⑫背に腹は代えられぬ

「美子、今度の日曜の午後に、客を呼びたいんだが構わないか?」

 台所で洗い物をしている時に、背後から秀明に声をかけられた美子は、手の動きを止めないまま尋ね返した。


「勿論、構わないわよ? 因みに、どんな方が何人いらっしゃるの?」

「大学時代の後輩が二人だ」

「そう、珍しいわね」

 そこまで言ってから美子は何かを思いついた顔になり、水を止めて背後を振り返った。


「よくよく考えてみたら、あなたが自分の知り合いを家に呼ぶなんて、結婚してから二年近く経つのに、初めてじゃないかしら?」

「確かにそうだな」

 真顔で頷いた秀明に、美子は僅かに顔を顰める。


「婿養子に入ったからって、変な遠慮はしなくて良いのよ? 小早川さんを初めとするお友達と、外では会っているんでしょう?」

「確かに外では会っているが、別に遠慮しているわけでは無いぞ?」

「そう?」

 苦笑した秀明に、美子は判断に迷う顔になりながら頷いた。


「とにかく、お客様の件は分かったわ」

「ああ、頼む。それからあいつらには、出がらしで十分だ。電話でははっきり言っていなかったが、わざわざ俺の所に出向く位だ。相当な面倒事を持ち込むつもりだろうしな」

「そんな事を言わないの。美味しいお茶とお茶菓子を用意するわ」

 憎まれ口を叩いた秀明だったが、その口調からやって来る相手はそれなりに気に入っている相手だろうと、美子は見当をつけた。


(悪口を言いながら、凄く楽しそうなんだもの。初めての秀明さんのお客だし、その方達を精一杯おもてなししないと)

 突如発生した『夫の友人初来訪』というイベントに備えるべく、それから何日かお茶とお茶菓子を何にすべきかと、美子は真剣に悩む事になった。


 そして当日。早目に軽く昼食を済ませた美子は、お客を迎えるのに余念が無かった。

 偶々その日は父は友人とゴルフに出かけ、妹達も美実以外は朝から出かけており、残っている美実も昼食が済むと部屋に引きこもっていた為、却って美子は(お客様が、変な遠慮をする必要がなくて良かったわ)と安堵していた。そして居間で夫婦揃って一歳間近の美樹をあやしていると、インターフォンの呼び出し音が鳴り響いた為、秀明がすかさず立ち上がる。


「来たな。俺が出るから」

 そして壁の操作盤の受話器を取って、門に居る相手に向かって話しかける。

「はい。……ああ、俺だ。今開けるから待ってろ」

 やはり待ち人だったらしく、秀明は玄関に向かって歩き出した。


「じゃあ、ちょっと行って来る」

「通すのは応接間の方よね? 美樹をサークルに入れたら、後からお茶を持って行くわ」

「ああ、頼む」

 藤宮家では親戚筋や仕事上の付き合いの相手、格式のある相手などは広い和室の客間に通し、個人的な客人などは洋間の応接間に通すのが暗黙の了解となっていたので、一応それを尋ねてみると、秀明は笑って頷いた。その為、美子は一度部屋に戻って美子をサークルに入れて勝手に動き回らない様にしてから、台所に戻って三人分のお茶とお茶菓子を準備する。


「失礼します、……え?」

 そして準備を整えた美子が、応接間のドアをノックして中に入ると、予想もしていなかった夫の客人を見て、目を丸くした。


「美子、直接顔を見た覚えがあるだろう? サークルの後輩の、佐竹清人と柏木浩一だ」

「お邪魔しております」

「お久しぶりです」

 にこやかに夫が紹介してきた二人が、若干顔を強ばらせながら挨拶をしてきた為、美子も両手で大きな角盆を持ちつつ、軽く頭を下げた。


「こちらこそ、ご無沙汰しております。粗茶ですが、どうぞお召し上がり下さい」

「ありがとうございます」

「いただきます」

 そして屈んでローテーブルの上に茶托に乗せた茶碗と、切り分けたカステラを三人分静かに置いた美子は、一礼して応接間を出て行った。


(後輩って……、何となく、あの武道愛好会絡みじゃないかとは、思っていたけど)

