第2話 ウィルム・コート
順風を受け、1本マストの帆船がケルト海を進んでいた。
横帆が風をいっぱいに受けてふくらんだ。
船首に立つ、ウィルムの胸も期待でふくらんでいた。ウィルムは、叔父のコート伯によって騎士に叙任されたばかりだった。
騎士の修業を始めたのは7歳のときで、14歳にブリテン島に渡り、叔父の従騎士となった。足かけ13年、20歳を迎えたウィルムは、ついに念願の騎士になれた。
そして今日、主君コート伯から5日の休暇をもらい、ケルト海に浮かぶ島に凱旋する。故郷から騎士を出したのは初めてだった。コート家は男子に恵まれなかったので、彼の騎士叙任は本当にめでたい話なのだ。
なにより、故郷では婚約者のアミリアが待っていた。ウィルムが騎士になったあかつきには、花嫁として迎える約束だ。帰島の知らせは、きのうの船便で送っていたので、きっと結婚式と祝宴の準備を整えて待っている。
出身地のコートアイランドは、ブリテン島の南西に突き出た岬から、船で半日ほどだ。コート家はぶどう畑を持ち、アミリアの家はワインの卸しで富を得ていた。その関係で、2人は子供のときから婚約者と決められていた。
アミリアは16歳になったばかりで、ウィルムとは4歳離れているので、幼いころに遊んだ記憶はない。ウィルムが14歳で故郷を離れてからは、年に数回しか会えなくなった。会うたびアミリアは魅力的になっていった。きっと素晴らしい貴婦人になるだろうと期待した。
騎士の役目は、貴婦人の願いを聞き、その身を守ることだと、ウィルムは幼いころから信じていた。騎士として守護すべき女性として、ずっとアミリアを意識していたのかもしれない。それはいまも変わらなかった。
耳をおおう黒い髪が、潮風になびく。島国育ちの顔は浅黒く、あごのとがった精悍な顔つきをしている。騎士にしては小柄で、白いマントをまとった体はほっそりとしているが、そのうちには鍛えぬかれた肉体があった。腰には叙任式で主君から拝領した長剣を帯びる。
水平線に、コートアイランドの高い断崖が広がりだした。
――ついに騎士となって帰ってきた。
感慨はひとしおだった。
コートアイランドは海岸線のほとんどが高い絶壁で囲まれ、東側の入り江が唯一の港になっていた。帆船が島をまわりこむと、やがて崖が途切れ、港湾の桟橋が見えてきた。港にはずいぶん人だかりがしている。島で初めての騎士の凱旋だ。その評判は島じゅうに広まっているはずだ。
船の係留を従者にまかせ、ウィルムは桟橋に降りた。
とたんに歓声が上がり、島民が群がる。懐かしい人の顔がたくさんあった。若者は羨望の眼差しを向け、大人は誇らしげだった。
まっさきに進み出た父親に、きつく抱きしめられた。腹の脂肪があたり、また太ったのを感じた。
人垣の向こうに、家族をともなった娘たちが見えた。その奥に、ウィルムは探し求めていた姿を見つけた。
目が合うとアミリアは、そっと視線を下げた。
彼女は美しい衣装をまとい、長く垂らした髪に花の冠をのせていた。侍女の陰に隠れている。自分を見せびらかさない奥ゆかしさに、ウィルムは感動した。
人ごみをかきわけ、アミリアのもとに向かった。
アミリアに会うのは半年ぶりだが、ますます美しくなっていた。金色の長い髪をふわりと両肩に下ろし、広い額を見せている。ほつれ毛の下でまぶたをふせ、唇には紅をさしていた。
ウィルムはアミリアの肩に手をかけた。はすかいに彼女が見上げてくる。瞳には幼少時のあどけさがあり、愛しさがこみあげてきた。言葉は発さなかったが、アミリアの信頼と尊敬の念はじゅうぶん伝わってきた。
ウィルムはアミリアを伴って馬車に乗り込んだ。人々はもっと話を聞きたそうにしていた。それは結婚式のあと行なわれる宴会で、たっぷり披露させられるはずだ。
