<夜魔>抄
<夜魔>抄・一
旧い家に二卵性の女子があった。
妹は愛らしかった。千人集めても随一であったろう。
勉学もできた。運動もできた。
茶、舞踊、筝曲、何でもできた。社交ダンスに武道にピアノ、何でもできた。
それだけで幸福になれるわけではないだろう。逆に不幸の引き金になることもあり得る。
しかし恵まれているのは確かだ。心がけがあれば彼女は栄光の生を行けたに違いない。
あるいは、姉さえいなければ。
姉はすべてにおいて妹を凌駕していた。
千どころか十万集めたとて敵う者なき容姿は長じるにしたがってますます光を放つよう。
勉学も、運動も、芸術も、何一つとして妹は姉に勝てない。
愛されるのは姉だった。皆が姉を慈しんだ。父も母も、使用人も。同級生たちも、心惹かれた少年さえも。
妬むのも無理からぬところだった。
対して姉は妹に優しかった。常に気を遣い、なるたけ平等に扱うように周囲に求めた。最も妹を愛していた人間はおそらくこの姉だったろう。
無論、姉の優しさは本当に純粋なものであったわけではない。半分は自分が勝るからこその優越感と憐れみの裏返し、立場が逆であったなら生じなかったであろうものだ。
しかし責められはすまい。優れていること、恵まれていることに罪はないのだ。五十年生きようが六十年生きようが至れる者などほとんどいないであろう境地を、まだ二十歳にもならぬ娘に求める方がおかしい。優しくしろ、自分を立てろ、便宜を図れ、ただし憐れんではならない、という要求は実に傲慢である。
そして半分は優越感でできていようと、残る半分は間違いのない、妹への愛情なのだ。
しかし妹は年を経るごとに妬みを募らせるばかりだった。
――――残り三十三時間
『ヴァルキリーズ』という名が示す通りすべて少女で構成されており、現在三十二名のメンバーが所属している。助け合いのための寄り合いが発展して形成された組織であり、固い結束でも知られる。
<魔人>の能力に男女差はない。人間であった頃の筋力や運動能力は同性の間でのみ比較評価され、どの程度の位置にいるかが<魔人>としての身体能力に関わってくるからだ。
しかしそうであるにもかかわらず、女性<魔人>は厳しい状況に置かれることが多い。
原因の一つとして挙げられるのが、男女差がなくなるのは身体能力においてのみで精神性はそのままであるということだ。
<魔人>は人の社会に縛られない。それは即ち、近現代社会が作り上げてきた、暴力への抑止の意識も薄れてしまうことを意味する。<魔人>と<魔人>が諍いを起こせば、その解決法はほぼ間違いなく力のぶつけ合いになる。
それは長い歴史の中で担われ続けてきた、男性の得意分野だ。文明の発達によって男女の役割分担も曖昧になりつつあるとはいえ、そこが変化するのはまだまだ先のことだろう。
<魔人>という存在は、根本的に男の方が向いている。
そしてそのせいであるのか否か、数が違う。十九対一、この覆しようのない比は、そのものが力の差になる。
少数であること、女性であること、その二つからある程度大事にはしてくれる。ただし主導権は取れない。
上手く少年たちの中で自分の位置を築ける少女でなければ最低でも歯がゆい思いをすることとなり、碌でもない相手に出会ってしまったならまさに悪夢だ。
そうならないための自衛の手段こそが
「……これで理念は分かってもらえた?」
古いビジネスホテルの最上階で
謁見、と自ら思ってしまったことに朱里は内心苦笑する。
ある程度飾り立てられてはいるが、シングルにしては少々広いだけのただの部屋である。後から持ち込んだらしき調度品がそれなりに品好い演出はしている。
床に散らばっているのは何の花なのか、なぜ存在しているのかよく分からない。橙色を中心とした色合いで、綺麗ではあるのだが。
ただ、主である<
美しいとは聞いていた。だが予想を超えていた。
