転がる石に価値はなく
静かなたたずまいの飲食店の中で、ギルは一人食事をしていた。焼かれた分厚い肉を適度な大きさに切り分けて、ひとつずつ食器で突き刺して、口に運ぶ。中途半端に火が通された肉は噛むたびに、肉汁があふれ彼の味覚を刺激する。
かなりの席が埋まっているが、なぜか客たちは小さな声でしか言葉を交わさない。そのおかげで流れている穏やかな音楽はよく聞こえるが、心なしか空気がピリピリとしているようだ。店主のかけてくれた曲も、台無しである。
付け合わせの野菜や、発酵食品も時折口にして、宝石屋の店主の昼食は終了する。
彼はテーブルの空席にかけておいた、全身をすっぽり覆う外套を羽織って外へと出ようとする。すれ違った店員に、代金は先に払っていることを伝え、うまかった、とささやいて外へと出る。
今日は白い雲が漂う天気だ。少しだけ気温が高い気がするが、太陽は世界樹に隠されて始めているために、もう間もなく気温は下がってくるだろう。
店を出て通りにのろうとしたギルはふと、見覚えのない台に気が付いた。店を出てすぐ右側、壁にぴったりとくっつけられている。店内にあるような立派な机ではなく、どこかで簡単に作られているのだろう簡単な台だ。
その上には数枚の紙が積み重ねられていて、風で飛んでしまわないように重し代わりの石が置かれている。立脚類の竜は大の前に立ち、一枚、乱暴にそれを手に取った。
手配書。
お尋ね者の特徴がつらつらと書いてあり、最後には似顔絵まで描いてある。しかし専門の者が描いたものではないことが明らかなほど、並べられている一枚一枚が雑だ。文字を追っていく険しい目がふと止まる。無賃飲食、と彼は読んでから、懐に紙をしまって歩き出した。
高級そうなものを身に着けた商人ばかりのこの通りに、誰も見向きもしない安っぽい紙は不釣り合いであった。
茶の鱗を持つ竜はその高い体躯で、市場を練り歩いた。たまに手配書を見直してふん、と鼻を鳴らす。たまに知り合いと遭遇したり、間食を挟んだりしつつもたどり着いたのは、樹海と荒れ地の境目から、少し市場の中央に向かったあたり。貧困にあがいている者も少なく、それなりの活気があるだろう場所。
すでに夜も近く、視界もあまり利かない。だが元傭兵は自然と揺れてしまう尻尾を硬くしながら、歩いた。建物の間を覗き込んだり、すれ違う人に視線を向けたりもした。何も言わず、紙も見ずにただ歩く。
ずいぶんと冷え込む夜の寒空の下、ギルはようやく一人に目を付けた。
すれ違った直後にすぐさま振り返り、早足に近づき小さな肩に手を置いた。勢いよく振り返った子供は、動揺に満ちた目でギルを見上げた。
およそ十くらいの人間の少女だ。身に着けているものは市場でよく捨てられている布地。最近拾ったものなのか、ぼろぼろではない。だが髪も顔も泥で汚れていて、足は裸足で傷だらけ。
斜めから差し込む月の光が竜の眼光を妖しく輝かせる。子供は彼の動かない瞳を見つめて、止まっている。数秒間、道の真ん中で固まっていた彼らだが、先に口を開いたのはギルだった。
「おまえだな? 一昨日、通りの店で食い逃げしたのは」
口だけを動かし、もの静かにじっと見つめる彼に声をかけられ、子供はだからなんよ、と反抗心いっぱいの視線をギルに向ける。
「そうだな、金は俺が持つ。だから謝りに行こう、と言えば、おまえは従うか? ガキ」
いたって真剣な視線と言葉への返事は、鈍い衝撃だった。子供はわずかにかがんでいた竜の右目付近にはだしの踵を叩きこんだのだ。ぐぅ、とうなる彼の大きな手からたやすく逃れた少女はすぐさま逃げ出す。
