思ってる?」
「な……」
それって、ひどい振り方じゃないですか?
「愉快なネタを提供してくれてありがとう。あたし、これから友達と卒業旅行に行くんだ。支度しなくちゃいけないからもういい?」
笑いながらさらりと菜摘は言う。
一方の俺はと言うと、開いた口がふさがらない状態で、頭の中が真っ白だった。いや、自分の中の冷静な部分がいろいろ言っている。お情けで付き合ってくれるよりはいいじゃないか、とか、こんな女だってことが知れた分だけよかったじゃないか、とか、惚れた自分が悪かったんだ、とか……だけど、それってあんまりじゃありませんか?
「…………」
あまりのショックで言葉が出なくって、ただ首を縦に振るしかない俺。なんて情けないのだろうか。
「じゃ、またね。お土産は持っていくから安心してね」
にこにことしながら軽い足取りで菜摘は家に入ってしまう。
「……なんだよ、それ」
――というところで目が覚めた。
「がぁぁぁっ!」
むくっと上体を起こす。目が覚めた場所はいつもの自分の見慣れた部屋でもなければ、電車の中でもない。昨晩遅くに泊めてもらった世界遺産に登録されていそうなレトロな町の一軒家。末っ子のミレイの部屋を借りている、まさにその部屋のベッドの中だった。
「なんであんな、よりにもよってあんな場面を……」
汗をびっしょりとかいている。かなりうなされていたようだ。あの夢は現実にあった話で、心に大きな傷を作ったまま治ることはない。ちなみにあのあと、菜摘は卒業旅行のお土産を律儀に我が家に届けてくれた。それがクリティカルになったわけなのだが。
「どうしたんだ? ミノル」
俺の悲鳴を聞いて、ミレイがドアから顔を覗かす。
「い、いえ……大したことではないんです」
慌てて俺は取り繕う。どきどきする胸を押さえたとき、そのふくらみで自分がまだ女の状態であることを確認する。どうもここは現実らしい。リアリティの感じられない現実。他の兄弟と同様に金髪碧眼であるミレイもまた流暢な日本語を操る(やたらクールな感じがするのは何故だろう)。街で聞かれる声も異国のものというよりは方言に近いような気がする。どうも異世界に紛れ込んでしまった状態のようなのだ。
「すごい汗だ。うなされていたのか?」
部屋にとことこと入ってくると、ミレイは俺の顔を至近距離で見つめる。何かの拍子でキスしてしまえそうな距離だ。
「大したことじゃありませんよ」
さりげなく距離をとる。別の意味で心拍数が上がったぞ。
「枕が替わると眠れなくなる性格なのか?」
「そんなことはありませんよ。このベッド、心地よいですし」
ベッドに腰を下ろし訊ねる彼女に俺はにこやかに答える。
「それでもうなされたんだろう? ――あぁ、慣れない土地で戸惑っているのだな。それなら仕方ない」
ミレイはこくこくと勝手に納得すると立ち上がる。
「朝食の準備ができている。着替えたら来るといい」
俺の台詞を待たずにミレイは部屋をさっさと出る。どうやら俺が起きたのを確認して食事の誘いに来ただけのようだ。
「はぁ……」
ベッドから出ると、昨日着ていた服に袖を通す。鏡をまじまじと見て顔を確認する。よく見慣れた俺の顔だ。昨晩は鏡を見て自分の頭にヘッドドレスがくっついているのにびっくりしたものだが、顔はそのままで身体が女ってのも妙なはずなのに見れたものだったりするのが心底悔しい。
今日はもうヘッドドレスは要らないだろうと思って、跳ねた髪を手櫛で直すと部屋を出る。
「おはようございます」
各部屋はすべて中央の部屋に直結している。その中央の部屋はリビングとダイニングを兼用しているような場所で、中央に大きなテーブルがあり、食事時は兄弟姉妹が集まるらしかった。
「おはようございます」
俺の挨拶に答えてくれたのはミキだ。自分の部屋から出てきたところらしい。
トキヤとレキはすでに各自の席についていた。新聞に目を通していたトキヤがこちらに目を向ける。
「うなされていたんだって? ミレイから聞いたよ」
俺は思わず苦笑する。
「えぇ。ちょっと嫌な夢を」
「なんだ。だったら俺の部屋を訪ねてくれたらよかったのに」
割って入ってきたのはレキ。それに対して絶妙なタイミングで通りかかったミキがレキの頭を叩く。
「ミノル、昨晩座った席を使ってくれ。料理を並べるから」
キッチンに入っていたミレイが顔を出して指示を出す。にこりともしないのは彼女のスタイルらしい。
「手伝いますよ、ミレイさん」
俺がミレイに声を掛けると彼女は振り向きもせずにつっけんどんにこう答えた。
「私の領域に入る者は容赦しない。おとなしく席について待っていろ」
ぴしゃりと言われて俺はその場で硬直する。台詞に棘どころか殺意さえ感じられるのは何故だろうか。
「ミレイもそう言っていることだし、席に座って待っていてください」
新聞をマガジンラックに片付けながらにこやかにトキヤが勧める。
「料理の担当ってミレイさんなんですか?」
しぶしぶ昨晩と同じ席につきながらトキヤに訊ねる。
「あぁ。家のことは全部ミレイに任せてある」
「ほら、ミレイって見ての通り愛嬌がないだろう? 商売に向かないだろうと判断して」
トキヤの説明にレキが補足する。
俺はちらりとキッチンに目を向け、再び二人に目を向ける。ちょうど俺の正面にトキヤとレキが並び、俺のすぐ隣がミレイ、その隣にミキという配置である。
「……うーん。やってみないとわからないと思いますけど?」
あいまいに俺が答えると、そこにミレイがお皿を載せたトレイを持ってやってくる。
「私は好きでこの役回りを選んだんだ。無駄な憶測はやめてくれ」
