<夜魔>抄・エピローグ2、あるいは次へのプロローグ
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奇襲に対し誰一人として犠牲を出さずに退けた、奇跡のような出来事は皆の心を躍らせたままだ。
立役者と言える
だがその声も熱も、ステイシアの私室には届かない。
果てのない暗闇に落ちてゆきそうな空間は冷たく、死にも似た静寂を保っていた。
ソファにはステイシア、巨木のように立って向かい合うのは相変わらず気力に欠けたまなざしの名和雅年である。
普段であれば少女の口元には微笑が浮かび、やわらかな言葉、あるいは悪戯な言葉を紡いでいたことだろう。
しかし今、ステイシアは氷像のように凍てついて、ようやくの声も色のない無機質なものだった。
「勝ち過ぎました」
「……勝ち過ぎた?」
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元々、一旦日本を出るとの<
駅ビル一階のパン屋の前、行き交う人の数は多いが話し声や靴音による雑音はなお多い。あるいはそのような、名にし負う異能でも持っているのだろうか、そう思ってしまうほどに、二人の声も無価値なものとして紛れる。
会ったのは偶然ではあるまい。こちらの居場所を把握されていたに違いない。
話などしたくもなかったものの、腹立たしいことに<
「ええ、そうです。先だっての戦いにおいて神官派は勝ち過ぎました。いかに底力を持っているにせよ、不意打ちを受けたはずなのに犠牲者ゼロは怪しい。まるでピンチを自作自演したかのようです」
「実際、間違いなくそうじゃん。なんでかみんな認めないけどさ」
本当に、そのことについて
「何故かと問われれば、凄いには違いないですがそんなものですよ。明確な犯罪者なのに顔さえよければ擁護する人がいる、というのがヒトの
そう告げる<
「とはいえ、先ほども言った通り今回は勝ち過ぎました。そのことによって、今までのような曖昧な憶測に留まる領域を越えて、ある程度はっきりした論拠を作ってしまった。センセーショナルな事件の興奮が消え、頭が冷えれば気付いてしまう人も増えてゆくでしょう。こういうのはじわじわと効いて来る毒のようなものなのです」
目の前、今だけを見てはいけませんよ。そう挟んで更に語る。
「おそらく次はありません。処刑人がまた凄惨な殺しを行えば、誤魔化せる限度を超えてしまう。今回のことと合わせれば、『まったく止められない』のだという認識に至り、止められないならそもそも今回の理由付けがおかしい。となればもう違和感を認めざるを得なくなる。止められないのではなく、そうさせているのだとね。<
「むしろここまでしなきゃいけないのがびっくりだわ」
不愉快だ。要は敵にさえそれだけの信用があるということである。全ての者に悪意を持つ
そのことを当然知っていながら気付かぬように、<
「神官派が採るであろう手段は何種類か考えられます。まずは<
「そうね」
それはつまり、人質などの卑劣な手が使えるようになるということだ。
そういった手段は通用してこそ意味がある。まったく躊躇せずにこちらを殺しに来られては、労力を費やして自分の荷物を増やしているだけになってしまう。
こちらの行動を読める神官派にはそれでも通じにくいところはあるだろうが、人の悪意こそ最強であると信じる
「それは確かに楽しそう。あいつら心は脆そうだしね」
「ええ、僕にとってもひとつ、いいことが分かりましたしね」
「あっそ」
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「<神官>ステイシア。聖女とされる彼女の本性は一体何であるのか、今までは判らなかった。さすがに直接顔を合わせるわけにいきませんからね、又聞きばかりでは外面しか見えてこない。しかしこれで推測程度はできた」
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「彼女は本当に優しいのでしょう。大して役にも立たないのだから二、三十人ほど死なせておけばいいものを、全員守りたいがために
是非その顔をこの目で見たかったものです、<
「そして、本当に優しいからこそこれほど苦労させられているのです。同僚を見ていてしみじみ思いましたね、人を最後の最後に動かすのは真心です。人間はあなたが思うよりも馬鹿ですが、あなたが侮るよりも賢い。優しさが演技ではないと無意識に覚ってしまうから、疑う心を否定するのでしょうね。僕がどれほど技術を駆使してみたところで、行き着く果てで本物には及ばない」
そう締めくくり、手にしたスーツケースを引いた。
もう行くということなのだろう。二度と戻って来るなと念じつつ、
「最後に言い残しとくこととか伝えとくことはある?」
遺言を求めるように問うてみたのだが、<
「そうですねえ……魔女派の殺戮人形ですけど、うまくすればあと少しで始末できるようになりますよ。手は打っておきました」
