8.暗号文の謎
私は人に涙を見られることが苦手だ。
精一杯肩肘張って生きている自分の化けの皮が、全部剥がれてしまうような気がするから。
本当の私は強くなんてない。
早とちりだし、うっかり者だし、鈍い上に気もきかない。
だけどそんな私の欠点を全部わかってて、それでも「そのままでいいよ」と笑って許してくれる。
――私にとって貴人はそんな相手だから、懸命に歯を食いしばっている今のような状況でも、涙が溢れだしてしまう。
「私こそ嫌だってば! ……放してよ……!」
「嫌だよ」
あいかわらず、短いその返事しかしない貴人の声は真剣だ。
なのに私の手を掴む両手も、私を見下ろす笑顔も、胸に痛いくらい優しい。
「だって……! だって……!」
絶対に怪我をしたはずの貴人の両腕を見上げながら、負担をかけているばかりの自分が悔しくて、どうしたらいいのかと必死に頭をめぐらす私の耳に、その時よく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「琴美……? 琴美か?」
「繭香!?」
急いで声のしたほうに視線をめぐらして見たら、遥か下方に人影が見えた。
そこに繭香が立っているということは、おそらくあそこはちゃんとした地面なのだろう。
「貴人! ほら大丈夫! 繭香がいる! あそこがきっと地面よ。手を放してくれたら、私、自分でちゃんと着地するから!」
貴人は綺麗な目を少し眇めて、私と繭香の距離を計ってから「無理」と笑った。
「結構高さがある。危ないよ琴美。猫みたいに着地できるって言うんなら、話は別だけど……」
かなり蒼白な顔をしながらも、クスクスと笑い出す貴人の笑顔に、私は涙も吹き飛ぶほどの勢いで、懸命に訴える。
「大丈夫! ちゃんと猫みたいに華麗な着地を決めてみせる! だから……ね!」
「いや無理だよ」
変わりない返答に、ため息が出た。
どうして貴人は、こんなにも頑ななんだろう。
彼の意志の強さを、私は常々うらやましくさえ思っていたはずなのに、今はそれが歯痒く思える。
まさかこんなふうに感じる日が来るとは、今まで思ったこともなかった。
「もうっ! 貴人の意地っ張り!」
「ハハハッ……助けてるのに、俺が怒られるの? ……でも……なんて言われたって放すわけにはいかない」
どうしたらいいのかわからない。
途方に暮れる私の耳に、下の方から繭香とはまた違う声が聞こえてきた。
「いいから放せよ……」
そう。
繭香がそこにいるということは、一緒に行ったはずの諒もいるに違いないってことを、私は今の今まですっかり失念していた。
「どんな変な格好で落っこちてきたって、俺がちゃんと受け止めるから」
思いがけない言葉に感動して、せっかくひっこんだ涙がまた浮かんでくる。
「諒……」
なのに――。
そのあとに続いたのは、私のその涙も、またひっこむような言葉だった。
「どうせ、またそいつがドジやったんだろ……? まったく問題起こさずにはいられないのかよ……! 重くて受け止めるのは無理そうだったら、大人しく俺が下敷きになるから……貴人も無理すんな!」
「ちょっと諒!」
一瞬浮かんだ感動の気持ちも全部消し飛んで、なんとか諒を一発殴りに、早くあの場所に行きたいと足元を睨みつける私の上で、貴人は大笑いを始める。
「ハハハッ! ちょっ……諒! 笑わせないで! 力が抜ける!」
「だから抜けていいんだって! 俺が下にいるから!」
「うーん……でも琴美を諒に渡すのか……」
「変な言い方すんな! この場合、仕方ないだろ!」
「でもな……」
延々と続きそうな問答に、(なんでもいいから早くして!)と思っていたのはどうやら私だけではなかったらしい。
「いいからさっさと放せ。どうせ引き上げる力は残ってないんだろ。お前の意地で、今一番辛い状況にあるのは琴美だぞ!」
繭香の静かな怒りの声を聞いて、貴人が私に視線を向け直した。
目と目があった瞬間、ちょっと困ったような表情になる。
「うん、わかってる。ごめん琴美」
「ううん……そんな……!」
私は辛くなんかない。
辛いのは貴人の腕だろうと言い返そうとした瞬間、ニッコリと笑われた。
「じゃあ放すけど、俺が本当は放したくないんだってことは覚えててくれる?」
「え?」
「本当は放したくないんだよ。忘れないで琴美」
思わず頬が染まってしまいそうなセリフを、真っ直ぐに見つめられながら、微笑み混じりに告げられて、頭がぼうっとする。
それでも私が返事をしないことには、きっとこの状況は先に進まない。
私はおずおずと頷いた。
「わ、わかった……」
いよいよこれから下に落ちるのかと思ったら、さすがにドキドキして、距離を確認するように足下を確かめてみる。
瞬間。
貴人が私の上から声をはり上げた。
「諒! 絶対に受け止めろよ!」
いつも笑い混じりにしゃべる貴人が、そんなに真剣な声を出すのを、私はあまり聞いたことがない。
(……えっ?)
驚いてもう一度上を見上げようとした時、下からも思いがけない声が聞こえた。
「当たり前だろ!」
(えっ?)