てきぱきとそれぞれの席の前にお皿を並べていく。目の前に並べられたのはソーセージとスクランブルエッグと櫛切りになった柑橘系の果物が載せてある皿、にんじんのポタージュスープ、焼きたてのロールパン。特に珍しいものはない。
「さ、準備ができたぞ」
何往復かして、ミレイは自分の席に腰を下ろす。それを合図に、全員が黙祷をささげる。これがこの地方の風習らしい。俺もそれに倣って黙祷をささげると食事を始める。さらに食事中はできるだけ喋らないというのもこのあたりのマナーらしい。昨晩学んだことの一つだ。
淡々とした温かな食事が終わり、テーブルについたままぼんやりとしているとミキが俺に声を掛けた。
「ミノルさん。そろそろおばば様のところに行ってみませんか?」
「はい。案内をお願いします」
すぐに立ち上がる。それを待っていたかのようにレキが自分の部屋から出てくる。
「ミキ、行くなら俺もついていくよ――できれば二人っきりで行きたいところだが」
いやらしさの感じられない笑みをこちらに向ける。俺は素早く視線をそらす。
「ミキさん、二人で行きませんか?」
ミキにだけ聞こえるようにぼそっと提案する。ミキはそれに対して一度小さくうなずくとレキを見る。
「悪いけど、お得意さんまわりをお願いできない? 担当でしょ?」
「えーっ。今日は休みにするってトキヤが言ってたじゃないかっ!」
明らかに不満げにレキが反論する。
「あら、花屋のローザやパン屋のエリーに顔出さなくて良いの? 浮気してるって告げ口してやるんだからっ!」
にやっと笑ってレキを見つめると、彼は一瞬ひるむ。
「む……わかった。町内一周してくるよ」
一度自分の部屋に引っ込み、薄手のロングコートを掴むとレキはつかつかと外に出る。
「さ、あたしたちも行きましょうか。あまり遅くなるとおばば様に会えなくなるわ」
さわやかな笑顔を作ると、ミキは俺の手を引いて歩き始める。レキとミキのやり取りを聞いていて、なんとなくミキに弱みを握られたくはないなと思った。
街は人通りが多くてにぎやかだ。ミキたちが住んでいる場所は大通りに面していて、一階が集積所に、二階が住居になっている。この家の場所もおばば様が決めてくれたらしい。おかげで商売は安定しているというのだから侮れない。
五分も経たない距離におばば様のいる住居にたどり着く。この大通りに面している家屋とほとんど変わらない建物、その前には行列ができていた。
「うーん、出遅れてしまったようですね」
ミキがその様子を見て苦笑する。
まさか並んでいるとは思っていなかった。おばば様の人気、恐るべし。
「どのくらいかかりますかね」
外に並んでいるのは十人くらいだろうか。子連れの女性や若いカップル、老人など年代はばらばらである。その質問もおのおの違うのだろう。ジャンルは問わないようだ。
「さぁ……おばば様の気まぐれで早かったり遅かったりですからね。まずは並んでみましょうか」
俺の問いに、表情を曇らせてミキが答える。
「そうですね。今頼れるのはここしかないでしょうし」
俺が頷くと、ミキとともにその列の最後尾につく。
問題なのはここからだ。これからどうすべきかという漠然とした質問を投げかけてよいものなのか判断に困る。だいたい、俺は俺自身がどうしたいのかもわからない。少なくとも現実に、現実だと思っていた日常に戻りたいとは思っている。女になってしまったということも死活問題であるし。このまま一生女のままだったらどうしよう、とか。――でもそれも悪くはないかもしれないなんて思い始めているから、慣れとは恐ろしい。女運のない俺のことだから、女の子として余生を送れるのならそのほうが幸せかもしれない。姉貴に勧められる服だって遠慮なく着ることができるだろう。つっか、どう考えても男に戻りたいなんてことはどうでも良いんじゃないか? あの日常に戻らなくたってそれなりに幸せにやっていけるんじゃないか? だとすれば、当面の問題はここでの衣食住をどうするかってことだよな。そうだよ、あんな場所にわざわざ戻ることなんてないじゃん。ろくな夢も希望も持てない環境で一生を送るより、なんだかわからないけど空がグリーンのこの世界で生きてみるのも悪くないかもしれない。となると、これからどうすべきかってことをまんま訊いてみるのが適当だな。うん、そうしよう。
「ぬし」
「へ?」
俺の意識が自分の中から外に戻ってくると目の前には老婆の顔が最大表示されていた。
「うわぁぁぁぁぁ!」
あまりにもびっくりしすぎて壁に身をくっつける。
「邪念が多すぎる。ちょっと来い」
顔中しわだらけであるが背筋はしゃっきりしていて、ちょうど俺の背丈と同じくらいらしい。ズームアップされた顔にはさすがに驚いたが、この元気そうな様子にも驚かされる。先入観はいけないな。
「でも、おばば様? 他にも待っている人はいるんですよ?」
俺の手首を掴んで、かなりの力で引っ張る老婆に対しミキが間に入って止める。この老婆が俺の探していたおばば様らしい。
「この者への話はすぐに終わる。ミキ、お前さんも外で待っておれ」
反論しようとしたミキを気迫で黙らせると老婆は俺を部屋の中に通した。
部屋の中は不思議な飾り物で埋め尽くされていた。雰囲気としては怪しげな雑貨屋さんのような感じ。お香がきついがそんなに不快感はなかった。
「その椅子に座りなさい」
籐椅子がごちゃごちゃした部屋の真ん中に置かれている。そこに腰を下ろすと老婆は棚から何かを引っ張り出し、俺の目の前に出した。それは俺にとってとても見慣れた品。
「スマホ?!」
「ほう、これはスマホと呼ぶのか」
手渡すわけではなく、それを持ったまま自分専用の大きな椅子に腰を下ろす。