「ふぅん」
魔女派最強もこの男にかかればどうにかできてしまう相手であるらしい。気のない返事になったのは、禁じ得ぬ戦慄を隠そうとしたせいだ。
<
たとえば自分ならばどうするだろうか。遮るものすべてを薙ぎ払うあの殺戮人形を、どうすれば屠れるだろう。
答えの出る前に<
「いや、あくまでもうまくいけばですからね? あんまり期待されても困りますよ? そしてあと一つ」
「何?」
「神官派が採るであろう手段ですけどね、実際には多分……」
「雅年さん、あなたには<
感情の含まれぬ硬質な表情と声で、ステイシアはそう告げた。
対する雅年も気力に乏しいまなざしとともに応えた。
「それで、僕は形式上独自に殺して回るのか」
創り上げるシナリオはこうだ。<
それは疑惑が確信されてしまう前にすべての悪を押しつける蜥蜴の尻尾切りであり、同時に攻勢に転じる手でもある。
これ以上は手元に置いたところで飼い殺しにしかできない。しかし手放してしまえば、神官派は虐殺を認めないという態度を示せるとともに、<
無論のこと、神官派が失う益は絶大なものとなるが、それはこのままでも変わらない。
ただし、一つだけ問題がある。
「敵と認定する以上、<
ステイシアは未だ氷像のようだった。
「生半な戦力では<
「返り討ちにして<
「はい。そこに付け込まれては意味がありませんから。もちろん、あなたの抑止力としての価値を落としてもなりません」
勝ってはいけない、負けるのは論外。逃げるのもまた同様だ。つまりはまともに戦闘に持ち込まれてはいけないということである。<
「何とかすると言いたいところだが、さすがに実現は難しいだろう。やれと言うならやるが」
気力にこそ乏しいが、雅年の双眸には冷徹な理が宿っていた。それをステイシアは知っている。不可能と言わなかった以上、結局は成し遂げるのだろう。
出会ったときからそうだった。頼もしくあり、それ以上に不安を誘う。
向き合う二対の視線はほんの2メートルの距離に過ぎない。立ち上がり、足を進めて手を伸ばせば触れられるだろう。なのに、どうしてか届かないと思えてしまう。幻であるかのように感じてしまう。
ステイシアは、それでも氷像の如くに。
「指示のための連絡役は向かわせます。<隠密>殿がいいでしょう。本業ですし、手透きのようですし、何よりあなたを敵視してはいない。私の顔を立てて何も言いませんが、元々エリシエルさんはあなたのことを危険と見ているようですし、オーチェさんも有効に使えるうちは黙認しているだけで、ことによると本気で排除にかかる可能性もあります。今はそれどころではないのが僥倖ですけれど」
「発表はいつになる?」
「すぐにでも。早ければ早いほどいいでしょう。あなたも早急に遠くへ移動してください。領域内にいられると、討伐チームを組まなくてはいけなくなってしまいます」
<
「それから」
ステイシアは平坦に、まだも告げる。
「そうなれば当然ですが、春菜さんに会うことは罷りなりません」
この一言のためにすべてを抑えていた。
この一言を恐れ、だからこそ吐き出してしまいたい。
しかし。
「分かった」
それだけだった。頷いて、あっさりと背を向けた。
ステイシアのくちびるが震えた。被っていた氷の仮面に罅が入った。
「待ってください!」
ロングコートの姿は振り向かない。足を止めただけで次の言葉を待つ。
その背に悲痛なまでの声が降り注いだ。
「構わないのですか!? あなたは彼女のために信念を曲げてまで<魔人>となり、手を汚したはずです! なのに……なのに! どうして日曜を潰すんだって、いつも文句を言ってたじゃないですか……」
「構わない。問題ないというから会っていただけだ。会わない方がいいのならそれでいい」
今度こそ半身を振り返らせ、しかしそこにあるのはいつも通りの名和雅年だった。気力に欠けて、そのくせ質量すら思わせる意思を潜ませて。
「僕は約束通り仕事を果たすだけだ。ステイシア、連絡は出来る限り早く寄越せ」
その瞳は、こちらを向いてはいても、見てはいない。望みに呑まれることなく、遮るものすべてを排除しながら願いへと突き進んでゆく。自ら言う通りの外道なのだ。
本当に、初めて会ったときから変わらない。
変わって欲しかった。『本物』ではないのだ、いくらでも変わってゆけるはずだったのに。
変わらぬことを決意していたわけではなく、あまりにも意思の質量が大きすぎるのだ。ステイシアの細い両腕はまるで無力だった。
狂おしく、それでも手を伸ばしかけた。腰は浮いてしまった。だが、結局は為せない。
神官派の統括にして<
再び歩き出したその背へと、搾り出せたのは一つだけ。
「どうか……ご無事で……」
伏せた瞳、長い睫が震える。
ロングコートの姿が消え、息を詰まらせ、血を吐く響きであと一度だけ。
「……どうか」
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