(8)三田の妖怪

 昌典が遅めの夕食を済ませ、食後のお茶を飲んでいるところにインターフォンの呼び出し音が鳴り、昌典と美子、美実の三人で玄関へと向かった。そして美実が外に出て門を開け、玄関まで誘導して来ると、鞄を手に提げた淳が、出迎えた二人に深々と一礼する。


「藤宮さん。夜分、恐れ入ります」

「それは構わないが……。小早川君、何やら顔色が悪いぞ。どうかしたのか?」

 昌典としては、事前の約束も無しに夜に押し掛けてきた娘の恋人などに、好感を持てる筈は無いのだが、明らかに様子がおかしい相手を気遣う様に声をかけた。それに対して、淳が硬い表情のまま申し出る。


「その……、内密に、藤宮さんと美子さんだけにお話ししたい事があるのですが……」

 そんな事を言われた父娘三人は無言で顔を見合わせたが、昌典の決断は早かった。


「美実。盗み聞きなどしない様に、美野と美幸の足止めと監視を頼む。不自然に思われない様にな」

「何とかやってみるわ」

 難しい顔をしながら美実が頷いたところで、静かに引き戸を開けて淳の背後から美恵が姿を見せた。


「ただいま。あら? 小早川さん。平日のこんな時間にどうしたの? ああ、帰る所かしら?」

「美恵姉さん、良いところに! ご飯は外で済ませて来たわよね? ちょっと協力して」

「え? いきなり何事よ?」

「二階に行きながら説明するわ」

 格好の協力者を得た美実は、半ば姉を引きずる様にして廊下の奥へ進み、美子は淳に上がる様に勧めた。


「取り敢えず居間の方へどうぞ。座敷の方は暖めておりませんので」

「お邪魔します」

(本当に、一体何事? お父さんが食べている間に聞いた美実の話だと、加積さんに関しての話みたいだけど、美実も殆ど分かっていないみたいだし)


 神妙に頭を下げて、後に付いて歩き出した淳を訝しく思いながらも、美子と昌典は黙って居間へと入った。そして淳と向かい合う形で昌典と美子がソファーに収まってから、彼に話を促してみる。