「それ、俺の大切なものなんです。返していただけませんか?」
間違いなく俺のスマホなのだ。デザインでいっているのではなく、くっついているイヤホンジャックピアスが同じだからっていう理由ではなく、背面に張られたシールとそこからはみ出ている傷が俺のケータイだと自己主張しているのだ。傷――正確には彫られた文字なのだが、それについてはあまり言及しないでおく。
老婆は俺の様子に一度目を細める。
「おぬしの物だと証明できる手段はお持ちかね?」
その質問に俺はひるむ。証明はできる。中のデータを示せばいいのだから。
「それの使い方、あなたは知らないでしょう? ちょっと貸していただけませんか?」
「いいだろう。ほれ」
軽くスマホを投げてきたので、俺はそれをキャッチする。ロックを解除して――俺は驚愕した。
「……これ、何かいじりました?」
冷や汗が流れているのがわかる。
「あぁ。使い方がわからなくての。なにやらいろいろ表示されるんじゃが、ちんぷんかんぷんでな。数字だけはわかったのでいろいろ押してみた」
おかげで初期化かよ……どうしてロックが破られてしまうわけ?
「さ、どうやって証明するんだね?」
「もう結構です……」
スマホをスリープモードにしてうなだれる。――前向きに考えてみよう。これで過去のしがらみとはさよならできたんだ。あとはこっちでのハッピーライフをエンジョイできれば良いわけだ。
「いや、それは始めからおぬしに託すつもりじゃった。受け取りなさい」
「え?」
思わず顔を上げる。老婆がにっこりと微笑む。
「おぬしはこの世界の者ではないな?」
「!」
いきなり本質をつかれてびっくりしていると老婆は続ける。
「しかも本当は男だね?」
「!!」
俺が目を丸くしていると、なおもにこやかに笑んでこくこくと頷く。
「そんなおぬしに頼みたいことがあるんじゃ」
「へ?」
なんか嫌な予感。
「この世界にはユニコーンと呼ばれる聖獣がおってな、そいつが悪さをしておる。おぬしに何とかしてもらいたい」
ユニコーン?
「えっと……頭に一本の角を持っている馬みたいなやつですか?」
「おぉ、わかっているなら話は早い」
「話は早いって言われましても、具体的にどうすればいいんです?」
「それはおぬしが考えることじゃ」
しれっと言われても……。
「じゃあ、そのユニコーンがしている悪さってなんです?」
その質問に老婆は目をかっと見開いた。その表情には鬼気迫るものがあって、俺は思わず椅子ごと後ろに下がる。
「老いぼれからはとても話すことはできないことじゃ」
「…………」
思わず自分の顔を引きつらせる。
「わかりました。その調査も自分でしますよ。――で、私はどうすれば?」
「ユニコーンに会えばわかる。――そうだな、ユニコーンの伝説についての説明くらいはして進ぜよう」
おばば様の話をまとめると次のようになる。
この世界が生まれる頃から存在するといわれるユニコーンは神に近い存在としてあがめられ、人々は他の獣とは違う聖なる生物として彼ら(どうやら複数存在するらしい)を聖獣と呼ぶことにした。しかしユニコーンらはあがめられればあがめられるほど人間たちとの距離が遠くなっていくのを悲しく感じていた。ユニコーンらはもともと人間が好きで、もっと身近にいたいと思っていたからだ。だがその想いは虚しく、人間たちはユニコーンという存在を神聖化しある種の差別をした。
そんな関係が安定してしまった頃、あるユニコーンが人間の少女に恋をした。ユニコーンがその想いを告げると少女は困惑し、返事に窮した彼女は自らの命を絶ってしまう。それを知ったユニコーンは人間を恨むようになり、様々な悪さをするようになった。人々は彼を恐れ、それでありながら神を傷つけることはできないと、策を施すこともできずに困り果てた。
ユニコーンの暴走が始まってから何年かが過ぎた頃、この世界では珍しい容姿を持つ少女がどこからともなく現れる。その少女がユニコーンに会ったとたんに暴走がおさまり、平和な日常が取り戻された。
その後の話だが、ユニコーンに会った少女はすぐにどこかへと消え去り、ユニコーンが彼女に発した言葉から『御姉様の伝説』とも呼ばれている。
俺はおばば様から伝説を聴き終えると、礼を言って外に出た。
「ミキさん、お待たせしました」
ミキを見つけると声を掛ける。彼女は心配そうな顔をした。
「それで、おばば様から助言はいただけました?」
「えぇ……」
あれを助言といって良いのだろうか? それに、伝説っていうのもなんか引っ掛かるし。
「……とりあえず、ユニコーンに会えってことらしいのですが」
その俺の一言に反応したのはミキだけではなかった。
『御姉様!』
まわりにいた人々の声がきれいにハモる。俺は一体何が起きたのかわからない。そのうちの、おばば様に話を聞きに来たらしい一人の老人がすごい速さで俺の前に回ると、がしっと両手を掴み俺の顔をまじまじと見る。
「そうかお前さんが、かの伝説の御姉様じゃったのか! どおりでおばば様がお前さんを優先するはずじゃ」
しみじみと頷き、目頭に涙さえ浮かべている。
「さっきまで割り込んだことに対して不平不満を言い続けていたくせによく言うわよ」
ミキが小声で入れたツッコミを、射るような視線で制す老人。その地獄耳と反射神経に思わず敬礼。
「――で、でもまだ私がそうと決まったわけじゃ……」
顔をひきつらせ、迫ってくる老人から距離をとりつつ(とはいえ、手は握られたままなのだが)反論する。街の人々から送られる視線に恐怖を感じる。なんだ、この期待とも羨望とも哀れみとも感じられる視線は?
