第08話 人魚姫の活け造りだぞ

 曇天の鈍空の朝、だだっ広く薄暗い一面の畑の中に線路が一本走っています。その線路沿いにある泥の道を行く海老反りの人達に紛れて、柳がべちゃん、べちゃんとやってきました。


『一緒に海に行こう、あなたを海老にしてあげます』——山田 鎮太郎


 その日は土曜日で、柳は数日前に学校で鎮太郎くんに誘われ、これから待ち合わせの駅の方へと行くのです。


 お気に入りの生成のブラウスに真っ赤なワンピース、黒い小さな靴を履き、首から大きな蝦蟇口財布がまぐちさいふを下げてブリッジをしていました。


 周囲に生えた草に蟲が隙間無くびっしりとしがみ付いています。電車が一本通る度に、それらが一斉に跳ねる“ざざざざぁ”っという音が、錆びた鉄の車輪が線路の継ぎ目を打つ音と共に、長い暗黒のトンネルへと消えていきます。


「海って行ったことがないけれど、もしかして波の音はこんな感じなのだろうか」そんなことを柳は思いました。

 仮に海の水の代わりにイナゴがぎっしり詰まっていて、それが一斉に翅をばたつかせたらどんな音がするのでしょう。柳が頭の中で広がっていく想像の中に自身が飲み込まれていたのを知ったのは、額に何かがゴツンとぶつかった時のことでした。


「い、いた! ごめん、なさい」


 その人の身体は泥の地面に埋まっておった為に見えませんでしたが、泥から突き出た頭の横には警察の人が被っているような帽子が落ちていました。


「痛いな馬鹿! こら、公務執行妨害です。死刑にしますよ」


 目を瞬かせる柳に、男はニコリと笑い「冗談だよ、本当に殺したら事件じゃない」と言いました。


「そのぼ、ぼ、帽子、それお兄さんの?」


「そうだよ。今君が打つかったことにより落ちたのです」


 巡査のお兄さんは身体を地面に埋めたまま頭をぐるんぐるんとよじらせましたが、上手く帽子が被れません。


「もう少し、もう少し」


 巡査のお兄さんは口を開けて舌をびろんと出しました。


(頑張れ、頑張れ)


 結果的に直ぐに飽きてしまうのですが、柳もドキドキしながらその様子を見守りました。舌の先っぽが帽子にちょんと触れます。


「あ、あの、一つ聞いても良いですか」


 柳はもう飽きてしまった様子です。


 巡査のお兄さんは舌を口の中ににゅるんとしまうと柳に向き直り「何ですか」と言いました。


「汽車に乗るのですが、駅まであとどれ位ですか」


「ここから直ぐですよ。もう少し行ったところにありますよ」


 巡査のお兄さんは首を捻って舌先で駅の方を示しました。


「はい、ありがとうございます」


 柳はそうお礼を言うと“べちゃんべちゃんと”歩いていきました。


「今時珍しい、礼儀正しい子だなあ」


 巡査のお兄さんは表情を綻ばせた後、再び舌をずるんと出しました。


(しかし、騙されてはいけない。今の子もブリッジをしていたじゃあないか。あれは何だろう。最近急に増えたということは流行っているのだろうか。見ていると鉄砲を撃ちたくなる。ああ、鉄砲、鉄砲が撃ちたい。何でも良いから撃ちたいのだよ、私は)


 舌の先端が帽子に触れる度に少しずつ少しずつ帽子は遠去かって行きます。たくさん汗が出てきました。


「ちくしょう」


 十分程そんなことをした挙句、巡査のお兄さんはため息をつきました。そして「今日は諦めよう」と呟きながら、泥の穴からずるりと這い出て、諦めがつかない様子で何度も振り向きながら帽子の元を去っていきました。




 ふと、柳は泥道沿いにぽつんと一つの小さなお店があるのを見つけました。薄暗い田園の中にあって、お店の明るい光はよく目立ち、周辺の蟲達もたくさん集まってきています。


「らっしゃい、らっしゃい! 大将だよ、俺ぁ、大将ってんだ!」


 大将の声は大変威勢の良いものでしたが、その声も姿も大量の蟲達の羽音の前に少し霞んでいます。捩り鉢巻きにゴムの前掛、前掛には「原宿」と白い毛筆体で書かれてありました。


(何屋さんだろう。お洒落なお店なのかな)