<魔人>の容姿は自らの意識が具体的に構成できる限りにおいて、成る際に好きなように設定可能だ。毎日少なからず鏡の中の自分と顔を合わせている少女たちは大抵、少年たちよりも整った姿を構成することができる。
とはいえ目の前の<
そして不機嫌そうな空気を纏い、こちらを睥睨する様はまさに暴君だった。
こちらも跪きなどしてはいないが、謁見という単語が浮かぶくらいはしてしまう。
しかし朱里とて
「それで同盟の件、受けてもらえるの?」
発足以来一年近く上手くやって来た
原因は<
その噂は聞いていた。まさに
となれば当然のように、<
しかしそれも受け入れがたいものがあった。六派の頂点はすべて女性だとは聞くが、だからといってこちらの立ち位置を理解してもらえるとは限らない。向こうの在り方を押し付けられるかもしれない。
そんなときに<
この狭い部屋に護衛であろう四人が侍っている。無言を守り茶々も入れない。女が合わせるのではなく男に合わさせる。
「もし受けてもらえるのなら今日からでも全力で協力する。あたしも、別室に待機してる子たちも男になんか負けはしない」
「……私はね、男は馬鹿な犬だと思っているわ」
<
いつの間にか、床の花が増えているような気がする。
「乱暴で頭が悪くて、どうしようもない存在」
「そうね、あたしもそう思う」
どう転がるかは判らないままに、朱里は相槌を打つ。
だが本心でもあった。
<
「でも」
<
やはり床の花が、更に増えている気がする。
「身の程を弁えて尽くすなら可愛がってあげてもいい。馬鹿ほど可愛いとも言うしね」
まさに、らしい、と言うべきだろう。今や六十名を数える少年たちの主人として君臨するに相応しい言だった。
しかし未だに望む答えはもたらされない。こちらに添うようなことを言いながら、傲慢にして冷ややかな瞳の奥が読めない。
この瞬間までは、読めなかった。
「そして私にとってね」
意思が見えた。
花が増えた。
「女はゴキブリなの」
男に向けるよりも遥かに激しい、潔癖症が汚物を見るにもここまでの拒否は示すまいであろう、断絶した嫌悪。
花が増えた。増えた。増えた。
「見るのも嫌、存在しているのが許せない、未来永劫消えてしまえばいいのに。ねえ、私頑張ったわ? 会いもせずに殺すのは淑女として自分を許せないからここまで付き合ってあげたの。私の夢を教えてあげる。すべての男を屈服させて、女は絶滅させることよ」
狂気すら乗った声。朱里の背に氷を突き込まれたかの如き怖気が走った。
後ろへ跳ぶ。皆に伝えなければならない。
しかし<
「<
囁くようなその一言に身構える。
花が舞った。
「……あ……」
間の抜けた声が漏れた。
訪れたのは苦痛ではなかった。
たとえば疲れきった身体を布団に横たえたときの安らぎ、たとえば大好きな人と繋いだ手に走る甘い痛み、たとえば自ら慰めたときのもの。
快楽である。それが増幅されて全身を満たすのだ。
その場に崩れ落ちていた。動けないわけでこそないものの、まともな行動などできるはずもない。
時間の感覚すらなかった。
だから<
「まだ残してあったの? 早く殺しなさい。他の女たちも楽園に堕としたわ。あちらもまとめて始末して。こんな汚らしいものをいつまでも私の城に置いておきたくないの」
溜息が聞こえた。
倒れ伏した視界に大きな靴が映った。
「……欲をかき過ぎたんだ。<
哀れむ声。
二つの剣が振り下ろされ、朱里の命を刈り取った。
――――残り三十二時間
窓から覗く街並みが綺麗だった。
多くの人が行き交う駅前は西日に照らされながら雑然として、それを美しいと相馬小五郎は思うのだ。
かつて過ごしていた高校生活を思い出す。心身ともに脆弱と自称する愉快な友がいて、言動全てが漫才のような男がいて、寡黙な眼鏡がいた。放課後の教室は賑わい、終わりであるはずなのに不思議な活力があった。