「いや、その髪、その瞳、伝説に出てくる少女そのものではないか。きっとお前さんがこの町を救ってくれる!」
町を救う。
そうだ、ここでユニコーンがどんな悪さをしているのか聞いてみよう。
「えっと、あの、救う救わないは置いておくとして、そのユニコーンがしている悪さってなんですか?」
俺の質問に、老人はものすごい勢いで離れてゆき、街の人々も俺を中心に隕石が落下してきたかのように一斉に散った。――なんか俺、変なことを聞いたか?
隣を見ると、ひかずにそばにいてくれたミキが顔を真っ赤にしてる。
「あの……私、変なこと言いました?」
まわりの反応で、俺は無性に恥ずかしくなって全身が熱くなる。
「い、いや、なにも変なことは言っていませんよ」
気持ちを切り換えるようににっこりと笑むと俺の手首を掴んで歩き出す。彼女の家とは反対方向だ。
「どこへ?」
「お茶でも飲みましょう」
こちらに顔を向けることなくつかつかと早足で進む。俺は渋々ひかれたままついて行く。
オープンカフェの、通りに面した席の一つにミキは腰を下ろす。
「紅茶でよいかしら?」
「はい」
俺が答えながら彼女の正面に腰を下ろすと、ミキは店員に声を掛けて注文する。
「――さっきは驚いたでしょう?」
疲れたような顔をして、ミキが問う。
「さっきに限定しなくても、私は驚きの連続ですけど」
俺は苦笑して答える。昨日から次々と新しい情報が入力されて処理が追いついていない。
「確かにそうかも知れませんね」
ミキが答えたところで二つのカップが届けられる。店員さんが下がると彼女は続ける。
「この町はユニコーン信仰が他の町よりもちょっとあついんです。だから余計に困っているのですが」
俺にだけ聞こえるようにぼそぼそと小さな声で告げる。
「何に困っているんです?」
香りの良い温かな紅茶を啜ると俺は問う。
「ユニコーンはこの町に、ある条件を出しました」
ミキは言いにくそうに呟くと、視線をわずかに逸らす。俺は黙って続きを待つ。
「――この町にいる年頃の娘を差し出せ、と」
「!」
えっと、それはつまり……。
「この町のはずれにあるユニコーンを祀(まつ)った神殿に、月に一度、身を清めた少女を一人でよこせとおっしゃったのです。しかしその神殿の周囲は様々な獣が住む場所とされ、とてもではないが一人でなど向かわすことはできない場所。初めの頃こそ、志願する少女はいましたが、辿り着くことなく命を落としたと聞いております。そして、待てども待てども約束が果たされなかったユニコーンは怒り、町から気に入った少女をさらうようになりました。今のところ誰も帰っては来ていません。彼女たちがどうなったのかを知る者ももちろんいません」
困ったような表情を浮かべる。確かに深刻な問題だ。
「あたしが心配しているのは妹のミレイのことです。ミレイだって充分に見初められる可能性はある。だからできるだけこの件は早く解決して欲しい問題なのです」
「うーん……でも、若い女性が少なくなったようには見えませんけど?」
通りを歩いている人々を見る限りでは若い人も老人も女性も男性もそんなに人数に差があるとは思えない。
「それは婚約をしているからです」
「婚約?」
婚約するだけでユニコーンから選ばれずに済むなら適当な人間とそうすればいいと思うのだが。――と考えていると、ミキは全身を真っ赤にした。
「夜をともにすればよいのです。そうすることで初めて婚約が認められます」
「!」
なるほど、この町(この国か?)の風習というやつだな。
「あぁ、ってことは、ユニコーンが選ぶ少女というのは、ユニコーン本人(?)と婚約できる人間でないといけないと言うわけですね?」
俺が声をひそめて言うとミキは紅茶を啜りながら小さく頷く。とすると、俺も注意する必要があるわけだ。万が一ということは絶対にないと思うのだが。
「状況はわかりました。――とにかく、おばば様にユニコーンに会うように言われた以上、やれることはしますよ」
紅茶を一口啜る。とりあえず、これらの情報を整理する限りでは俺はユニコーンの神殿に行く必要がありそうである。様々な獣がいて簡単に行くことができないというのだから、その情報収集や武器などの調達も必要だろう。お金のことは後回しとして、情報からどうにかするか。こんな小さな町のことだ、どうせ噂は広まっていることだろうし、俺がユニコーンの説得に行く例の『御姉様』であるということにすれば話は簡単だろう。
「だけど……」
不安げな瞳が真っ直ぐ俺に向けられる。一瞬、自分が恋に落ちたかと錯覚しそうになった。こんな綺麗な顔でこんな表情をされたら誰でも心が揺らぐのではないだろうか。
「――おばば様の言うことは聞いておいて損はないんでしょう? 大丈夫、さすがに命を投げ出すほどのお人好しではありませんから、自分の身は自分で守りますよ」
できるだけ安心させることができるような笑顔を作ってミキを見つめる。彼女も落ち着いた様子でにっこりと笑顔を返す。
「無理はしないと約束してくださいね」
「もちろんです」
――とそのとき、予想もしていない展開が自分の身に起こった。