不意打ちを食らった元傭兵は膝をついて、蹴られた場所に指で触れた。声を上げないギルは静かに小さくなっていく背中を、ぎょろりと動く目で睨みつける。
数秒の間に、目標は曲がり角に消えた。
小さく舌打ちをしたギルは立ち上がって、面を上空へ向ける。世界樹によって月が隠されていて、闇の深さは一層増している。街灯と呼ばれる光る遺産がぽつりぽつりと道を照らしているが、闇の方が粘り強く、道を閉ざしている。
仕方ない。彼は石飛堂へと帰る。ふと見上げた夜空は、世界樹により遮られた光と、さらに外の月光が重なり、不思議なコントラストを魅せていた。
それなりの時間をかけて彼は裏口から帰宅した。
石飛堂の裏口には、倉庫を思わせる重たい鉄の扉がある。錠前が固く扉を閉ざしているものの、扉自体はでこぼこといびつに歪んでいる。シェーシャが暴れたときについてしまったものだ。
ギルとシェーシャが市場にやって来たのはかなり前のことである。ギルは長い間、傭兵として各地を転々としていた。一方のシェーシャはその途中、彼と出会って付いて回るようになった。やがてここに腰を落ち着けるようになって、かねてから夢見ていた宝石店を構えたのだった。
だが山飛竜という連れがいる以上、ただの家屋だと使えたものではない。そのため、住宅と倉庫がつながっている建物を借りている。倉庫を寝床に、住居を店舗に、と。
倉庫のような大きい扉の鍵を開けて、ギルはわずかな隙間に滑り込んだ。素早く振り返り施錠して、閉ざされた闇と対峙した。
淀んだ空気の中でもぞもぞと動く気配がある。申し訳程度の明かりをつけるために扉の脇にある遺産に手を伸ばすギルだったが、それよりも早くのしのしと近づいた気配は彼の目の前に姿を現した。
自身と似た形の、緑色の鼻先が目の前にある。すんすんと鼻を動かす彼女はギルのことを認めて、舌を伸ばした。彼の右目付近が舐められる。
「遅かったね。何してたのー?」
やめろ、とギルがシェーシャの顎のあたりを押して遠ざけようとする。心配してあげてるのにぃ、と笑う彼女は倉庫の明かりをつけて、藁の寝床に落ち着く。
「ちょっと、人探しをしてた」
尻尾を振っていたシェーシャの後ろについて歩いたギルは、作業スペースへと足を進めた。外套を壁のフックにかけて、椅子に腰かける。彼の尻尾は背もたれに空いている穴を通り、先っぽが地面に触れた。またお金の話、と興味なさそうに尋ねるシェーシャに、違う、とギルは右のひじ掛けに頬杖をつく。
「また報酬もない手配書見つけたの? 見つけても何にもならないじゃん」
体を丸めて、太い尻尾を枕にするシェーシャは退屈そうだ。確かにな、とギルは手配書を身に着けていた装備から取り出す。
「人間の子供。背丈は塀の真ん中程度、髪は明るい黄色、おそらく貧困区の子供かと思われる。捕縛し、ペルト家に引き渡した者には栄誉を与える」
それはおそらく、飲食店の敵を示すために、商人の組織的なつながりによってつくられたもの。ペルト家は強い商人の家系だが、飲食店経営もしていただろう。たった一人の子供にここまでするのも、傍から見れば労力の無駄とも思える。
シェーシャが尻尾の付け根付近の身づくろいを始める。
「えいよなんておいしくないでしょー。そんなことよりお腹すいた」
まったくだな、とギルが紙をしまう。
「俺がいないとき、適当に買ってこいって言っただろうが。面倒だったのか?」
うん、と元気よく答えられ、主は顔を大きな右手で覆う。
「おまえは、よく狩をしてたんだろう? どうしてそこまでめんどくさがりになったんだ」
違うよ、と彼女は首をもたげる。
「私はもともと活動的じゃなかったしー。必要なときにしか行かなかっただけだしー」