 秀明との結婚前に巻き込まれた事件を思い出し、美子は無意識に顔を歪めた。


「また何か、ろくでもない事じゃ無いでしょうね?」

 そうして自問自答しながら台所に戻ってお盆を置き、美樹の様子を見に行く。するとサークルの中で大人しくおもちゃで遊んでいた美樹は、美子の姿を認めるや否や、素早い動きではいはいしてきた。


「まぁ~まっ! だぁ~っ!」

「こんな所で、ひとりで考え込んでいても仕方がないわね」

 娘の直接的な要求に、美子は苦笑いしながら彼女を持ち上げ、サークルから出して一緒に遊びだした。しかしすぐに近くに置いてある美子の携帯電話が、着信を知らせる。


「あら、どうしたのかしら?」

 開く前に発信者が夫である事を確認した美子は、片手で美樹を抱きかかえ、片手で電話に出た。


「はい、あなた? どうかしたの?」

「すまないが、ちょっとこっちに来てくれ」

「お茶のお代わり?」

「そうではなくて、お前に話があるんだ。茶は良いから」

「分かったわ。ちょっと待ってて」

 何事かと思いきや、同じ邸内にいる秀明からの呼び出しだった為、通話を終えた美子は、当惑しながら無意識に呟いた。


「何かしらね?」

「あ~ぅ?」

 腕の中の美樹もキョトンとした顔で母親を見上げ、美子は美樹を抱っこして応接間へと向かった。


「あなた、どうかしたの?」

 ドアを開けて二人が顔を見せた途端、秀明が破顔一笑し、客人二人に向かって親馬鹿っぷりを炸裂させた。


「やあ、美樹も一緒に来たか。清人、浩一、娘の美樹だ。妻と俺に似て、美人だろう?」

「……大変、お可愛らしいお嬢様で」

「……将来が楽しみですね」

 しかし答えるまでに若干のタイムロスが生じた事と、両者の表情が引き攣り気味だった為に、秀明が面白く無さそうに文句を付けた。


「清人、棒読み口調じゃ無く、誉めるなら全力で誉めろ。浩一、顔が引き攣ってるぞ。二人とも失礼な奴だな」

「申し訳ありません」

「精神修行をやり直してきます」

「あなた、後輩の方を苛めないの。それで? 私に話って何?」

 美子が軽く夫を窘めると、秀明は向かい側に座る二人を指差しながら、苦笑気味に彼らの来訪の理由を述べた。


「こいつらが今日、ここに来た理由なんだが……、俺が三田の加積屋敷に出入りしているのをどこからか聞きつけて、俺に仲介しろと言いやがった」

 それを聞いた美子は、驚いて何度か瞬きした。

「え? 加積さんに、自分達を紹介して欲しいって事?」

 それに秀明が重々しく頷く。


「平たく言えばそういう事だ。あそこは面識の無い者は電話は取り次いで貰えないし、直接押しかけても文字通り門前払いだし、出入りを許された人間でも、アポを取らないと駄目だしな」

「確かにそうね」

「だがあそこにフリーパスなのはお前で、俺はお前のオマケ扱いで出入りしているから、俺自身にはどうにもできん。お前に話を通さないと駄目だろう?」

 そう確認を入れて来た秀明に頷きながらも、美子は難しい顔になった。


「それは分かるけど……。でも、どうして紹介して欲しいの? お仕事の関係? 商談とかならそんな事で一々、加積さん達を煩わせたくは無いのだけど……」

 これまでにも加積との関係を嗅ぎ付けた何人かの人間が接触してきた事はあったが、その都度秀明がきっちり追い払っていた為に、美子は困惑した。それが秀明の次の言葉を聞いて、益々怪訝な表情になる。


