笛の音響くこの空に・七
<魔王>アズィカムーイヤーナとは最高位となる七柱の魔神の一角である。
性は陽気で鷹揚、他者が己のために何かを捧げることをこの上なく好む。南米上空の<虚空宮殿>に座し、<魔人>騎士団を従えて一帯に君臨。日々を愉快に過ごし、時折出歩いては美少年を拐かして連れ帰る。
<魔王>と名乗ってはいるものの、魔神の王であるわけではない。君臨すれども統治せず、楽しいことが好きで魔神好きで人間好きの放蕩魔神だ。
そしてその絶大な力のうちに、代名詞とも呼べる術がある。
『
そこに細かな理屈は存在しない。魔王の権力の下にすべてが
もっとも、これはアズィカムーイヤーナにとってお遊びでしかない。万能以上全能未満である彼女であればもっと単純かつ確実に成し遂げることができるのに、献上という形式の欲しいがためにわざわざ不確かで効力の弱い手段を用いているに過ぎない。
しかし同種のことを<魔人>が行えるとなると話は大きく変わってくる。
<魔人>とは基本的に壊し潰ししかできない存在だ。工夫によってそれ以外もやってのける者はあるが、それでも何もかも自在というわけにはいかない。
だが、鏡俊介はその自在を手に入れている。凌駕解放
たとえば、本来区別などできぬはずの存在を弁別する。
たとえば、衆人の只中で殺しを行いながらそれを認識させない。
たとえば、障害物を己にとってだけ存在しないことにする。
当たるはずの刃を逸らし、外れたはずの刃で殺す。得手不得手などもはや無意味だ。速さが欲しいなら速くなり、膂力が欲しいなら怪力を手に入れる。
無論のこと、限度はある。すべては
「でも結局、誰も斃せなかったっす」
満天に瞬く星の下、着物姿の女が言う。口許に薄く浮かぶ笑みを、蠱惑的と見るか酷薄と見るか。
「そんな<赤旋風>を、できればここで始末しちゃって欲しいんですよ。これはあたしの一存ですけどね」
郊外の寂しげなバス停。行き交う車も稀。夜目にも鮮やかな女だけが婀娜に、孤独に佇んでいる。
だというのに女は呼びかけるのだ。
「さあ、返答やいかに?」
『僕が頼みを聞くことになっているのはステイシアからのものだけだ』
声は女にだけ聞こえる。
しかし女の背後、よく見れば何も見つけられないが、思考を止めて呆ければ、風に吹かれた
『そもそも、勝てるかはさて置くとしても殺し切れない。逃走に特化したときの
「やはりそこですか」
女は、ライラックは双眸を細く細く伏せる。
鏡俊介は己の強さに何の矜持もない。というよりも、自分のことを強いとすら思っていない。
遠くから一切の遮蔽を無視して察知し、人混みの中でも気付かれることなく殺し、少しでも不利と見るや即座に逃亡して仕切り直す。決して捉えられない。
そんな<赤旋風>に
しかしやはり、それ以上に<
「<
背後を流し見る。口許にはからかうような笑み。
「本当に、殺し切れませんか?」
『凌駕解放を使えば話は別だが』
返答はどこまでも淡々と。たとえ姿が見えていたとしても、言葉以上の意味は読み取れなかったろう。
虚空に広がる僅かな波紋は、その向こう、深淵に棲まう怪物の息遣いを思わせる。
名和雅年という男のことを、ライラックでさえ詳しくは聞かされていない。ただ、魔神ハシュメールにすら為せぬことを行うために探求を続けているのだとだけは知っている。
この揺らぎの向こう側こそがその結晶であるのか、それは見通せるはずもないが、いずれにせよ結末は決まっている。魔神と<魔人>の間にある力の隔たりは、規模においても自在性においてもあまりに大き過ぎる。目的地へは決して辿り着けない。
雅年自身もそれを知らぬはずはないのに惑いなく行い、今ライラックもその艶やかなくちびるの笑みを絶やさない。
「それは最後の最後になるまではやらせるなとの、我らが
『できれば早く本題に入ってくれ。依頼は別にあるだろう』
「そりゃそうっす。けど、本当に
接触は必要最小限にすることとなっている。明確な通達があるからこそ、女は此処にある。
秘密話に扇子が口許を隠す。
「<スィトリ>、いや、そのご本尊の<
<
頭首である<
とはいえ、そもそもが好き放題にやっている<
そしてライラックの口にした通り、六名いる<
しかしそれは、<
「そんなわけで、今回<スィトリ>の背後にいる<魔人>を徹底的に潰してもらいます。<
『それだけで構わないのか?』
波紋とともに冷徹な声。
「ええ、<スィトリ>の『可哀想な女の子』たちは別にいいですよ。それは人間の管轄っす」
そもそも<スィトリ>がどのようにして勢力を拡大して来たのかといえば、『商品』を使って末端から徐々に国家の中枢に浸透し、流れを自分たちの有利に操ることで成した。本当の戦力はむしろただの人間でしかない存在だ。
<
しかし、これは洋の東西を問わず昔から用いられてきた手段だ。隣国が、あるいは国内の誰かが、己に都合のよくなるように行う後ろ暗い干渉の手管である。だからこそこれを炙り出し、排除する機構もまた特別なものではない。
<スィトリ>がヨーロッパで恐るべき存在となっているのは、競合相手や国家から伸びた手を<魔人>の暴力でもって打ち破ってしまえるからだ。
だから<
「人間の方はどうせ、とっくの昔に入り込んでるでしょうしね。今回やって来た娘さんたちなんて、防いだとこちらが勘違いしてくれれば御の字程度の見せ餌ですよ。折角だから逆利用したくもあるんですが、危険ではありますし、<