「それでは小早川君。訪問するにはそろそろ非常識と言われそうな時間帯に、我が家にやって来た理由を聞かせて貰いたいが」

「順を追ってご説明します」

 昌典に向かってそう宣言してから、淳は美子に向き直った。


「美子さん。あなたが最近知己になった加積桜さんの夫である、加積康二郎氏の、現在の肩書きをご存じですか?」

「ええ。この前華菱でご本人と顔を合わせて、名刺を頂いたから」

 サラリと言われた内容に、男二人は瞬時に血相を変えた。


「夫人だけじゃなくて、本人と顔を合わせた!?」

「ちょっと待て!! そこでどうして加積康二郎の名前が出てくる! 美子が着物を汚された話は聞いているが、それは佐倉と言う人物では無かったのか!?」

 男二人が動揺した理由が若干違っていた為、淳は昌典に補足説明した。


「藤宮家の皆さんは桜夫人の名前を聞いて、名字が佐倉だと勘違いしてたんですよ」

「何て事だ……」

 思わず片手で顔を覆った昌典を見て、美子は怪訝な顔になった。


「お父さん、加積さんと知り合いだったの? でも加積さんと顔を合わせても、別に問題は無いでしょう? 」

「お前……、あの人がどんな人間か、全く知らないだろう?」

「それはそうだけど、貰った名刺だと大企業の顧問をしている位の人だもの。変な人の筈が無いじゃない」

 呻く様に言われても全く実感が湧かなかった美子は、軽く眉根を寄せた。そんな彼女の前に、淳が鞄の中から取り出したリストを差し出す。


「その名刺の肩書きは、このリストの中にありますか?」

「え? えっと……、ああ、あったわ。ここの、興仁建設の名誉顧問よ。でも……、他の物は?」

「加積氏が今現在保持している、全ての肩書きの一覧です」

 列挙されている中から覚えがある企業名と肩書を見つけて指差したが、淳の説明に美子は益々分からなくなった。


「でも肩書が十九もある上に、業種も社名も肩書もバラバラで、全く統一性が無いわよ?」

「予定外でしたが、既に今日顔を合わせたとの事ですから、この写真を見て貰えますか?」

 美子の疑問には直接答えず、淳は更に一枚のスナップ写真をコピーした様な物を彼女の前に押し出した。それを見た美子は、そこに写っている男性を見て即答する。


「加積さんの、今よりもう少し若い頃の写真よね? 今は総白髪だし、これより皺が増えてるわ」

「やっぱり本人で間違いないか……」

 向かい側でがっくりと項垂れた淳とは対照的に、並んで座っている昌典は本気で美子を叱り付けた。

「美子! お前はどうして、こんな面倒なのを釣り上げるんだ!」

 その非難に、美子は盛大に言い返した。


「釣ってないわよ! 第一、加積さんのどこが面倒なの? 確かにちょっと顔が怖いけど、礼儀正しくて話が分かる、結構楽しいおじいさんじゃない!」

「そんな事を本気で口走る人間は、お前位だ……」

「一体、どんな会話をしてきたんですか?」

 男二人が如何にもうんざりした様な口調と顔付きになったのを見て、美子は些か腹を立てながら話を進めた。


「私も聞きたいんだけど。加積さんって、一体どんな人なの? 詳細を教えて欲しいんだけど」

 その問いかけに、昌典が溜め息を吐いてから説明を始める。


「高齢になったせいかここ数年は鳴りを潜めているが、長年日本の政財界を陰で牛耳っていた、後ろ暗い噂がてんこ盛りの人物だ。『陰の総理』とか『最後のフィクサー』とかの物騒な二つ名が幾つもある」

 それを聞いた美子は、少しだけ考えて思い当った事を口にしてみた。


「そうすると、これまで名前を聞いた事が無かったけど、元代議士とかで、政界を引退後も陰で影響力を保持していたとか?」

「いや、総理や大臣の首を密かに挿げ替えてきた事はあるが、彼が公職に就いた事は一度も無い」

「そうなると……、色々な分野の企業の顧問をしているから、財閥系の家系の出身とか」

「出自は殆どと言って良い程不明で、典型的な成り上がりだ」

「ひょっとして暴力団関係者で、総会屋とか貸金業で財を成したとか」

「そちら方面に働きかけて人員を動かしたり金銭を流してはいるが、その類の組織は保持していないし、間接的ならともかく、直接企業に圧力をかけたりはしていない」

 話を聞きながら頭の中で色々推測してみたものの、全く要領を得なかった為、美子は本気で困惑した声を出した。


「お父さん……。悪いけど、益々わけが分からなくなってきたわ」

 その正直な感想を聞いて、昌典が無意識に渋面になりながら話を続ける。

「俺も、簡潔に上手く説明できんが……。とにかく、あらゆる意味で真っ当な人間が関わり合う類の人間では無い事は確かだ。更に問題なのは、加積氏には四十代と三十代と二十代の愛人が一人ずついて、三田の屋敷で夫妻と同居しているという噂がある事なんだ」

「桜さんの他に、三人……。へぇ…………、お年の割にはお元気なのね」

 ちょっと考え込んで暢気すぎる感想を述べた美子に、昌典がたちまち癇癪玉を炸裂させる。


「お前と言う奴は! 他に何か言う事は無いのか!?」

「だって他に何を言うのよ? それだけの愛人を囲っていられるなんて、やっぱり相当のお金持ちなのねとか、同居させてるなんて女性の扱いが手馴れてるのねとか、あんな怖い顔でも良いっていう愛人さんは、やっぱりお金目当てなのかしらねとか?」

「そうじゃないだろう!! お前、自分が新しい愛人として、目を付けられたとは思わないのか?」

 そんな事を言われた美子は瞠目し、次いで疑わしそうに尋ね返した。


「正統派の愛人が三人も居るのに、私が入り込む余地ってあるの? それに私、愛人向きだって言われた事は無いんだけど」

「正統派って何だ、正統派って……。愛人に、正統とか邪道とかあるわけ無いだろうが」

「でも確かに加積氏は、真っ当な愛人らしい愛人に飽きて、毛色の変わった美子さんに、食指を伸ばしてきたのかもしれません」

 ここで、この間無言を保っていた淳が、真顔でそんな事を告げてきた為、父娘は揃って彼を睨んだ。


「……小早川君」

「結構失礼な事を口にしたって、自覚はあるかしら? それに加積さんから愛人になれとか一言も言われていないし、私だけじゃなくて加積さんに対しても失礼じゃないの?」

「正直、そんな事はどうだって良いですが」

「本当に失礼よね!?」

 本気で美子は腹を立てたが、淳はそれにも構わずに、沈鬱な表情で淡々と話を進めた。

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