「いや、これは完全に、こいつらのプライベートの範疇だ」

「プライベートなら、益々加積さん達に引き合わせて欲しいって言う理由が、分からないんだけど?」

「それがな? こいつら、加積氏が秘蔵している花を、一輪貰い受けたいそうだ」

「花?」

「ああ」

「一輪だけ?」

「らしいな。もっともその花は、一輪しか咲いていないらしいが」

 何やら面白そうに、にやにや笑っている夫から問題の二人に視線を移すと、かなり緊張しているのかどちらも無表情になっているのを認めて、美子は再び秀明に視線を戻した。


「確かにあそこのお屋敷には、趣の異なる立派なお庭が有るけど……。珍しいお花を栽培している、温室とか有ったかしら? それにそんなに珍しいお花なら、尚更譲って頂くのは難しいと思うけど」

「さあ、そこの所は俺も知らんし、当人の交渉次第だろう。で? どうする?」

 相変わらず薄笑いをしながら決断を促してきた秀明に、美子は小さく溜め息を吐いてから美樹を夫に向かって差し出した。


「わざわざこちらまで出向いて来られたし、柏木さんにはちょっとした借りがあるし、話だけはしてみましょう。あなた、その間、美樹を見ていて頂戴」

 すると秀明は、満面の笑みで美樹を受け取ってあやし始める。


「分かった。美樹、ママはちょっとご用があるから、パパと遊ぼうな? ほ~ら、高い高~い」

「うきゃ~、ぱぁぱ~」

「似合わない……」

「別人……」

 上機嫌の美樹をゆっくり上げ下ろししながら遊び始めた秀明を見て、反対側のソファーに座ったままの二人が信じられない物を見た様な表情で固まり、低い声で呟く。そんな男達を無視して壁際に寄った美子は、持っていた携帯のアドレスで加積邸の電話番号を選択し、早速発信した。

 そして何コールかで応答があった為、いつも通り電話の向こうの相手に申し出る。


「もしもし、藤宮ですが、今加積さんか桜さんはお手すきでしょうか? ……ええ、ありがとうございます。宜しくお願いします」

 そして背後から複数の視線を感じながらも、美子は無言で電話の向こうの反応を待った。


「はい、美子です。桜さんもお変わりありませんか?」

 機嫌良く挨拶してきた、かなり年の離れた友人である桜と幾つかの社交辞令を交わした後、何を思ったか美子は勢い込んで滔々と語り出した。


「……いえ、大した事では無いんですが。……はい! 正にそうなんです! もう娘が、秀明さんにべったりで! それに悔しい事に、いつも面倒を見てる私じゃ無くて、偶々主人が休みで家に居て、偶々美樹を見ている様にお願いした時に限って、初めて手を伸ばして穿いている靴下を脱いだり、初めて寝返りを打ったり、初めてずりはいをしたり。もう、初めて名前を呼んだのが『ママ』じゃなくて『パパ』だったら、育児放棄するところですよ! 本当に冗談じゃ無いわ。あの時の主人の、したり顔といったら!!」

 憤然とまくし立てた美子だったが、ここで桜から軽く窘められたのか、美子がしぶしぶといった感じで応じる。


「それはまあ……、確かに『ママ』が最初でしたけど……」

 それを聞いた桜が何やら言ったのか、美子が拗ねた様に言い出した。


「桜さん……、『魔性の女』って何ですか? 確かに秀明さんはそうかもしれませんが、だからと言って妻の私と娘の美樹まで、一括りにしないで貰いたいんですが。今の発言に関しては、断固抗議を」

「美子」

「何?」

 話の途中で肩を軽く叩きながら呼びかけて来た夫に、美子は携帯の通話口を押さえながら振り返ると、秀明は苦笑しながら、美樹を抱きかかえていない方の手で、客人を指し示した。