夜が静か過ぎる。艶のある女の声が響くのに、それは波紋の向こうにしか届かない。
ライラックは広域を網羅し、人の意識にはたらきかけるある種の結界を張り巡らすことができる。
『分からぬものを分からぬままに済ますことを是とする』だけのものであり、人を近寄らせぬようにする力があるわけではない。しかし異常を疑えなくなれば、着物の女が一人で何かを喋っていてもただの風景として流してしまう。ましてや時折その背後が揺れているように映ることなど。
深い溜息。女のものだ。
「……本当に、なんとかなりませんかね? このままではオーチェがあまりにも」
それは終わったはずの話である。
そして返事はやはりにべもない。
『繰り返しになるが。僕に望まれている役割を崩さずに、あるいは周辺への被害も出さずに彼を屠るのは、手品が通じない以上ほぼ不可能だ。都合のいい偶然を期待するのは現実的ではないし、それ自体が罠である可能性もある。それに、気にしているのはオーチェのことではないだろう』
「……やれやれですねえ」
再度の嘆息、笑みの混じる。
ライラックは嘘をつく。泣き落としも色仕掛けもすれば、唐突な真顔で落としにかかることもある。全ては目的を果たすために。それが<隠密>という役柄である。
不思議なものだとライラックは思う。<隠密>に好悪はない、そのようなものに惑わされることはない、そういうことになっている。そのはずがなぜか、<無尽城郭>の皆には愛着がある。無論、必要とあらばその死を許容はするが。
「ほんとう、憎らしいひと」
それ以上の返事はない。もう後は、既に定まったことを行うだけだ。
「いいでしょう。これより神官様の御下命果たします」
ゆるりゆるりと歩き出す。
夜を行く女の姿は道なりに小さくなり、消えてゆく。
残された揺らめきは消えたことすら分からぬ。
星の瞬きだけが変わらずにあった。
騒然としていた。
飛び込んできたのは先日取り逃がした人売りが、この期に及んで少女を拐かしたという情報だ。密告が警察伝いにこちらまで来た。
まさに話が終わったときに、オーチェとともにこれを耳にすることになった光次郎は飛び出していた。
当然のことながら忘れるはずもない。鏡俊介の乱入によって逃してしまった相手だ。その後も、手を出してはならないという方針に従い、今に至る。
オーチェの判断は結果的に妥当ではあったろう。<赤旋風>に近づけば、端から皆殺しとなっていたであろうことは想像に難くない。
それでも忸怩たる思いは残る。剣豪派は強さに依る者だ。刃の鋭さで切り開いてゆく者だ。燻る思いは強い。
かの人売り、烈火を追うべきではない。傍に鏡俊介のあるならば、死にに行くようなものだ。
外に出る。もう稲も刈られ、藁とともに乾いた田の中にぽつりと立つビル。学生を支援する財団としての表の顔が用いる本拠は本来の顔の本拠へと繋がる場所でもある。
「初瀬さん!?」
そこで、ちょうど駆け込もうとしていた小早川玲奈と出くわした。
既に話を聞きつけて、詳しいところを確認にでも来たのだろう。怜悧な面立ちにも熱が乗っている。
「行くつもりか?」
「はい。私は一足先に辿り着きましたが、素也さんたちもすぐに来るはずです」
それは財団派のエースとして当たり前の返事だった。これまで遠巻きにされていた烈火と謎の<魔人>に対応するならば彼女たちであるべきと期待され、彼女たちも応えようとする。
だから言わなければならなかった。
「思い人を死なせたくないなら止めろ。みっともなく泣き叫んででも行かせるな」
「何を馬鹿なことを……」
「お前らでは相性が悪すぎる。機転も戦術も糞もない。その前にお陀仏だ」
鏡俊介がどのような存在であるのかを知った今、ただの勘ではなく結末を確信できる。
<
しかしこんなものは遅すぎる。下手をすれば感知範囲に入った瞬間、何もさせてもらえずに四人ともが首を刎ねられていてもおかしくない。それが鏡俊介なのだ。
「俺もさっき知ったばかりだが、敵をオーチェに聞いてこい。納得できるはずだ」
警告に籠った鋭さに気づいたのだろう、玲奈が息を呑んだ。
だが、すぐに問うて来た。
「そう言うあなたは行くのですか?」
「俺以上の適役は今の財団派にいない」
光次郎にとっても、行くべき相手ではない。
それでも行く。明らかな犠牲が出ようとしているのに引きこもって何の<
「私たちのことは止めておいてですか?」
玲奈の非難の口調は決して反発心の類から出たものではない。追い詰められてもまだ冷静なのだ。こちらのことを気遣っている。
光次郎は牙を覗かせた。
「舐めんじゃねえぞ、こちとら剣豪派序列三位<大典太光世>だ。お前らとは格が違う」
「嘘ですね。あなた独りでは足りないのでしょう?」
「アホが。自分の望みを間違えるな。誰が一番大切なのかを思い出せ」
玲奈を押しのけ、再び歩を進める。
勝ち目は薄いが、自分ならば皆無ではない。足場が糸の如くであったとしても勝利への道はある。
玲奈が追って来ることはなかった。どのような結論を出すかは分からないが、<赤旋風>のことを聞いてなお戦うというならば彼女たちの自由であるし、それで命を落としたとしても詮無いことだ。
格上と殺し合うのだ。この手に握れるのは刃と己の命が精々である。
鼓動が跳ねる。
意識が余剰物を排除してゆく。
あと三歩だけ歩み、初瀬光次郎は全力で地を蹴った。
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