ポケットに入れておいたスマホが突然震えだす。どうしてマナーモードになっていたのかはわからないのだが、それで俺は慌てて立ち上がる。
「どうかしました?」
ミキがきょとんとして首を傾げる。
「すみません。ちょっとここで待っていてくださいませんか?」
きょろきょろと辺りを見回して人目がつかない場所を探す。まさかこんなところで堂々とスマホを取り出すわけにもいかないだろう。
「え、えぇ」
「すぐに戻ります」
こくこくと小さくうなずくミキを置いて、俺は小走りに店の斜向かいにある路地へ移動する。
狭くて薄暗い路地。ポケットから取り出したスマホを両手で包み隠し、もう一度辺りに誰もいないことを確認すると通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
スマホのデータが吹っ飛んでくれたおかげで、ディスプレイに表示されているナンバーを見ただけでは誰からなのかわからない。少なくともスマホからかかってきているらしいことは番号から予想がついた。
「――先輩?」
ま、まさかこの声は……。反射的に電話を切りそうになるが、そこをぐっと抑える。
「梶間(かじま)、か?」
俺がテンション低めの声で返すと、向こうはかなり明るいトーンの弾んだ声を出す。
「よかったぁ。先輩。今日はどうしたんですか? 無断欠席だって言うじゃありませんか。風邪ですか? それとも僕が作った薬が効きすぎて、睡眠不足で出てこれなくなっちゃったとか? ――とにかく、これから先輩の家にお見舞いに行きますね。そうそう、アマネミノル失踪説なんていうのも浮上しているんですけど、あの程度のことで行方をくらますような先輩じゃありませんよねぇ。昨晩から電話が通じなかったから本当に本当に心配したんですよ? 電話が通じるようになってとっても安心したんですから」
どこで息継ぎをしているのかわからない勢いで、梶間修也(かじましゅうや)は長台詞を言い終える。とても嬉しそうな様子に俺は複雑な気持ちになる。
「――見舞いに来る必要はないよ。俺は元気だし。それに今、家にはいないんだ」
ふと姉貴のことがよぎって、修也を家に近づけてはならないことに気付く。この前のバレンタインで悲惨な目に遭ったことを思い出したのだ。――どうして受験生だったはずの修也がわざわざ我が家にチョコ(特性惚れ薬入り)を持ってくることができたのかが不思議でならないのだが(しかも俺と同じ高校を受験してトップで入学してくるとは……)、そのときの姉貴と修也のタッグをかわすのにどんだけの体力を消耗し知力をフル活用したことか。
ちなみに名前から察してほしいが、修也はもちろん男の子である。先のエピソードからわかるように頭は良く、とりわけ科学が得意で、容姿もそこそこ良く(背が高いし――別にひがんでいるわけではないが)、女子にとても人気がある。そんな彼のおかしなところは、中学の文化祭にて開催された女装コンテストに出場して悲しくも優勝してしまった俺に一目ぼれしてしまったところだろう。それ以来、彼は俺の後をついて回っては、得意の科学知識で作り上げた惚れ薬を俺に盛り続けているのである。なんとも可哀想な奴だ(その涙ぐましいアピールはある意味で天晴れだが)。
「え……? 家にいないってどういうことなんですか! 本当に失踪中なんですか?」
パニック気味に修也が問いかける。――あぁ、やれやれ。心の中で小さくため息。
「まさか。――うちのじいちゃんが倒れて、危篤だって言うから病院で様子を見ていたんだよ。なんとか回復したから今晩あたりには自宅に戻る」
咄嗟に思いついた嘘だが、これで昨晩から電話が繋がらなかった理由と家にいない理由の両方を満たすことができたはずだ。危機は回避された――と思っていたら甘かった。
「あれ? でも先輩のお母さんとさっきすれ違いましたよ? 見間違いかな?」
俺は思わず言葉に詰まらせる、と同時に耳を澄ます。よく聞いてみると、修也の背景の音はそこが自宅のある駅前商店街であることを主張している。
「い……今お前どこにいるんだ? まだ学校のある時間だよな? 終業式だから午前で終わりって言っても、さすがに早すぎやしないか?」
こっちの世界の時間と向こうの世界の時間が同じように流れているとは言い切れなかったが一応訊いてみる。
「さすがは先輩。気付いてくれて嬉しいです」
ご機嫌な様子で声を弾ませている。俺の頭痛は増すばかりだ。
「まさか、途中で抜けてきたって言うんじゃないだろうな?」
「抜けてきちゃ駄目ですか?」
俺の問いに対し、本気で不思議そうな言い方で返す。そこまで堕ちているとは……。
「今すぐ学校に戻りなさい」
きっぱりと言う。これは別に家に修也を寄せ付けたくないからではなく、彼の今後を心配しての台詞である。なんで彼がここまでわけのわからない行動をするのか理解に苦しむ。
「――今から戻っても仕方がありませんよ。授業は終わっています」
時計を確認したようだ。そのあたりに彼の真面目さを感じる。
「それでも戻ったほうがいい」
「先輩、僕のことを心配してくれるんですか? 気持ちは嬉しいですけど、先生にはちゃんと理由を言って早退していますから大丈夫ですよ」
