第20話 さよなら、げろふんにょう

 外から見たら小さな建物でしたが、実際に歩いてみると意外や意外、なかなか広いものです。和子さんは世の中というのは大抵上っ面と腹の中は違うものだ、つまり、小さく見える建物であっても実際はその何百倍も大きさが違う、ということもこうしてありえる、ということをぺちゃくちゃと一人で元気よく喋っています。柳は少し前にあったやり取りで悲しい気持ちが残っていたのであまりそれに応えることもできず「ぶへ……、うん、うん」とうなずきながら和子さんの後をついて行きます。

 この頃はこの部落で言うところの自殺シーズンに当たるということもあって、民宿最期ノ晩餐は〝自殺感謝ウィヰク”と新聞に広告をうち、普段より安いお泊まり代金になっていました。そのことが功を奏したのか、この日の客室はすべて満室ということでした。しかし通り過ぎる部屋は大抵しんと静まりかえっており、遠くの中庭の鹿威しの音が時折“カコーン”と意識の中に届く程です。その静けさの中を障子に映る二つの影がひたひたと歩いていきます。

「闇・・、闇のち闇・・、闇・・、闇・・」

「ぶへ」

 ふと、わずかに障子が開いており、何かを呟くような声が漏れているお部屋がありました。

(ど、どんな人が泊まっているのかな、ふへ)

 柳はお部屋の前を通り過ぎる時に、中の様子をちらっと覗き込みました。

 ちょこんと座って目の前の何かを両手で揺する小さな影の頭がこちらを向きました。

「げひ」

 丁度その時、部屋の中のハエ取り紙に得体の知れない羽虫がぴたんとひっ付きました。

(ふへ、ちいさい、女の子だ)

 女の子の顔は真っ黒で、どんな顔をしているのかは全く分かりません。

 部屋の明かりが点いていないこと、そして、丁度少女の背後にあるアンテナのついた古い箱型のブラウン管テレビのビカビカした逆光がその黒さに拍車をかけていました。


 明日は闇のち闇、

 明後日も闇のち闇、

 明々後日も闇、闇、自殺日和。


 廊下まで聞こえていた読経のような呟き声は箱の中に住んでいる気象予報士の声でした。その天気予報の放送に和室の全体を照らす青白い光があり、その光に女の子の手元が揺すっていたうずくまる大人の女の人がビカビカと点滅しています。女の子のお母さんでしょうか。

(ふへ、起きてお母さん、してるのかな。目が覚めちゃった・・?)

 ふと、柳は女の子の傍に梁からぶら下がる中年男の影があることにも気が付きました。こちらはお父さんでしょうか。

 その足元には包丁が落ちており、その刃から点々と血の雫が女の子のお母さんのお腹の周辺の血溜まり迄続いています。

「おい、げろふんにょう!何を覗いてる」

「ぎゃ!!」

 柳は耳をギュッとつねるように和子さんに引っ張られました。

「本当に知性の欠片も無ぇげろですね。仕草ばかり真似するのではなく心を見習ってモラルを身に付けろ!人徳をよォ」

「ふへ、ご、ごめんなさい」

「“ふへ、ご、ごめんなさい” ぶへへ!変な喋り方、変な顔、死ね馬鹿!」

 和子さんはもう柳の前では自分を演じるのを止めた様子で、毒付くだけ毒付くと少しスッキリしたような顔になって、再びズンズンと先へ行ってしまいます。周囲にニョキニョキと糜爛したキノコが生えました。柳は障子の隙間から女の子に手を振ると、ブリッジをして、キノコがびっしりと生えた廊下の闇の向こうの和子さんをカサカサカサと追いかけました。

 女の子の目は柳が居なくなった後も障子の隙間の向こうの一層深い闇をいつまでもいつまでも眺め続けました。

「・・・」

 悲しい、寒い、暗い、終わらない。

「・・・」

 いつになったら痛いは無くなるのか。

「・・・しにたい」

 闇の中をブリッジでカサカサと虫のように走って和子さんを追いかけている最中、柳はふとそう呟きました。

「おい、この先だ」

「う?」

「う?じゃねえ、このげろふんにょう!正面を見ろ」

 和子さんの声に促された先へ柳は視線を向けました。

 突き当たりに一際大きな障子の部屋があり、障子紙にはおどろおどろしい地獄絵図が筆で描かれてありました。それが部屋の中の赤い照明に照らされてぼぅっと光っています。そしてよく見ると、障子の枠は金属で出来ており、牢屋の鉄格子扉のようになっていました。


 ゲゲゲ!!