馬車のなかで、ようやくアミリアとふたりきりになれた。
幼いころから顔を合わせていたとはいえ、いつもはたくさんの取り巻きがいた。ふたりだけになってみると、なにを話したらいいかと迷った。アミリアは澄ました顔で前を向いている。
「ずいぶん待たせてしまった」ウィルムはあやまった。「ヘンリー2世が即位するまで、なかなか騎士になるチャンスがなかったんだ。結婚は騎士になってからという約束だったから」
「騎士叙任式はどうでしたか」
アミリアの取り澄ました顔に、ちらりと喜色が浮かぶ。
「叔父の居城の広間に、先輩騎士や貴婦人がたくさん集まってくれた。ぼくは純白のサーコートをはおり、剣帯をきつくしめてのぞんだ。緊張のあまり体が震え、コートの下で鎖帷子が音をたてないかと、心配になったくらいだ」
「コート伯に、お変わりはありません?」
「ますます太った。ふんぞり返り、重々しい足取りで広間に登場したのは、威厳を保っているからじゃなく、肥満のせいなんだ。鎧を装備したら、ひとりで歩けないんじゃないかな。教区司祭から祝福された剣を受け取り、ぼくの腰に佩かせてくれた。まるで重労働をしているみたいだった。立ち上がった拍子にふらついて、ぼくを抱擁するふりで、すがりついてきた。叔父にとっては、そのあとの祝宴のほうがはるかに大事なんだ」
アミリアの唇に微笑が浮かんだ。
ウィルムとアミリアの結婚式は、さっそく明日行われる。それから2日間にわたる祝宴で浮かれ騒ぐのだ。里帰りしてそうそうウィルムは慌ただしく感じたが、島民たちは待ってくれない。
ウィルムの5日間の休暇は、結婚式のためのものだ。休暇が終われば、新妻を連れてブリテン島に帰還する。叔父のコート伯が、領内に新婚住まいを用意してくれていた。
「ブリテン島はいま、どうなっていますか」
「ヘンリー2世は、ぼくらブリテン人の支持をえようとやっきになっている。それで、ブリテン人の英雄アーサー王を引き合いに出した」
1160年。イングランドでは、プランタジネット朝のヘンリー2世が即位したばかりで、内乱には終止符が打たれていた。
国王の懸念は、いつまたサクソン人が反乱を起こすかだ。だからこそウィルムたち先住のブリテン人を味方につけたい。しかし、ノルマン人であるヘンリー2世には、イングランドでの権威づけがなにもない。そこで600年前にサクソンに大勝利を収めた、アーサー王を引き合いに出した。キャメロットの円卓の騎士にならい、あいつぐ叙任式の奨励となったのだ。
だからウィルムが騎士になれたのも、ヘンリー2世の政治的な思惑があってのことだ。叔父はしぶしぶ叙任したに違いなかった。
しかし、そこまでは教えないで、
「ブリテン島の情勢は安定している。ヘンリー2世は、居城でたくさんの騎士にかこまれ、アーサー王を気取っているよ」
とだけ話した。
「本当に、アーサー王が戻ってくれればいいですね」
アミリアがぽつりとこぼし、
「そうしてサクソン人だけでなく、ノルマンの侵略者(ヘンリー2世のこと)もブリテン島から追い出し、わたしたちの王に返り咲くの」
アミリアの口調はどこか夢見るようだ。
「アーサー王はいまも、伝説の島アヴァロンで治療を受けているよ」
そう言って、ウィルムは苦笑した。
カムランの戦いで甥のモルドレットと刺しちがえたアーサーは、治療のためアヴァロン島に運ばれたと伝えられている。いつの日にか、ブリテン人の希望にこたえて帰還すると信じられていた。
もちろん、600年前の人物がよみがえるはずもないが、アミリアの興味をかきたてたようなので、ウィルムは話を合わせる。