こちらは声だけ聞いていれば、いつもどおりのちょっと怒ったような声。
でもその内容が、さっきまで貴人と話していた時とは、あまりに違いすぎる。
「俺がそいつを落とすわけないだろ!」
(えっ? えっ!?)
私に諒の言葉の真意を考える間も与えず、貴人が手を放した。
「きゃあああ!」
短い悲鳴が終わる頃には、私はもう繭香の隣に到着していた。
それも諒を下敷きにしたのではなく、ちゃんと諒の腕の中に受け止められて。
「いってえ!」
叫んだ諒から慌てて飛び退こうとしたのに、私を受け止めると同時にしりもちをついたらしい諒は、私を放してくれない。
「諒? ちゃんと受け止めた?」
貴人の問いかけに、誇らしそうにちょっと顎を上げて、
「だから! ……俺がこいつを落とすわけないだろ!」
諒がもう一度叫んだ返事にドキリとした。
抱きかかえるようにまわされた両手に、ぎゅっと力がこめられたことに、もうどうしようもなくドキドキした。
「で? まさか絵に描かれた場所を発見したから、暗号の文章のとおりに飛び下りたってわけじゃないよな?」
暗い中でも爛々と輝く繭香の瞳に、探るようにじっと見つめられて、私はその場にひれ伏してしまいそうだった。
「そ、そんなことはありません……」
なぜか口調まで敬語になってしまう。
「じゃあ、やっぱり琴美が……いつものようにドジったんだな……」
「はい……」
しゅんとうな垂れる私の頭を、よしよしと佳世ちゃんが撫でてくれる。
「大丈夫。芳村君の怪我も出血は多いけど、傷自体はたいしたことないから……琴美ちゃん気にしないで……」
その貴人は、腕にできた裂傷をハンカチで押さえてニコニコしている。
「そうそう」
「でもたぶん、長い時間琴美をぶら下げてた肩のほうがいかれてると思うよ? ……あとからかなりの痛みがくるかも……」
真正直な渉の言葉に、佳世ちゃんがちょっと焦る。
「早坂君!」
「大丈夫だよ。大丈夫」
それすら笑顔で返してしまう貴人に、申し訳ないやらすまないやらで、私はなおさら小さくなった。
もともと私と貴人がいた場所から、繭香と諒がいた崖下までは、よく探してみたら歩いて下りる道があった。
それを通って貴人が私たちのところにやって来るのとほぼ同時に、渉と佳世ちゃんも到着した。
どの道を通ってもこの場所に辿り着けたということは、どうやらここが目的地でまちがいないようだ。
『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
なぜかっていまさらきくの?そんなことわかってるだろ?』
渉が持っていた暗号文をもう一度読んでみたら、その恥ずかしい文面がさっきまでの自分の状況と微妙に重なってしまって、とてつもなく照れた。
私の手を「本当は放したくない」と言ってくれた貴人と、
「俺がこいつを落とすわけない」と言い切った諒。
思い出したら顔から火が出るように恥ずかしいし、冷静ではいられない。
「こ、これにどういう意味があるのかしらね……?」
心の動揺を悟られないようにと、考えることに集中しようとする私につられるように、貴人も諒も繭香も渉も佳世ちゃんも首をひねる。
「告白?」
「いやノロケだろ?」
「ふん。ずいぶんもったいぶった言い方だな」
「でも、こんなふうに言われたらちょっとドキッとするよね……」
「えっ? 佳世ちゃんってこんな言い方が好きなの?」
「う、ううん……そういうわけじゃなくって……」
ダメだ。
全然らちがあかない。
「そもそもこの場所に何があるって言うの? 木が生えてて、枯れ葉が積もってて、あいもわわらず河童の像。これまで進んで来た道と何が違うって……」
言いかけて私は、何気なく指差したその『河童の像』をまざまざと凝視した。
(おかしい……)
何がかと言うと、その像がだ。
これまで道沿いに転々と立っている姿は何度も目にしたが、こんなふうに通行の邪魔になるようなところに立っていた物は他にはなかった気がする。
「ねえ……」
なんか変じゃないかと、私が口を開きかけた時に、諒が唐突に叫んだ。
「うわっ! 俺、この暗号わかったかもしれない!」
「ほんとに!?」
思わず自分が話そうとしていたことはあと回しにして、何を見て諒がそう思ったのかに耳を傾ける。
「ああ。がけのしたを見てみろよ」
言われてそのまま、私は自分たちの周囲を見回した。
「お前……やっぱバカだろ……?」
ひさしぶりにそのセリフを聞いて、嬉しくもあったけれど、腹がたったのも本当だった。
「なによ! だって、崖の下ってここでしょ?」
「そうだけど、そうじゃねえよ……ほら『がけのした』!」
言いながら諒が指差したのは、例の暗号文だった。
ぜんぶ平仮名で書かれたメッセージは、そう言えばなんだか中途半端なところで改行されている。
「なによ偉そうに! いくら見たってなんのことだか私にはさっぱり……」
言いかけて息を呑んだ。
諒が私に言いたかった『がけのした』が、その時はっきりと見えた。
「これって……!」
大興奮して自分が気がついたことを話し始めた私には、崖の下には何があるのかさえ、もうわかっていた。
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