『核兵器』

齋藤 龍彦

第一話【『正義』と核兵器】

 ここに男がいる。男は考える。 



        ◇

 世界中の大抵の人間たちは建前を喋る。むろんその〝喋り〟が本音である人間もいるが大抵の人間は本音などあからさまにはしない。ただその〝喋り〟を聞いてもそれが建前なのか本音なのか、ふつう、人間には分からない。


 だが人間には分かることもある。建前というのはそれを喋る人間にとって精神に非常な負荷がかかるものらしい。だから、その負荷に耐えられなくなった者がぼろりと本音を漏らす。そういうことは珍しいことではない。


 大韓民国の大新聞、論説委員級の幹部社員が本音をぼろりと漏らしたことがあった。

『広島と長崎が核攻撃を受けたのは神の懲罰である』と。

 また、イスラエル共和国政府の元高官もぼろりと本音を漏らした。

『広島と長崎が核攻撃を受けたのは日本による侵略の報い』、『犠牲者を悼む平和式典は独善的でうんざりだ』と。


 核廃絶が一向に進まない。日本人が訴えても効果がない。いったい何十年日本人は核廃絶を訴えてきたのか。

 日本人がこれほど一生懸命に訴えても効果が無いのはなぜなのか。


 そもそも何のために核廃絶をするのか? 核兵器は人間を一瞬で大量虐殺できる残虐な兵器だからだ。それを証明する存在が『広島・長崎』だ。


 『ヒロシマ』と『ナガサキ』。言わずとしれた世界で一番目と二番目に核兵器を使用された都市。この街の名を聞いて過剰反応する人間たちがいる。

 それは第二次大戦での戦勝国こそが正義の国々であったと信奉する人たち。

 その価値観を脅かすのが『ヒロシマ』と『ナガサキ』である。

 彼ら信奉者にとってそれは忌まわしき街の名で、彼らの『正義』に暗い影を落とし、彼らの『正義』を脅かす。

 彼ら信奉者は通常ぎりぎりの良識を現し『核兵器の使用はやむを得なかった』と言う。

 だが、それでも彼らの精神に非常なストレスを与え、それが『大韓民国の大新聞、論説委員級の幹部社員』や『イスラエル共和国政府の元高官』のような発言となって表に出る。



 では日本人以外が核兵器の使用を糾弾すれば効果があるだろうか?

 こんなやりとりがあった。

 シリアという国の政府が化学兵器、即ち毒ガスを使いシリア国国民を虐殺した、とされる事件があった。

 アメリカ合衆国政府は言ったものだ。

『一般市民を大量破壊兵器で虐殺したのは明確な国際法違反である』、と。

 ここでイギリスに本拠を置く通信社の或る記者が、それを言ったアメリカ政府高官に尋ねた。

「一般市民を大量破壊兵器で虐殺したのが国際法違反という認識なら、広島・長崎への核攻撃も国際法違反と考えるか?」、と。

 アメリカ政府高官は答えずに逃げた。

 勇気ある記者だ。日本人でこれを訊ける記者はいない。訊くこと、訊き続けることにも意味がある。なにしろアメリカ政府高官は建前さえも喋れなかった。

 しかしその一方で逃げて済んでしまったのも事実だ。


 核廃絶の第一歩は、道徳的に、及び法律的に『核兵器を使用できない兵器』にすることだ。その意味でこの一記者は核心的なことを訊いた。だが現実、その第一歩すら踏み出せていない。


 〝なぜか?〟と考えるが、どうしてもたったひとつの理由に行き当たってしまう。

 核兵器で虐殺されたのが特定の民族集団、日本人という民族だけだからだ。

 むろん細部を見れば民族的にみて日本人以外の者も犠牲になっていたのだが、核兵器の使用者側からすれば虐殺目標は日本人だけなのだ。


 だから日本人が核兵器の非人道性を訴えると日本人が厚かましく自分達の被害だけを訴えていると曲解し、たとえ日本人以外の者が語っても核兵器使用国とそのシンパからすれば核兵器使用国は犯罪をやった国、と糾弾されているも同じだから自己防御に奔り日本人攻撃を始めたりする。

 考え続ける。

 こうした人間達は秤に乗せられないものを天秤の両皿に乗せている。

 (怖ろしいことだ)、と思う。

 それは結局、自分たちにとって気にくわない人間達なら理由をつけて大量虐殺しても良いという考え方だからだ。


 そして、『日本人は被害を訴えるなら自らの加害を語れ』などという攻撃が行われ、実際その要求に馬鹿正直に迎合する日本人の数も少なくないが、この結果何が出来上がってくるかと言えば、『核兵器は悪い奴らに使われるべくして使われた』というストーリィが完成をみる。

 それはつまり『どういうケースなら核兵器を使用して良いか』という核兵器使用条件に、他ならぬ唯一の被爆国の国民がお墨付きを与えることになってしまっている。


 日本人がこの決定的な矛盾に気付かないとは思えない。結局核使用の正当性を主張する外国人に対抗するだけの胆力と度胸が決定的に欠けているのだ。今後突然そんな資質が身に付くとも考えられない。

 しかしそれでも地道なアピールを長い間続けたことには意味があって、既にメキシコやオーストリアが我々の志を継いでくれている。もう〝核廃絶〟に道筋をつけるのは何も日本人じゃなくても良いような気がしている————

 



 ここからはひとつの思考実験だ。

 もしも、核兵器の犠牲国が日本一カ国だけでなく複数国あったなら、『使われた国が悪いから』などという主張が入り込む余地があったろうか?


 あのダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争時『満州に核兵器を使わせてくれ』と大統領に求めた結果失脚したという。その大統領は広島・長崎を核攻撃した人物と同じだったのだが、なぜ許可しなかったのかと思う。

 あの時中国人も核兵器で大量に死んでいてくれたらこの現代、もっと核兵器廃絶論はもっと力を持っていたと思う。


 別に大量に死ぬのは中国人でなくても構わない。こんな報道もあった。とあるイギリスの新聞が情報開示された米機密文書を基にして記事を書いた。それによるとアメリカで誤って爆撃機から落ちた水素爆弾が爆発寸前だったというのだ。

 概要はこうだ。時は1961年1月。場所はアメリカ南東部ノースカロライナ州。アメリカ軍爆撃機から誤って落下した水素爆弾2発のうち1発が爆発しかけていたとのこと。水素爆弾はパラシュートが開いて地面に落ちたということだが、このうち1発について、4つある安全装置のうちの3つまでが解除された状態になっていたという。あとたったひとつだった。


 敢えて思う。

 世界の現状を見るに正直惜しいと思う。アメリカ人が核兵器の被害をしかも外国の攻撃によらずに受けたとなれば現代の核廃絶運動の様相も変わっていたに違いない。

        ◇



 男は考える。地球の立場で見てみれば水素爆弾が爆発する場所はビキニ環礁でもノースカロライナ州でも同じ地球上ではないか。

「日本国だけが核兵器の犠牲者では核兵器廃絶は困難だろう。日本とは別の、もっと影響力のある国の犠牲が無くば人間は目覚めないだろう」男はぼんやりとそんなことを考える。


 その男は。こう考えざるを得ないほどの状況に彼は追い込まれていた。

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