 柳がお店の近くに来ると、地面が蟲達で埋まっていることが分かりました。


「うわあ! む、蟲の絨毯みたい! 」


 周囲は“ごうごう”と猛り狂った蟲達の真っ黒な羽音をうならせる竜巻が出来ています。


「らっしゃい!」


「いたっ!いたい!」


「あっはっは、そう慌てなさんな。直ぐに慣れるからよ」


 柳は海老になる為に反り返って歩かなければいけないので、掌は蟲の死骸がビッシリと付いているし、顔にもたくさん蟲は衝突してきます。


 コワイ、アカルイ、タスケテ、ココハドコ、ココハドコ。


 何となく柳は蟲達がそんなことを言っているような気がしました。これだけ多くの蟲に囲まれて、柳は産まれて初めて蟲の臭いというものを意識しました。


 それは今まで食べた物のどれとも違う臭いでした。


たこが安いよ、蛸。お嬢ちゃん、食べてみないかい? 切ったげようか」


 大将は活きの良い蛸と出刃包丁を両手に引っ掴んで柳にニッと笑い金歯を見せました。


 蛸が「いやあ」と絶叫してくねくねと暴れました。


「鮮魚店 原宿 ※買取御相談承ります」と書かれた立派な看板にも色々な蟲が“たたん、たたん”と飛び跳ねています。


(魚屋さんなのか。それにしても原宿だなんて……、お洒落な名前だなあ)


 柳は顔や首に抱きついてくる蟲を剥がしながら、お店に並べられた発泡スチロールの箱の方へ寄ると、反らせた背中をバキバキと鳴らしてまっすぐ伸ばしました。蟲の嵐の向こうに様々な魚介類達が元気良く蠢いています。


 ——ああ、もうどんどん蟲くんたちが抱きついてくる。


 ——スキヨ、スキヨ。


「あ、あの、変なこと聞いてもいい……、ですか?」


「えー!? 聞こえないよー! もっと大きな声でーっ!」


 太陽のような大将の表情は、周囲のどろっとした真っ黒と、その上に散乱する蟲達の色味や気配とは全く違っていて、地獄のかわやに満面の笑みを浮かべた生首が浮いているようでした。


 大将に握られて大暴れする蛸は「いやあ」と絶叫しながら蟲まみれになっています。


「変なこと聞いても、い、い、いいーッ!?」


 柳が叫んだ丁度その時のことでした。不意に田畑から押し寄せて来た蟲の大津波が鮮魚店「原宿」を飲み込んだのです。


 トタンの一枚が大きく剥がれ、大将の笑顔が津波に飲まれて“どどど”っと横に大きく流されます。


「おっと、あっはっは、変なのは顔だけにしておくれよ、それで聞きたいことってのは何だいーッ?」


 柳は口に手を添えて、蟲の嵐に一瞬隙の間が出来る機会を待ちました。


 ブブブブ。

 ジジジジ。

 ギーーー。

 ゴーーー。


 蟲の嵐に食い千切られ、足1本だけになった蛸を持つ大将の大黒様のような笑顔が一瞬チラつきました。



(今だ!)


 柳は絶叫しました。


「人魚の肉って、ありますかー!?」


「あっはっはっ……っは……」


 直後血走った目をした大将の笑顔は蟲の波に飲まれてしまいました。


(ちゃんと聞こえただろうか)


 柳は人魚の肉が本当に魚屋で売っているのか朝から気になっていたのです。




 今朝も柳はカーテンから注ぐ真っ黒な光に照らされて目を覚ましました。


「お早う御座います。醜女ぶすです。お母さん。お母さん」


 お母さんへの挨拶が毎日の日課でした。いつもなら扉越しに数言なじられるところですが、ここ数日様子が違っていました。反応が無いのです。


「お、お、お父さん。へへ」


 柳のお父さんは柳を睨みつけました。


「お父さんでなく教頭先生と呼んで欲しいです。大変だったので、ここに至るには」


 教頭先生は刺身に塩をかけながら言いました。朝の食卓の上には刺身が盛られた皿と、塩が置いてあります。


「それをお母さんったら酷いのです。教頭にいつ校長になるのかとか、もっと金を持って来いとか——。五月蝿いから殺してやりましたよ。あっはっは」


「え?」


「え? とは何ですか。あなた、この偉大な教頭の話を聞いているのですか。 教頭って少し偉いのですよ、校長の次位にね、分かっているの?」


 教頭先生はそう言いながら柳の胸をギュッと掴みました。


「き、聞いてます」


 柳は教頭先生のことが嫌いでした。家族だから身体に触れられるということはあるのでしょうが、何か、触る感じが、こう、とにかく厭なのです。


「じゃあ何と言ったのか繰り返してみなさい」


 柳は“また打たれるのかなぁ、嫌だなぁ”と思いました。


「お母さんを殺した、と、教頭先生は言いました」


 教頭先生はギリッと歯を鳴らし胸を摩っていた手を離し、柳の顔をバチンと平手打ちしました。


「ぎゃん」


「そのとうりです!!」


「………」


 柳は椅子から降り、打たれて床に飛んでしまった箸を拾い、そしてそれを口に咥えると、台所まで“べたんべたん”と移動し、箸を洗うと、それを咥えて戻って来ました。


「………」


「………」


「と、と、ところで、あの、もうずっと魚だね、教頭先生」


 柳は俯きながら皿の上に乗っていた貝殻のような大きな魚の鱗を箸で摘みました。ぐるぐるとグロテスクな細かい渦巻き模様が気持ち悪い鱗で、柳が産まれてからこれまで見たことが無いものでした。