「何の話をしているのかは、良くは分からないがな?」

 何の脈絡も無い話で盛り上がっている間、気を揉んでいたらしい二人の顔が揃って強張っているのを見て取った美子は、秀明が言外に含んだ内容を悟って、瞬時に我に返った。


(あら、いけない。すっかり当初の目的を忘れていたわ。随分気を揉ませてしまったみたいだし、きちんと話を進めてあげないと)

 そして気合を入れた美子は、電話をかけた本来の目的を口にした。


「すみませんでした、急に話を中断してしまいまして。ところで、桜さんにお伺いしたいんですけど、今度加積さんのご都合が良い時に、お宅に伺っても宜しいでしょうか?」

 それに対して快く了承の返事を貰えた美子だったが、若干言い難そうに話を続ける。


「いえ、それがですね、実は同伴者が二人おりまして」

「美子、ちょっと待った」

「何? あなた」

 そこで再び肩を叩かれた為、美子が慌てて振り返ると、秀明が釈明してくる。


「言い忘れていたが、屋敷に出向くのは清人だけだ」

「佐竹さんだけ?」

「ああ」

 二人を見やって怪訝な顔になった美子だったが、電話越しに尋ねる声が聞こえて来た為、慌ててそちらに意識を集中した。


「……あ、すみません。同伴するのは一人だけです。……いえ、私の知り合いでは無く、主人の大学時代の後輩の方なんですが」

 そこでどうしたのか美子は振り返り、佐竹を凝視し始めた。

「ええと……、そうですね……」

 何事かと秀明と柏木が二人に交互に視線を送る中、美子が真顔で電話の向こうに告げた。


「私より年下の、一見イケメンですが、得体が知れないタイプです。でも主人と比較すると、そこまで性格は破綻していないかと思います。頭も主人ほど切れるとは思いません。だって加積さんへの伝手欲しさに、主人を頼ろうとする位ですから。私だったら幾ら困っても、これからの人生を捨てかねない、そんな危ない橋を渡ろうとは思いませんわ。ええ、誰が何と言おうと絶対に」

 彼女がそう言い切った瞬間、秀明は片手で口元を押さえて笑いを堪える表情になり、佐竹と柏木の顔が盛大に引き攣った。そして電話の向こうでは大笑いしているらしく、美子が憮然としながら言い返す。


「桜さん……、今のはのろけじゃありませんから。単に結婚相手に『性格の良い頭の悪い男』か『性格の悪い頭の良い男』かのどちらを選ぶかと言う究極の選択をする場合、私だったら後者を選ぶという話だけです。そんなに大笑いしなくても……」

 そして少しして、相手から要求が伝えられた美子は、佐竹に声をかけた。


「はい。ええ、それなら。ちょっとお待ち下さい。……佐竹さん、明後日の十時までにこの家に来られるかしら?」

「はい、大丈夫です」

 真顔で即答した佐竹に小さく頷き、美子は了承の言葉を返した。


「その時間で大丈夫です。はい、宜しくお願いします。……加積さんにも宜しくお伝え下さい。それでは失礼します」

 そして通話を終わらせた美子は、改めて佐竹に声をかけた。


「それでは明後日の十時に、加積さんの方でこちらに車を回して下さるそうだから、一緒に加積さんのお宅に参りましょう」

 それに二人が心底安堵した表情になって、礼を述べる。

「お手数おかけしますが、宜しくお願いします」

「助かりました、藤宮さん」

 そう言って深々と頭を下げた二人に、美子は鷹揚に笑った。


「いえ、これ位、どうって事ありませんから。借りが返せて良かったわ」

 そこで秀明が何気なく口を挟む。

「美子? 借りって何の事だ?」

「大した事ではないのよ」

「ふぅん? まあ、良い」

 一瞬面白く無さそうな顔付きになった秀明だったが、ここで話題を変えてきた。

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