そうかよ。竜の青年が立ち上がって、適当に買ってくる、と言い残して再び外へと出た。その恋人は薄暗い倉庫の中で彼の帰りを待ち焦がれた。
翌日、宝石屋の店主は再び昨日の子供を探した。だがほどほどの時間で彼女は見つかった。おおよその位置を絞りこみ、聞き込みをしていったところすぐに見つかったのだ。
貧困区以外ではそのみすぼらしい姿はよく目立つにも関わらず、そこに潜伏していなかったのが原因だ。もっと人気の少ない路地を中心に動いていれば、捕まらずに済んだだろう。
すばやく子供の背後に忍び寄ったギルは、いきなり軽々と担ぎ上げた。うわぁ、と情けない声を上げる子供は宙ぶらりんの状況に気が付いて、脱出しようと暴れ始めた。元傭兵の背中を叩いて、足をばたつかせている。
周りにはまばらに人がいて、二人に視線が注がれるが、犯人は気にしない。外套に身を包んだまま子供を抱えて歩き始める。
「昨日はよくも、やってくれたな、ガキ」
ひとまず歩き始めたギルは暴れ疲れた子供に、敵意を向ける。
「金に困ってんのか、いやがらせのためにやったかは知らねぇが、なんで食い逃げした」
腹の底から低い声を出す彼に、子供は脇に抱えられながら反論する。
「放せ! ただの流れ者がおらんことの何を知っとる!」
担がれながら、必死にギルの顔を見ようと首を上げている。だが骨格上、子供は彼の歩いているだろう道しか認めることはできない。
「俺はただの宝石を売ってるだけの竜だ。そんなやつがおまえみたいな薄汚い子供のことについて知るわけがないだろうが」
ギルは人混みなど気にせず、道をひたすら歩いていく。すれ違う人は彼を様々な目で見やるが、子供に行くのは敵意のような視線だ。彼女が彼らに何をしたわけでもないのに、薄汚れた姿が、人々にさらされている。
「じゃあ、何さ。このまま、おらんこと売るんか。明日ぁ、ものを食べれるかも分からんのに……なんで、こんな目に遭わなあかんのや」
泣き声になっていく子供に、同情もあわれみも向けられることは少ない。
「俺が知るはずがないだろう。金がない家に生まれたのか、借金まみれの親が死んだのか」
市場には商人も、職人も、一般人もいる。騎士や王など、特殊な立場にいる者もいるが、その間には当然、格差もある。ギルは職人、シェーシャは一般人の竜。そして、この子供は貧困に悩む一般人の、一人。
「知らんわ、そんなの。産まれたときから、ずっとこんなんやわ。親はどっかいってもうたし、物乞いするしか、できることないし」
嘆く子供を解放されたのは、ある建物に入ってからだった。その直前、鍵によって開かれた扉は重い音を立てた。子供はうなだれ、もうされるがままに運ばれ、下ろされた。
「牢屋かいな。ええよ。おらが捕まっても、だぁーれも悲しまん。好きにしたらええ」
吐き捨てるように言い放つ子供は、暗闇に消えるギルの背中を睨む。当人は扉の鍵を閉めて、明かりをつけた。ぼんやりと明るくなったが、子供は歩いてくる竜を見上げ続ける。
「ここを牢屋だというなら、まだここに来て日は浅いのか」
鼻で笑う竜の目付は鋭く、子供と視線をぶつける。
「ここは俺の工房だ。取引しないか、ガキ」
子供はなんよ、と精一杯の憎しみを向ける。そう睨むな、と無表情のギルはかがんで、外套の中からあるものを取り出した。光を通さないほど真っ白な石だ。だがそれはいびつな形をしている。
「さっき、宝石を売っている、と言っただろう? 加工もしているんだが、これは原石だ」
石を手のひらで転がし、子供に見せつける。一瞬だけ、いぶかしむような視線を彼へ向けていたが、興味は一瞬で原石へと移ってしまう。