手を胸の前に持って来る。伸ばしても届くはずのない過去だ。
遠くに来てしまった感はある。あの頃はもちろん、<魔人>となったときでさえ想像だにしなかった。彼らは今、どうしているだろうか。一年半前の卒業式は丁度<魔人>になった時期で、出られるはずもなかったが。
大きく息を吐く。
結局は誰かがやらねばならぬのであれば、と自らの手を汚したことに後悔はない。
もはや戻れはすまい。色々と見通しが甘く、こうなってしまった。この剣で誰かを守るのだと幼い頃に気炎を吐いたものだが、その叶え方ももう分からない。
予感がある。
この罪を清算すべき時が近づいている。
拠点をこのビジネスホテルに移してからも<
そのこと自体は不思議ではない。敗北すれば強制的に引き込まれてしまうと分かっているなら腰も引けようというものだからだ。
しかし小五郎は知っている。<
そもそも今になっても警察の介入する様子がないことがおかしいのだ。いかに脅しつけようと、果たして漏れないものだろうか。予約をとっていた客もおそらくはいたはずであるのに、来ることもない。
財団派は人間社会における顔を有している。学生を支援する財団であるのが表向き、<災>を屠る人員を配置する組織であるのを裏向きに。だから曖昧なまま、警察に干渉することも不可能ではない。そこはオーチェのみの担う仕事であったため詳細は知らないのだが。
忠実な下僕としては<
捕えられ、呪縛をかけられてしまったところまでは不覚だった。だが、それなら内側から何とかできないだろうかと動いていたのだ。
あのような手段を用いている以上、心から<
誤算だったのは、ほぼ全ての者が反抗の意思を早々に失ってしまったことだ。苦痛でまともに動けはせずとも、五十名を越える数はそれだけで力になる。単純な戦闘力に優れ、恐るべき切り札まで有しているとはいえ、<
けれど現実は冷酷で、内心に背きながらも<
身の処し方としては正しいのだろう。自ら口にしていた通り、<
残念ながら、あの苦痛に耐えながら取り巻きを振りほどきつつ<
あるいは、<
「
<
今度はどんな無茶を言い出すやら。
眉根を寄せ、そちらへ向かう。
<
「財団派で次に来るであろうのは誰? 正直に答えなさい」
そんなことを<
ベッドに腰掛けて両脚を揃え、鋭い視線を向けてくる。随分と荒んでいるように思えるものの、不思議と気品を失ってはいない。
「財団派が送り込むなら……<
小五郎は質問に対する素直な回答を行った。<
「名前も売れ始めてるようだし、素質が花開いたみたいだ。見込んだだけはある」
「<
嘘をつけば判るためか、<
「あなたは勝てる?」
「実力的にはまだ俺が上だとは思うが、あいつは割と機転の利く奴だからなあ」
そこを買って、目をかけるようオーチェに推したのは小五郎自身だ。そしてまたたく間に<
「そう」
<
無駄だと思ったが、訊かれなかった以上、小五郎は何も言わない。
<
<
新島猛とは大きく異なるが小五郎も武を継ぐ家に生まれ育った身だ。危険なことにも親しんでいた分、人の恐れにも敏感である。
<
ちらりと視線を脇に避ければ、ベッドの上にはいつもの本、谷崎潤一郎の中短編集がある。どれほど読み返されたのか、随分と草臥れている。
憐れな女だと思う。
財団派の<魔人>について最も詳しいであろう自分を呼んだまではよかった。だが質問の仕方が悪かった。小五郎は嘘をつく必要もなく<
財団派から次に送られてくるとしたなら<
しかしおそらく次は財団派としてではなく<
より確実に、徹底的に潰しに来る。
憐れな女だと、再度思う。
音もない足運びで小五郎はその場を去った。<
呼び止められることもなく、ドアは閉まった。
憐れには思っても、小五郎の心は<
<
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