「ずっと魚、ずっとずっと、昨日も、この間も」


「ずっと魚だねとは言いますけれどね、教頭はそうは思わないですよ。物は考えようです。問題が無くなった上に食費も浮く、これは良いことですか? 悪いことですか?」


 柳はそれは良いことなのか悪いことなのかを考えましたが、さっきから何かがおかしい気がしてなりませんでした。


「教頭は尋ねていますよ。家庭内の問題が無くなり、食費が浮くことは良いことですか? 悪いことですか?」


 ——また打たれる。


「い、良いこと。問題無くなる、食費浮く、良いこと」


「まあとにかく喰い飽きたということであれば安心しなさい。残りは売っぱらってしまいましたから」



 ——それにしても、これは、何の、何の刺身ですか。変な臭い。


 ——人魚の肉です。


 ——人魚?


 ——そう、伝説では人魚の肉を食うと不老不死になるらしいですよ。


 ——……ところで、お母さんって人魚だったりしますか?


 ——何を馬鹿なことを、おかしなことを言う子ですね。




「人魚の肉だってぇ!? お嬢ちゃん、耳が早いねぇ誰に聞いたの!! 今日はね、あるんだよ! たまたま! 人魚!!」


 ゆり返しながらも少し落ち着いてきた蟲の波の中、大将が嬉しそうに絶叫しました。


 柳は、自分が知らないだけで人魚の肉が世の中に流通していることに蟲を払いながらホッと胸を撫で下ろしました。


「その、お嬢ちゃんの目の前にある発泡スチロール、そこに入ってるよっ」


 柳の目の前の箱は中身が見えないほど黒く細かい蟲が集り、その数の多さから、液体がだぷんと流動しているように見えます。


 柳が手を伸ばすとその蟲達は“ざざざざざぁあ”っと飛んでいきました。


「ギャッ」


 腐って肌の表面がびちびちと波打つ人魚の死体が発泡スチロールの中に背中を丸めた形で入っていました。


 全身は関節の部分で切断されていましたが、全体が分かるように、断面同士をひっつかせるようにしてありました。幾らか肉が削り取られてはいましたが、下半身は確かに大きな魚のようでヒレが長く、ドレスを纏っているような不思議な美しさがあります。鱗は一枚一枚が貝殻のように大きく、色は黄色がかった燻んだ緑色をしていました。


 人魚の死体の腰、背中と視線を上げ、その顔を見た時、柳は表情を引き攣らせました。


「お、おか」



 ——おかさあああん!!



 柳は産まれてから一度もお母さんの顔を見たことがありません。しかし、そのバラバラに切り売りされている腐った真っ黒い肉片が、お母さんのものであるということの確信が蟲の羽音と共に絶叫していました。


「いやああああッ!」

「ぶぅ〜んッ!! ぶぅ〜んッ!!」


 ——“人魚姫は泡になってしまいました”


 柳は泣きながら人魚の腕を掴むと小さい時に扉越しに一度だけお母さんに人魚姫の物語を読んでもらった時のことを思い出しました。

 お母さんの腕の皮膚の下にはたくさん蟲が入り込み、筋繊維をもしゃもしゃと食べている為に、表面がびちびちと波打っていて泡立っているようでした。


 柳の双眸から血の涙が吹き出しました。


“何で泡になっちゃうの? 悲しいね”


「泡になりました、お母さんは泡になりました、いやああ! いかないで!」


 柳は気が動転して思わずその腕に噛り付きました。それを見て大将は慌てて駆け寄って来ました。


「おい、お嬢ちゃん! それは試食無いよ! お代は……、お代はぁっ!?」


「う、うるさい! 黙れッ! 返して!! 私のお母さんよ! 返して!!」


「売りもんだぞ! おい!! あ、おまわりさん。頭がおかしい子がいるので、助けて!」


「たすけてええ、だれか、おかあさんが、しんでるぅー!!」


 暗闇の中から拳銃を持った泥だらけで全裸の男が歩いて来ました、先程泥の中へ潜っていた巡査のお兄さんです。


「おや、犯罪の臭いがしますね。くんかくんか、——なま物だ!!」


 蟲の竜巻の中に全裸のお兄さんが飛び込んできて、一目で状況を把握すると大将と一緒に人魚の腕を引っ張りました。


「よーし、大将、行きますよー。せーのっ!」



 よいしょー、よいしょー、よいしょー。



 柳は綱引きのように蛆が湧き出る腕を引っ張りながら、涙を流し「ここは地獄だ」と思いました。

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