 ギャギャギャギャ!!


「う?」

 突如女の人の金切り声が響いてきました。和子さんはニヤリと意地悪そうに笑って「ここの客は定期的に団体で来るお得意様だ。魚の餌になり損ねた牝を回して遊んでもらってる。今回は1週間の滞在予定だ」と言いながら鉄格子の鍵を開けました。


 ゲゲゲゲゲゲ!!

 ゲゲゲゲゲゲ!!


「よく聞け。あれが女が体験出来る最も陰惨な地獄の慟哭だ。かわい子ぶったって泣いたって喚いたって無駄だ。じっと耐えることも、抵抗することも馴れることもできないし、かといって狂ってしまうこともできない暴力の加減をお客様はご存知だ。半刻もすればすぐにお客様方が人間の形をした人間ではないものであることが分かるだろう。いうなれば、そうだな・・」

 和子さんは頭を傾けて頰っぺたを持ちました。

「虫だ。虫に近い。悪魔とは取引が出来るというだろう。お前、鎌に挟んだ獲物を哀れんで逃した蟷螂の話を聞いたことがあるか?」

「な、ない、ふひ」

「じゃあ実際にやってみな!!」

「ぎゃひい!」

「もう二度と会うこともあるまい。あばよ、げろふんにょう」

 柳は扉の中に蹴り入れられ、扉は閉ざされると和子さんによって固く鍵が掛けられました。

「ひ、ひいいいい」

 そして次の瞬間、柳は何か凄い力に引っ張られ、長い長い地獄の苦しみの中に引きずり込まれました。



「やったァ!」

 ふと、そんな声が教室に響き渡りました。

 指で弾いた消しゴムがもう一つの消しゴムに当たり、机の上からぽとりと床に落ちたのです。

「ぬぬぬ」

「ふふ、勝負は勝負だ。この消しゴムは僕が頂くよ」

 そう言いながら消しゴムを拾おうとした少年の手首をがしりと掴む者がありました。

「ワトスン、待ち給え」

 鎮太郎くんです。

「うん?まさか、君。このような戯れ事にも得意の屁理屈をこねる気なのかい」

 鎮太郎くんは欧米風に「ちっちっちっ」と舌を鳴らしながら人差し指を口元で振りました。

「戯れ事とな何だね。これは真剣勝負だよ、ワトスン。そして敢えて君の口をついた無礼な言葉に更に言及すれば屁理屈というのは屁のような理屈のこと。これから僕が言おうとしているのは至極真っ当な知性のある大人の世界の理屈、即ち、同じ空気にして屁とは異なるものなり」

「・・君の話はいつも若干分かり辛いな。もう少し簡単にならないかね」

 鎮太郎くんは呆れたようにふう、と溜息をついて学生帽を脱ぐと「よかろう」と続けました。

「そもそも消しゴムというものは果たして二つ必要なものなのだろうか、冷静に考えてみたまえよ、ワトスン」

「・・いや、必要無い。しかしだね、君」

 口籠る様子を見せた伸宏くんの様子に鎮太郎くんは心の中で、ちょろいものだ、と思うと、ふん、と鼻を鳴らして肩を竦めました。

「ではその消しゴムは返して頂くとしましょうか」

「な、何だと。・・鎮太郎くん、僕は別に予備の消しゴムが欲しくてこの勝負を受けた訳ではない。この勝負やルールやそれに伴う消しゴムのやり取りに至るまで、全て君が決めたことだ。僕は勝利の証としてこれを貰おうとしたまでだ」

「それがどうかしたのかね、ワトスン」

 しばらく二人の間に静寂が漂いました。

「・・・」

(嗚呼、そうだ。この男は気違いなのだ)

「ふん、もういいさ、くれてやる。この軽蔑と共に受け取るが良い」

「何だい、その“粋”な台詞は。芝居がかっていらっしゃいますなぁ、ワトスン。あっははは!」


 丁度その時、学校の裏の焼却炉の中から宇宙の一切を見つめていた雀木苑子さんが誰かの強い思いに唇を動かされ、呟き続けていました。

「たすけて、しんたろうくん、たすけて、しんたろうくん」

 雀木さんは、血の涙を流しながら何度も何度も呟き続けました。


 さようならげろふんにょう。

 さようならげろふんにょう。


 さようなら、げろふんにょう。

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