(11)怒りのシュート

「ただいま~」

「あら、美幸。どうしたの?」

 朝食の片付けも洗濯も済ませて、一息入れていたところに帰宅した美幸を見て、さすがに美子は目を丸くした。それに美幸が困った様に事情を説明する。


「それが……、インフルエンザでの欠席者が多くて、また学級閉鎖になっちゃった」

「この前一度、学級閉鎖になったわよね? それにまだお昼なのに、生徒を返したの?」

「他のクラスでも、登校後に急な発熱で帰宅した人が何人もいたらしいの」

 それを聞いて、美子も苦笑しながら頷いた。


「随分流行ってるのね。美幸。授業は無くても、きちんと勉強するのよ?」

「分かってる。課題も出てるしね。お昼ご飯までみっちりやるから」

「宜しい。お昼は一時よ。今からお茶を淹れて持って行ってあげる」

「何か甘い物もね」

 ちゃっかり要求してきた美幸に苦笑しながら頷き、美子は美幸と別れて台所に行き、早速お湯を沸かし始めた。


(そういえば……、昨日の加積さんに関する話。あの後改まって話してないから、お父さんや小早川さんからは特に何も言われて無いけど、皆には言わなくて良いのよね?)

 頭の中で自問自答しながら、美子は黙々とお茶菓子を探しながら、お茶の準備を進めた。そして小さく溜め息を吐く。


(愛人云々に関しては、やっぱり二人の考え過ぎだと思うんだけど……。あのご夫婦、何となく捉えどころが無かったし)

 そこで若干不安になってきた美子だったが、自分が怖じ気づいているという事実に気が付いた美子は、自らを奮い立たせる様にさくさくと準備を進める。


(冗談じゃないから。ちょっとお金持ちで変人夫婦の自宅に呼ばれたからって、変な事が起きるわけないじゃない。狼の巣穴に飛び込むのと比べたら、危険度は雲泥の差……)

 そこで何気なく思い浮かべた言葉に気付いた美子は、一人動揺して沸騰しているやかんを黙って見つめた。すると固定電話に着信があり、それで我に返った美子はふきこぼれているやかんに気が付き、慌ててコンロの火を消して、台所に設置してある電話の子機を取り上げる。


「お待たせしました。藤宮です」

「久しぶりだな。元気そうで良かった」

「え? あの……」

 いきなり耳に飛び込んできた穏やかな声が、たった今考えていた人物のそれだった事で、美子の動揺は一気に増幅した。


(この声って、あいつよね? まだ出張中の筈だけど、そこからわざわざ電話してきてくれたわけ?)

 少し嬉しくなりながら、しかし彼女らしくなく動揺している為に、美子がとっさに次の言葉が出ずにいると、秀明が先程の口調とは百八十度異なる、冷え切った口調で話を続けた。


「そんな、甘ったるい事を言うわけ無いだろうが。この間抜け女」

「……え?」

 いきなりの豹変っぷりに、頭が付いていかなかった美子が固まっていると、秀明はわざとらしく深い溜め息を吐いてから、如何にも困りものだと言わんばかりの口調で続ける。


「全く……。これだから、一度もまともに外で働いた事の無い女は。危機感が皆無だし、あらゆる意味でなってないな。考え無しにも程がある」

 そこまで言われた美子は、さすがに腹に据えかねて猛然と反論した。


「いきなり、何を失礼な事を言ってるわけ? それに、日舞教室で教えているけど?」

 その訴えを、秀明は鼻で笑う。

「昔からの馴染みの所で、妹弟子相手にチャラチャラ好きに踊ってるだけだろうが。そんな世間知らずだから、変なじじいにちょっかい出される羽目になると言ってるんだ!」

 ここで美子は完全にキレた。


「変なじじいって、まさか加積さんの事じゃないでしょうね!?」

「はぁ? 当たり前だろうが。この期に及んで何を言ってる!」

「この際はっきり言わせて貰うけど、加積さんはあんたと比べたら確かに見た目は悪いけど、中身は百倍ましな紳士よ!! 失礼な事をほざくのは止めなさい!」

「あっさり騙されてるから、迂闊で間抜けだって言ってるんだろうが! 少しは頭を働かせて自覚しろ!」

「冗談じゃないわ! 第一、桜さんと知り合ったのは偶然だし、引っ掛けられたりしてないわよ! 勿論、釣り上げても落としてもいないしね!! 不愉快だわ! 切るわよ!」

「おい、ちょっと待て! まだ話は終わって」

 電話越しに秀明の怒声が響いていたが、美子は完全に無視して通話を終わらせると同時に居間へと走り、そこに設置してある親機を操作して、たった今着信した番号を着信拒否にした。そして一人壁に向かって、悪態を吐く。


