中編 『慟哭のアムルイ』

「久しぶりだな熊公」


「お前は……エタラカ! そうか、ホロケウの癖にこんな所に隠れていやがったのか」


「別にお前さんから隠れてたわけじゃねえよ。だいたい俺様にゃあその理由がねえ」


「グウォフー! なぁにー? この俺の片目を奪った事、忘れたとは言わさんぞ!」


「あぁーあー、そんな事もあったっけなぁ。デケェ図体しやがって案外女々しい奴だなテメェも」



挑発とも取れるエタラカの言葉に、アムルイの怒りは頂点に達した。森の神とも悪魔とも呼ばれるこの俺に向かって、コイツは……このホロケウだけは絶対に許さないと。



「フーフーー!! 殺してやる……絶対に殺してやる!この俺に戦いを挑んだこと、今さら後悔しても遅いぞ!!」


「はぁ?テメェ何か勘違いしてねぇか?」


「な、何だと?」


「俺は自分の大事な餌を横取りされかけてムカッ腹がたってんだ」


「それがどうした?」


「これは戦いじゃねぇ、狩りだ。今から俺様がお前を喰らうんだよ熊公!!」


「な……! グ、グォーーーーー!!」



自分とアムルイは決して対等ではない……揺るぎない自負の言葉をエタラカは吐いた。それを耳にするや激情を抑えきれなくなったアムルイは、頭を怒りのままに揺さぶりながらエタラカ目掛け突進していく。


その憤怒の隻眼は、もはや常軌を逸しているようにさえ感じられた。


迎え撃つエタラカも大地を押し蹴り飛び出した。枯れ落ちたブナの葉が激しく舞い上がり、戦端の開きを告げる。


いかにこの地の狼が他種より大型と言えど、ヒグマとの体躯の違いは歴然である。まともにぶつかってはひとたまりもない。


だが、再び灰色の塊と化したエタラカの勢いは、迫り来る巨熊の頭を至近に見ても、おさまるどころか増しに増していく。


エタラカが木っ端のごとく吹き飛ぶ様をウォセとピリカが覚悟した瞬間。



〈グヴァ!!〉



自らの鼻先もろとも地面にめり込ませ、アムルイの腹下にエタラカは潜り込んだ。そして、岩の様に重い尻の突先が自分の背に乗ったのを確認するや、鋼のバネが弾けるが如く四肢を伸ばし渾身で……跳ねた。


全力で突進しながら尻を空に蹴飛ばされた格好となったアムルイの体は、顔面を支点に大車輪に転げ、巨木が倒れる様に森中に地鳴りを響かせ仰向けに崩れ落ちた。



アムルイは起き上がれない……いや、起き上がらないのだ。自重もろとも全身を叩きつけられた痛みからだけではない。他の兄弟よりも一回り体が大きく、この世に生まれ落ちた瞬間から常に強者として生きてきた。


投げ飛ばされた経験など唯の一度だってない。それが今の姿はどうだ。自分より小さな獣にいいようにされ、腹を突き出し倒れている……情けない。


その事実を受け止めきれず呆然とするアムルイに、エタラカはさらに追討ちをかける。身を翻し山の様な腹の上に降り立ったエタラカは、無造作にアムルイの脇腹の肉を咥え契り取った。


そして、冷淡な瞳でアムルイを見下ろしながら、ゆっくり……ゆっくりと咀嚼する。



〈クチャリ……クチャリ〉



喉を鳴らし自分が喰われる音を聞かせてやる。



〈クチャリ……クチュリ……ゴキュリ〉



体制はそのままに眼線だけをアムルイに落とし、エタラカは諭すように優しく静かに呟いた。



「お前って、クソマジイな」


「クッ……グゥ……。ブウォーーーーーーーーーーーーーー……」



アムルイは吼えた。生まれて初めて他の獣に恐怖を感じてしまった自分を恥じ、その屈辱に泣いた。それは獣の遠吠えなどでは決してなく、正真正銘の慟哭であった。


かくして天才の狩りは終わった。心ごと狩りとった。もはやアムルイに反撃する気力は一片も残っていない。


そして、エタラカが二口目を喰らおうと大きく顎を開いたその時……。



(ガシン!!)



突如シアプカが茂みの中から飛び出し自らの大角をエタラカの口際に喰い込ませた。



「ジジイ、一体こりゃあ何の真似だ」


「か、語りべ……」


「止めんかお主ら!!」



エタラカは気を削がれた様子でブナの葉の上に飛び降りた。



「エタラカ!お主こんな事をしておる場合か」


「あぁ? 何だってんだ。アンタがわざわざこんな所に来るなんてよ」


「奴が……、ようやっとあの人間が村に帰って来るようじゃぞ」


「なに!? 本当か! そりゃ確かなんだな?」


「うむ、ワシを誰じゃと思っとる? 語りべじゃぞ。まだ人の足では随分かかるじゃろうが、確かに見た者がおる」


「そ、そうか、そうかぁーーー!!」



エタラカはシアプカにそれだけ聞くと、周りの一切を気にも留めずに何処かへ走り去ってしまった。


次にシアプカはアムルイに語りかけた。



「アム、起きるのじゃ」


「語りべ……何で助けたんだ。俺なんて、あのまま喰われちまった方が良かったんだ」


「馬鹿もの!!」



(プスリッ)



「あ痛ってーーー!」



シアプカは徐に、いつまでも横たわったままで動こうとしないアムルイの尻に大角を突き刺した。反射的に尻を抑え飛び起きるアムルイ。



「アンタいきなり、何するんすか!」


「ふん、それだけ大きな声が出せれば大丈夫じゃ。しっかりせんかアム! もうすぐ父親になるんじゃろう!!」


「へ!?」


「かぁー……。やはりお主知らなんだのか、情けない」


「俺に、この俺に子が……。 俺が……父親に?」


「そうじゃ、こんなとこでアヤツに喰われておる場合か。身重な妻の餌は誰が取ってくるんじゃ馬鹿者。さっさと起きて精のつく物を喰わせてやれ、ワシ以外のな。フォッフォッフォッ」


「語りべ、恩に着る! グゥフォーーーー!!」



喜びの声を上げながら、先程までの姿が嘘のように今度はアムルイが走り去っていった。



「ピ、ピリカ? 見た?」


「ウォセ……見たよ。とんだ悪魔だったね……ハハ」


「違う違う! オイラが言ってんのはエタラカのことさ!」


「あ、あーあーエタラカさん? そっちね、相変わらず凄かったね。思わず見惚れちゃったもん」


「凄いなんてもんじゃないよ。あんなの……あんな強さ、反則だろ」



エタラカの本気の戦いを初めて目の当たりにしたウォセ。今までの自分の攻撃に対するエタラカの反応は一体何だったのか。



(クッソー、クッソー……)



文字通り子供扱いされていた事をウォセはこの日知ることとなった。一体どこまで強くなれば、あの化物を倒せるというのか……自分の目指す道の余りの険しさに呆然とするウォセ。


その小さな胸の内は、多くの感情が渦巻き揺れていた。


そしてその中に、エタラカの強さへの何処か憧れめいた感情が混ざっている事に、ウォセ自身まだ気が付いていなかった。




〈後編へ続く〉

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