第29話 おはよう、教頭先生

「ふあ、お早う御座います教頭先生」

 酒ビンが散乱する散らかった部屋の中央で教頭先生はむくりと上半身を起こすと、そう言って背伸びをしながら自分に挨拶をしました。

 得体の知れない蟲がゴミの隙間にたくさん蠢いています。

「ふう、おや」

 カーテンの隙間から腐った灰色の光が差し込んでいました。

「・・まさか」

 教頭先生は微笑みながら顔を真っ赤にしてカタカタと震えると、どたどたと起き上がり、部屋の中のゴミの山を掻き分け始めました。

「まさか、まさかまさか」

 そして青筋を立てながら大きな古時計を両手で引っ張り出し、壁に立てかけました。

 見ると時計の針は既にお昼であることを指し示しています。

「そのまさか、とでもいうのだろうか。ば、馬鹿にしてっ。もうっ! だあぁッ!?」

 教頭先生は時計を窓ガラスの方へ投げ付け、割れたガラスの破片と大きな古時計はベランダから遥か下の地面へと落ちていきました。


がしゃーん・・。

ぎゃー・・。


「フフフ、考えてみればおかしな話です。何故生徒は遅刻が許され、教頭に遅刻は許されないのですか。私はそうした差別と断固戦うつもりであるのです。そのことを予め御了承下さい」

 教頭先生は何やらそんなことを一人でブツブツと呟きながら足元の日本酒の瓶を拾い上げると、股引からはみ出たお腹をボリボリと掻きながらキッチンにいきました。

「流石教頭先生。これも生活の知恵ね」

 教頭先生は酒ビンの中に水を入れて振ると、それを一気に飲み干しました。

「ぶはっ。微かに・・!」


 おや?


 ふと教頭先生は開けっ放しの扉の向こうから覗く廊下からゴミが無くなっていることに気が付きました。

「ひ、ひぃい!」

 教頭先生が慌てて廊下に出ると、埃一つないぴかぴかの床がバスルームの前から、柳が使っていた部屋の方まで続いています。

「誰なの、勝手にうちを片付ける人は・・。むむ」


 教頭先生はお母さんの居なくなったバスルームの扉を開けました。

「ぎゃ、ぎゃあっ」

 バスルームはぴかぴかに磨かれ、光を放っています。

 タイルの溝も、石鹸置きも、蛇口も風呂桶も湯船も、何もかもが新品のよう。それは教頭先生にとって悪夢のような光景でした。

「生活空間はその人の心の状態を表すものですよ。こ、こんな綺麗な場所に住める訳がないじゃない。教頭、恐い。教頭今怯えています。もしや、これはもしや」


 教頭先生はどたんどたんと廊下を進みました。教頭に踏まれた床はどんどんと変色していき、元の腐ったような色を取り戻していきます。


(まさか、まさか、昨日この教頭先生が一人酒宴を開催なさっていた最中、ここ暫く姿を見なかった橋の下で拾ってきた例の人魚の娘の方が帰ってきて行った悪事、とでもいうのだろうか)


 教頭先生は柳の部屋の扉のノブに手をかけました。

「か、鍵。いつの間に。ご、ごあっ。だ、だあああーッ!」

 どかんという音と共に教頭先生は柳の部屋の扉を殴り壊しました。


 見ると柳が居ない間、ゴミの一時保管所として利用していた部屋は綺麗に片付いていました。

 隅っこの方にボロボロの襦袢が小さく畳まれて置いてあり、部屋の床の中央には何やら便箋が一つありました。


 教頭先生はそれを拾い上げると躊躇することなく封を開け、中身を見ました。


《かってにみないで、きらい。》


「・・・」


 教頭先生は暫くその場に立ち尽くしました。

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