生きている街

高騎高令

第1話 私が住む街

 東京都の境目、多摩川に架かる丸子橋を渡ると、東京五反田からの中原街道は直進し、左に分かれて横浜方面へ伸びる道は綱島街道だ。


 

 江戸時代は徳川幕府の天領(幕府直轄)の農村であった。東京湾が大きく切れ込んだ中州のような地域で、東側を流れる鶴見川が良く氾濫し、堤防の上積みで近隣村との諍いがたえなかったと言う。


 1926年現東急電鉄の東横線が開通するに至り、綱島温泉駅が設置され、次いで駅前にラジウム温泉浴場をオープンさせ、地域の土地分譲等、開発に乗り出し

 嘗て東京の奥座敷と称された綱島温泉の誕生で有った。


 綱島街道開通の際に、町名の由来でもある、以前は中州の中に浮かぶ島と見られた、現在の諏訪神社と、その向かい、駅側に孤立するような神明社の高台は切り通され二つに分かれた。

 更に東横線の軌道に割かれて、6世紀初頭の頃の円古墳がある綱島公園の高台が、街の壁のように、市民の森が尾根道のように続き、日吉町側に斜面が落ち込んでいる。


 地域は前記のように鶴見川の氾濫等もあり、水捌け悪く、私は子供の頃、父に連れられて、湿地帯のようなところへザリガニを採りに来たこともあった。


 東横線の軌道に分けられるように、軌道の西側は鶴見川とY字に流れ込む早淵川に阻まれて、温泉街とそれに付随するように、飲食店や一般商店がひしめく様に、狭い道路を挟んで密集した。


 早淵川の西側は開発が遅れ、大雨が降ると、水捌けが悪いので一面水浸しになることも度々であった。


 昭和30年代、国内の交通の便も良くなり、東京の奥座敷と言われた温泉街も、客を箱根方面に奪われ、次第に閑古鳥が鳴くようになり、1軒また1軒と温泉旅館は廃業して、跡地には大手スーパーや、私の母校でもある青山学院大学の総合グランドなどが開かれ、住宅も増え、奥座敷は東京のベッドタウンへと成長して行った。

 

 


 

 

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