「何よ何よ何よ。あのろくでなし!! 珍しく電話をかけてきたと思ったら、何でこっちの話を聞かずに、いきなり罵倒してくるのよっ!!」

 そして言うだけ言って幾らか気持ちが落ち着くと同時に、じんわりと両目に涙が浮かんできた。


「ちょっとだけ安心したのに。……馬鹿」

 涙声で愚痴りながら美子が目を拭っていると、唐突に居間のドアが開いた。


「美子姉さん? 何だか騒いでいたみたいだけど、どうかしたの?」

 なかなかお茶を持って来て貰えなかった為、一階に様子を見に来て美子の叫びを耳にした美幸がドアの陰から顔を見せると、美子は美幸に底光りのする、若干据わった目を向けた。


「……ちょうど良かったわ、美幸。暇ならちょっと付き合って貰えないかしら?」

「ええと……、そんなに暇でもないんだけど、何?」

「庭で気分転換するのよ。付いて来なさい」

「……え?」

 美子の言葉は、もはや依頼ではなく命令であった為、美幸は若干怯えながら姉の後に続いた。すると美子は玄関を出て庭へと回り込み、その途中で物置からサッカーボールを有るだけ取り出して、サッカーゴールを狙える位置までやって来る。


「さてと。始めましょうか」

 この段階で、美子がシュート練習で気分転換を図るつもりだと理解していた美幸は、大人しく傍観する事にした。そんな彼女の目の前で、美子が豪快にボールを蹴り出す。


「このっ……、くたばれ! ど阿呆がぁぁぁぁっ!!」

「ひっ!」

 般若の形相で蹴ると同時に吐き捨てた罵声に、美幸は反射的に身を竦ませた。そしてボールは一直線に飛んで行くかと思いきや、微妙に左に逸れてゴール斜め前の松の枝に衝突し、細い枝が折れてしまう。


「ちっ! どこまで根性が曲がってやがるんだか!」

「あ、あの……、美子姉さん?」

 盛大な舌打ちと共に苦々しげに吐き捨てられた内容に、美幸は顔を青くした。しかし美子は妹のそんな変化を気にもとめないまま、シュートを続ける。」


「地獄に落ちろ! この女ったらしがぁぁっ!!」

「いっぺん、痛い目みやがれ。天狗野郎っ!!」

「一体、何様のつもりよっ!! こんの俺様野郎がぁぁっ!!」

「黒兎の分際で、他人様に高説たれてんじゃ無いわよっ!!」

 そんな風に絶叫しながらボールを蹴り続けて足元に一つも無くなると、美子は勢い良く背後を振り返り、先程から固まっていた美幸を叱責した。


「何そこでぼさっと突っ立ってるの! さっさとボールを拾って来なさい!!」

「はっ、はいぃぃーっ!!」

 美子に叱りつけられると同時に、美幸は慌てて庭の奥へと駆け出した。それから一時間近く、美幸はボールを探して庭木の合間を縫いながら、美子とゴール周辺の間を行き来する羽目になった。


「そっ、それでっ……、美子姉さ……、さながら鬼みたいな、顔っ……」

 淳の話は聞かせて貰えなかったが、何となく前夜の事が気がかりで、大学の講義を自主的休講として午後の早い時間に帰宅した美実は、姿を見せた途端美幸に抱きつかれて泣き出された為、さすがに面食らった。しかしおおよその経過を聞いて、遠い目をしながら美幸の頭を撫でる。


「うんうん、分かったから。シュートしまくってたのよね。因みにどれ位?」

「百、まではっ、数え……、あと、諦め……」

「そうかそうか。うん、頑張ったわね、美幸」

(一体、美子姉さんに何を言うかするかしたのよ、あの男はっ!?)

 完全に秀明以外の可能性を排除して美実が内心で腹を立てていると、美幸の涙声が続く。


「こっ、怖かったよぅ~。何でこんな時に、限ってっ……、が、学級閉鎖っ……」

 ぐしぐしと泣きながら訴える、とんだとばっちりを受けてしまった妹を、美実は心底不憫に思いながら慰めの言葉をかけた。


「本当に、運が悪かったわね。明日は念の為勉強道具を持って、図書館にでも行ってなさい。それに美子姉さんだって、それだけすれば幾らか頭は冷えたから、大丈夫でしょう」

「……うん」

「それで姉さんは、今どうしてるの?」

「疲れたから、寝るって」

 そう言って頭を上げて二階の方を指差した美幸に、美実は再度溜め息を吐く。


「そっか……。じゃあ今日は、静かにしていようね」

 その意見に反論する気など皆無の美幸は、黙って力強く頷いた。

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