ただ一攫千金を求める者たちにとって、きれいな石はただの石だ。金にもならなければ、食えもしない。だが目の前の竜の転がす石には、表現し難い魅力があった。
「荒れ地に、このくらいのサイズの原石が見つかることがあってな。もし見つけたら、買い取ってやる」
取引の提案を、静かに行うギルに対し、石をじっと見つめる子供から、答えはない。
「サイズにもよるが、これで数十日は食える金をやる。悪い話じゃないだろう」
ギルが石をしまう。あ、と子供が何かを口にしようとするが、かぶりを一つ振って押し黙る。
「もし数日、探し続けるというなら、食料も道具も、貸してやる。その分、買い取り額は減るけどな」
静かな言葉は、倉庫の中に重く響いた。
「仮にだ。原石をおまえが見つけて、おまえが磨く。そして売れれば、すべておまえのものだ。もちろんお前は、拒否してもかまわん。このまま、盗んで、追われて、渡り歩き続ければいい」
子供は倉庫の中で、じっとギルを見上げる。
「お前には、向いてないかもしれない。だが、お前みたいなやつはほかにもいるんだろう? そいつらにも、紹介してやってくれ」
そこまで口にすると、主は立ち上がって振り返り、扉の鍵を外す。そして隙間を僅かばかり開いた扉からは、陽の光が差し込んでくる。ギルは行くなら行け、と言い残して、外へと姿を消した。
唇をかみしめる子供はようやくあたりを見渡して、石飛堂の舞台裏を眺め始めた。子供には広すぎる工房は、狭い世界しか知らない彼女の中では不安が膨らむばかりだ。
今、ここにはシェーシャはいなかった。
この倉庫はただ静かで、淀んだ空気があたりを満たしていた。
石飛堂の裏手の近くには、水場がある。草原にある泉からひいているものだ。一定の間隔で用途別に貯水池が作られており、洗い物、水浴び、飲み水などがある。
その中でも一番広いのは、もちろん水浴び用である。シェーシャが三頭入ってもなお、スペースが余るほどだ。今現在、シェーシャは腰を下ろして座るような体勢で半身を水に沈めている。彼女以外にも水浴びをしている人間や獣もいるが、まだまだ余裕がある。
石飛堂から出てきたギルはシェーシャの近くまで歩いてきて、淵に座った。足を水につけて、ふん、と鼻を鳴らす。
「あ、お話終わったー? あの子に石集めお願いして、どうするの」
近くに座る気配に、くるりと首を曲げるシェーシャは、水中で尻尾を揺らす。その近くにいた者は脚に触れたそれを、なんだ、といぶかしむ。
「加工して売りさばくだけだ……ここらで、あんな宝石が採れるとは知らなかったからな」
ギルが尻尾を大きく曲げて、水に垂らす。
「でもさぁ、どれも石じゃん。なんであんなの欲しがるの? わかんない」
退屈そうなシェーシャに、ギルは別にいいだろう、と。
「それを好き好むやつがいるんだ。俺たちはそれを作ってるに過ぎない。俺はこれしか、できないからな」
土竜はそれだけ言って、黙った。シャーシャもふーん、とつまらないと言わんばかりに答え、近くの子供たちと戯れ始めた。胸元にいた子供に水をかけてたり、尻尾を使った追いかけっこなど。ギルはやりすぎるなよ、と恋人に注意を何度も促していた。
ギルが家に戻ったのは、夕焼けが見え始めたころだった。開けっ放しの扉をくぐると、まだ子供がいた。倉庫の真ん中に佇む彼女に、名前を聞いてなかったなガキ、と威圧的に竜は尋ねた。すると子供は彼に蹴りを入れたときと同じ目で、こう返した。
リジールや、と。
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