なおも勧める俺に彼は涼しい様子で切り返す。あぁ、なるほど。俺と違って無断で行動しているわけじゃないのね。
「きっと後悔するぞ、それ」
「先輩のためなら一生後悔することはないですよ」
しれっと台詞が返ってくる。なんて罪な男なんだろう、俺……じゃなかった、なんて可哀想な奴なんだ、修也。
「あのな、梶間。お前が俺のことをとんでもなく好いてくれているのはよくわかっているつもりだ。だがな、俺もお前も男同士なんだ。お前の想いが報われることはない。いい加減に諦めてくれよ」
真面目な声で、俺は切り出す。今まで薬物の報復が恐ろしくて何も言わないできたが、異世界に身を置く今となっては気にすることなどない。通話できるという愉快な状況にはある種の安堵感もあったが、向こうの世界に帰る気持ちがそれほどない現状では早々に切り捨てていいとも感じる。だいたい、こちらから向こうに連絡する手段は生憎ないのだ。覚えている電話番号なんて自宅くらいのものだし。だったらもう、こんなものはいらない。
「愛に性別は関係ないですよ。――それにね、どうしても同性なのが気になるようでしたら、その解決方法も僕が何とかして見せますよ。ですから、先輩は何の心配もせずに僕だけを愛してください」
「…………」
……この男はどうしてそんな恥ずかしい台詞をしれっと言うことができるんだ? しかも商店街を歩きながら。
「あれ? 先輩、どうかしました? 感動して泣いているとか?」
「……たんに呆れて返す言葉が浮かばなかっただけだ」
楽しそうだな、こいつ。――そもそもこいつが昨日の放課後に口移しで謎の薬を飲ませるようなことをしなかったら、こんな目に遭わなくて良かったはずなのだ。すべての原因はこの男にあるといっても過言ではなかろう。……あんまり怨もうとは思わないけど。
「それにしても、先輩の声、おかしくないですか? おじい様が危篤っていうのも嘘でしょう? 何かあったんですか?」
やっぱり声がいつもと違うか。
「気のせいだよ。――とにかく、お前はまっすぐ家に帰りなさい。うちに寄らなくていいから」
「!」
修也からの返事がない。音声が途切れたかと思うと、ツーツーという電子音に切り替わる。――なんだ? 今の……。
「……梶間?」
スマホを耳から離し、画面を見る。通話時間と現在の時刻が表示されている。指し示している時刻は十時半。こっちの時間も大体そんなもんだったはずだ。
それにしてもなんだろう、この胸騒ぎは。最後に聞こえてきた声にならない声。修也の身に何かが起こったのだろうか。事故か? 事件か?
――まさか、な。
スマホを落としたから通話が切れたというよりは、自分で切ったみたいな感じだったし。それに異世界にいる俺が何かしてやることもできないだろう。心配ではあるが、だからといってどうしようもない。
俺はしばらくスマホの画面を見ていたが、折り返し電話がかかってくることもなかったのでスマホを閉じ、ポケットの中に押し込む。あんまりミキを待たせていても悪いので、くるりと大通りのほうに向きを変えた――そのときだった。
「しぇーんーぱぁーいぃー!」
「ぐぇっ!?」
どんっと後ろから押し倒される。舞い上がる土ぼこり。
「周先輩ですよね? 僕の目は騙せませんよ?」
俺の上にしっかり圧しかかっている眼鏡をかけた少年の顔には見覚えがある。そのテンションと声にも聞き覚えはある。しかし、そんなことがあってもいいというのか?
わずかに身体の向きを変えて見上げた先には緑色の空。俺が元の世界に戻ったのではなく、彼がこっちの世界にやってきてしまったらしい。――って、んなことがあってたまるか!!
「ひ、人違いですよっ! 私の上から退いてください! いきなり何をするんですか!」
悲鳴じみた声で抗議する。ここは人目につかない路地。今のところ誰もこの状況に気付いていないらしい。場所を誤った。
「僕のことを知っているくせに他人の振りをするんですかっ!」
「こんな状態でよくそんなことが言えますねっ! まずは私の上から退いてください!」
修也、お前邪魔。しっかりホールドされている所為で全く身動きが取れんではないか。
「先輩っ! せっかく会えたんですから、冷たくしないでください!」
がしっと抱きつかれ、俺は完全に動けなくなる。
「ちっとは冷静になれ!」
「そうそう。人の女に手を出すな」
俺の叫びに呼応するかのように頭上で助け舟。視線を動かした先にいたのはレキだった。――なんか話がややこしくなりそうな予感。いつ、誰が、あんたの女になったんだ?
「……女?」
ところがその台詞は修也に対しては効果覿面だったようだ。やっと落ち着きを取り戻した様子で、俺の顔を一度じっと見つめたあと、慌てて上から移動する。
「無事か? ミノルさん」
レキが差し出した手を借りて起き上がるとパタパタとやってほこりを落とす。
「えぇ、おかげさまで」
苦笑気味にレキに返すと視線を修也に向ける。高校の制服と同じブレザーを身にまとい、学校指定のスポーツバッグを持っている。あの一瞬で時空を超えてきたと言うのか?