「魔術師マーリンだったら、時代を超えて、アーサー王を呼び戻せるかもしれない。言い伝えによると、マーリンは恋人のヴィヴィアンにだまされ、森のなかの見えない塔に閉じ込められたそうだ。そのなかは時間が止まっているというから、いまでもそこに幽閉されているんじゃないかな」
「それほどの魔法の名人が、どうして、そんな魔法にかけられてしまったんですか」
アミリアの目の輝きが、いっそう増していく。
「ヴィヴィアンはマーリンの弟子でもあって、師匠にふたりの新居が欲しいと頼んだ。マーリンは魔法で塔を建てようとしたが、ヴィヴィアンは自分の好みで造りたいから、と魔法のかけかたを習った。そしてマーリンが眠っているあいだに、彼の周囲に塔を建てて閉じ込めてしまったんだ」
「優れた魔術師も、それではかたなしですね」
「女性にはかなわないよ。たとえそれが嘘とわかっていても、貴婦人の頼みとあれば、それを叶えるのが騎士の役目だ」
「わたしの願いも聞いてくれますか」
「もちろんだよ」
「わたし、雪が見たい」
ウィルムは言葉をうしなった。
とほうもない願いだった。コートアイランドは、大西洋からの暖かく湿った風の影響で、めったに雪は降らない。しかも、いまは春先だ。
「やっぱりコートアイランドに雪は無理ですね」
アミリアのすねた表情に、ウィルムは幼いころの面影を見た。しかし、無理なものは無理だ。うまく説得して、こればかりはあきらめてもらわないと――。
「ぼくはイングランドで何度も雪を見た。そんなにいいものじゃないよ。最初はめずらしく、仲間と戸外で雪に興じたけど、1日でこりた。手足がかじかみ、体の芯から凍りついた。冬のあいだは屋敷に閉じこもり、防寒着を何枚も重ねて過ごしたんだ。春が訪れたときの喜びはひとしおだった」
「でしたら、冷たくない雪を降らせてください」
難易度がさらに上がった。
「それは魔法でなきゃ無理だよ。ぼくは騎士であって魔法使いじゃない。ブリテン島に戻ったら、マーリンの閉じ込められた塔を見つけて、相談してみるよ」
「お願いします。わたしの騎士さん」
アミリアが信頼の眼差しを向け、頭を下げた。
ウィルムは、まいった。騎士になって最初の頼みが無理難題だった。騎士としてこれからやっていけるかと不安になった。
アミリアは伏せた顔の下で、笑っているように見えた。
翌日の昼過ぎから結婚式が始まった。
ウィルムは家族や友人知人を引き連れ、楽師を先頭に、教会に向かって通りを進んだ。アミリアのほうも同じように行進してくる。ふたつの行列は教会の戸口で出会い、そこで式がとりおこなわれる。式には誰でも参列でき、教会前の広場は人々でうめつくされる。
花嫁は、従者の引く白馬に乗って現われた。金銀細工の冠をかぶり、薄いベールでおおった髪を額でふたつに分け、両肩から胸の前に垂らしている。白いドレスの胸もとに花をあしらった刺繍がほどこされ、金糸で織られた帯で腹部をしぼっている。スカートはゆったりと幾重にもひだが折られ、ふくらんだ袖口から伸びる細い手に、ふた枝の白い花が握られていた。
ウィルムは、やって来るアミリアから目が離せなくなった。
結婚式は花嫁が主役だと思っていた。だから両親が派手できらびやかな衣装を着せようとするのに、あまりいい気持ちはしなかった。実際に式にのぞんでみると、最高の衣装をまとってきたのは正解だった。平服でアミリアの婚礼衣装と並んだら、とてもみすぼらしく見えたに違いない。
ウィルムとアミリアが教会の前に立つと、戸口に主任司祭の白い法衣をまとった姿が現われた。式はその場で、集まった島民に公開のもと始まった。