「ミノル……ミノルって言いましたよね?」
戸惑う様子で修也はレキに視線を移す。
「えぇ、私の名前はミノルですから」
頬を膨らましてきっぱりと言う。修也がこっちに来てしまったと言うことはつまり……どういうことなんだ?
「そうだ」
修也は何かを思いついたような様子で自分のポケットの中からスマホを取り出し、操作する。レキは修也が何を始めたのかわからないらしく訝しげに見つめている。――と。
「――やっぱり、先輩ですよね?」
ぶるぶると震えながら自己主張をしている小さな物体。それは俺と修也の間に落ちているスマホだった。どうも修也と揉み合っている間にポケットから飛び出したらしい。
「!」
持っていたケータイの通話を切ると、落ちているスマホを拾い上げる。
「一体何があったんです? そんな格好までして」
不思議そうな表情でこちらを見つめる。正直、俺もそれについては知りたい。
「――空を」
言って、俺は指で空を示す。
「空?」
修也は素直に空を見て、すぐにこちらを見る。彼の表情に焦りの色がにじむ。状況の飲み込みが早いようで助かる。そこまで馬鹿ではないようだ。
「そういうことです」
言ってにっこりと笑む。これで伝わればよいのだが、さすがに無理かな。言いたいことが伝わっていなかったら、残念だがここでおさらばだ。
「すみません。僕の勘違いだってようで。ご迷惑をおかけしました」
さっさとスマホをしまって頭を下げる。
「いえ、わかっていただけたならそれで良いんですよ」
「うーん……でも、どうして僕はこんなところにいるんでしょう? 頭を打って気を失って、気付いたら僕がよく知っている人に瓜二つの女性が立っていたものですからつい……」
どこかで聞いたことのあるベタな台詞。それはつい昨晩俺がついた記憶喪失ネタのそれに似ている。
「なにかあったの?」
そこにひょこっと顔を出したのはミキ。なかなか戻ってこない俺を心配してきてくれたようだった。
「あぁ、ミキ。お前いたのか」
「その台詞、そのままレキに返すわ。――ところで、なにごとなの?」
ミキとレキはちょっとした息の合ったやり取りをすると視線を修也に向ける。
「申し訳がないのですが、少し彼と話をしても良いでしょうか?」
話が混乱してきそうなので俺が提案する。
「だけどミノルさん、君はさっき彼に」
「大丈夫ですよ。もう彼は冷静になっていますから。――ね?」
心配するレキにきっぱりと言い切ると、修也に向かってウインクを飛ばす。
「絶対に手は出さないって誓います」
両手を挙げて真面目に言う修也。これで少しは話ができる状況になったはずだ。
「レキさん、万が一のことが遭ったら助けてくださいね」
こう言っておけば保険は充分だろう。俺はにっこりと笑むと修也のもとへ移動。ミキとレキには聞こえないくらいの距離をとる。
「先輩、どういうことなんですか?」
声のボリュームを絞って修也が問う。俺は自分の腕を組む。
「見ての通りだとしか言えない。こっちも何がなんだかわからない状態なんだ」
小さなため息のあと俺も声を落として答える。
「それにその格好、僕にとっては大歓迎ですけど、先輩にとっては屈辱的な格好なんでしょう? それを人目にさらされるのをあんなに嫌っていたのに……」
俺の格好を足先から頭のてっぺんまで見ると頬を赤くする。――お願いだから惚れ直さないでくれ。
「事情が事情で、着るものがないんだ。昨晩は彼らのうちに泊めてもらって、何とか乗り切ったんだけどね。で、お前はどうする? ――いや、まてよ。その前に、お前はどうやってここに来たんだ?」
そこはとっても大事なポイントだ。俺は帰ろうが帰るまいがどっちでもいいとしても、修也だけは戻ったほうがいいだろう。将来を期待されている存在なんだから。
「さぁ、それがよくわからないんですよね」
俺の期待とは裏腹にあっさりとした回答。ごまかしている様子はなく、本当にわかっていない様子だ。
「――先輩と電話をしていたところまでは確かなんですけど」
「突然切れたからびっくりしたんだぞ」
あのときの状況を思い返す。話の途中で電話が切れたのには本当に気を揉んだ。俺が強引に切るまでいっつも切ろうとしない修也なのだ。それなのにあんな形で通話が途切れたのだから心配しないわけがない。
「すみません。――どう表現したらいいのかわからないんですけど、いつものように商店街を歩いていたらいつもと違う場所を見つけましてね、気になってそこに向かって歩いていったんですよ。そしたら先輩の姿を見つけまして……そのあとは先輩が知っている通りです」
「ってことは!」
俺は修也がやってきた場所に向かって走り出す。しかしまもなく行き止まりになる。
「くそっ!」
追いかけてきた修也が石で造られた壁に手を当てて調べる。
「何の変哲もない普通の壁ですね。一体僕はどこからやってきたんでしょうか?」
一通り調べると俺に向き直る。
「さぁな。異界への扉みたいなものが突然開いて迷い込んだみたいな話じゃないか? 全く科学的じゃないからお前は嫌いかもしれないが」
頭をカリカリと掻きながら言う。――こんな調子で異世界に飛ばされてくる人間が増えたらどうしよう。嫌な予感。
「嫌いじゃないですよ。先輩への愛が通じてこうして逢えたのなら、ロマンがあって良いじゃありませんか」
にこにこととても楽しそうな様子。前向きで良いな、この少年。しかし、もう少し先のことを考えたらどうなんだ?
「あんまり嬉しくない」
「とか何とか言っちゃって、心細かったんじゃないんですか? 知っている顔があるだけでもほっとしたりするでしょう?」
思わずこぼれた呟きに、励ますように修也が言う。
「お前じゃあなあ」
くすっと笑って歩き出す。前向きに考えるなら、姉貴がここに現れなくて良かったといったところか。まだ平和だもんな。俺の言うことが通じる相手なら歓迎だ。
「――ところで、本当に女の子になっちゃったんですか?」
歩きながら、ふと思い出したらしく問い掛けられる。
「……それはトップシークレットだ」
ぼそっと呟く。女の子になったらどうだと言うんだ?
「先輩、女の子になったなら、もう僕の気持ちを拒む理由はないですよね?」
ちらっと修也の横顔を見ると真面目な顔をしている。本気で言っているらしい。――まぁ、修也の場合いつも真剣であって冗談を言っていることなんてないのだが。
「嫌なところがあるなら必ず直しますから、ちゃんと考えてくださいね」
「さっさと俺より良い相手を見つけることだな」
悪気がないだけに厄介なんだよな。
「またまたぁ。照れなくてもいいのに」
「照れてなんかない。ノーベル賞を取る可能性があるとも言われている男がそんなところでつまずくんじゃない。考え直せ」
むすっとして答えると、真面目そうな様子で考え込む。
「そこまで僕の将来を案じてくれるのは先輩くらいのものですよ。他の女の子は自分のことしか考えてないから、どうも好きになれない」
ぼそっと、ため息混じりに答える。どこか寂しげだ。――あ。修也ってもしかして……。
「そうだ、これ、返しておきますね」
俺の想いはつゆ知らず、修也はにこにことした人懐っこい表情を浮かべてポケットからスマホを取り出す。
「あ、うん」
ミキとレキに見られないうちに、修也から受け取るとそっとポケットの中に片付ける。
「――とりあえず、彼らのうちに泊めてもらえるように頼んでみる。無理だったら他のところに一緒に頼みにいってやるよ」
「ありがとうございます、先輩」
いい奴なんだけどな、こいつは。
「あと、彼らの前では先輩って呼ぶのはやめてくれないか?」
「別に構わないと思いますけど? それに他人の振りをするのもなんかおかしくありませんか? 何か都合の悪いことでも?」
きょとんとして首を傾げる。
「しいて言うなら、俺の設定が記憶喪失ってことになっているから、かな」
それ以外に困ることは今のところないかもしれないなと考える。ユニコーンを追いかけるために不利になることもないだろうし。
「面倒くさい設定ですねぇ……。とはいえ、僕も面倒で咄嗟にそれに近い設定をくっつけましたけど。どうしましょうか?」
うーんとうなって問う。なんでこうややこしいことになってしまったんだか。
「普通に下の名前で呼んでくれよ。妥当なところではミノルさんってところか?」
そう提案すると、急に修也が恥ずかしそうにする。あれ? なんか俺、変なことを言ったか?
「名前を呼ぶなんて、ちょっとどきどきしますね。――新婚さんみたい」
言われて俺は思わず固まる。修也、どうしてそういう余計なことを言うんだ?
「え、えっと、呼ぶなって言うなら他の呼び名を考えますよ!」
固まった俺に対し、修也は前に回りこんで提案する。
「い、いや、別にどう思われようとさん付けで呼んでくれていいよ。呼び方が違うと妙に映るだろうし。――一緒にこの現象がなんなのか調査しよう。な?」
にこっと微笑みかけると、修也は顔を真っ赤にする。
「……抱きしめたい衝動に駆られるんですけど、もちろんだめですよね?」
「あぁ、それは許さない」
即答。反射的に表情が引きつる。修也はにこっと微笑み返す。
「即答で助かりますよ。いつかその首を縦に振らせてみせますね」
どこからそんな自信が出てくるかなぁ。
「無駄な努力だと思うけど」
肩をすくめて答えると歩き出す。
「無駄だったかどうかはそのうちにわかりますよ」
すぐに俺の後ろをついて歩き出す。
話が成立したところでミキとレキが待つ路地の入り口に戻る。二人とも心配そうだ。
「ミキさん、レキさん、とりあえず話がつきました。彼、行き場がないらしくって……今夜一晩だけでも面倒を見ることってできませんか? ――部屋を借りている身でこんなことを頼むなんて図図しいことは承知しているのですが」
両手を組んで上目遣いにレキに視線を送る。物は試しの演技だ。
「ミノルさんが一緒に寝てくれるなら考えてもいいよ」
ついっと俺のあごを指先で持ち上げるとにやっと笑む。俺は思わず顔を赤くする。
「こんの馬鹿エロ男!」
ミキのジャンピング突っ込みがレキの後頭部に炸裂する。しかしレキは耐えた。――なるほど、こうして鍛えられているからこそ、俺の目覚めの一発を軽く受け止めることができたわけだ。
「いってえな! 冗談に決まってるだろ? ――まずは我が家を仕切る二人に聞いてみないとな」
彼の言う我が家を仕切る二人とはトキヤとミレイのことだろう。レキは俺から手を離してミキと向き直ると肩をすくめる。
「確かにその通りね。あたしたちで決められることじゃないわ」
うんうんとうなずくと、ミキはこっちを見る。
「家に帰りましょうか。詳しい話はそれからにしましょう」
彼女の意見により、俺たちは一度家に戻ることになる。そこで何が待ち受けているのか、そのときの俺たちには全く思いも寄らなかった。
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