司祭の合図で、ウィルムは指にはめていた指輪を外し、アミリアの左手を取る。ほっそりした薬指に指輪を通した。その指から心臓とは直接つながっているという。女性が薬指に指輪をはめることを許すのは、自分の心を夫にあずけるという意味だと教えられていた。
アミリアの表情をうかがうと、恥ずかしそうに指輪を見つめている。アミリアも同じことをくりかえし、指輪の交換が終わった。
司祭がおごそかにうなずき、ウィルムとアミリアに誓いの言葉を述べさせた。そして、父と子、精霊の御名によってふたりの結婚を宣言した。
アミリアは、ほっとした表情をしている。婚礼はまだ終わったわけではない。これから礼拝堂に入り、結婚の祝福とミサが行なわれる。
司祭のあとについて教会のなかに入った。そのあとから列席者が続いてくるはずだ。礼拝席のあいだを抜け、1段高くなった祭壇の前に出る。司祭がひざまずく ように言った。ウィルムとアミリアがそうすると、上からベールをかけられ、新郎と新婦の頭と両肩がおおわれた。
司祭の祝福が始まった。頭上から賛美歌の声がふりそそいでくる。ウィルムがアミリアの手を握ると、ぎゅっと握り返してきた。ふたりで聖餅をわかちあって食べ、同じ杯でワインをひとくちずつ飲んだ。
祝福とミサが終わると、新夫婦は家族や友人そして司祭にみちびかれ、礼拝堂の戸口まで進んだ。これから先祖の墓参りだった。結婚式は一族すべてが立ち会うしきたりになっていた。
家路につくころには陽は傾きだしていた。
婚礼の行列はパレードのようにして、大宴会の行なわれる領主館に向かった。先頭で楽師が楽をかなで、2頭の馬に乗った新郎新婦があとに続く。そのうしろを何10人もの参列者が歩いた。
ウィルムは空をあおいだ。遠く森を透かして、太陽が赤くにじんでいる。あまり暗くならなければいいが、と考えていた。
一行は街路に入った。狭い道の両側に4階建ての石造の建物が並んでいる。この道を抜けた広場の向こうが領主館だった。
ウィルムは窓のひとつを見上げて、うなずいた。
「これから魔法を見せるよ」
ウィルムが、馬上のアミリアに話しかけた。
「えっ」と顔を向けた彼女の鼻先に、雪のひとひらが落ちる。
それは薄く、冷たくはなかった。
左右の建物によって切り取られた空から、雪が舞っていた。無数の雪片が風に乗り、ひらひらと舞い落ちてくる。
アミリアはすぐに、それが羊皮紙や布の切れ端であると気づいたようだ。ウィルムは友人に頼み、パレードが通りかかるのを見計らって、いっせいに散らしてもらう手はずにしてあった。
「騎士になりたてのぼくには、いまはこれくらいしかできないけれど。イングランドで暮らすようになったら、ほんものの雪を嫌というほど見せるよ」
ウィルムの言葉に、アミリアが美しい顔を向ける。
「ありがとう。わたしの騎士さん」
ウィルムは胸があつくなり、うなずいた。
とにかく騎士としての最初の使命は果したのだ。ほっと安堵していた。
* * *
中世ヨーロッパでは、子だくさんを願って新郎新婦に穀粒を投げる習慣があった。さらには道ばたの藁くずなど、なんでも投げつけた。そうして紙切れを散らしたのが紙吹雪の起源だといわれている。
紙が発明されたのは前2世紀の中国だとされている。ヨーロッパに紙の製法が伝わったのは、ずっとあとだった。1189年にフランスのエローに製紙工場が建てられた記録がのこっている。ウィルムとアミリアが結婚した1160年の離島では、紙はほとんど一般的ではなかったはずだ。
そこで羊皮紙や布を細かく切り刻み、建物の窓から舞い散らした。これはアミリアの願いをかなえるための、ウィルムの苦肉の策だったのだろう。
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