10

 HRが終わって荷物をまとめていると、一足先に支度を終わらせた怜未が僕の席まで歩み寄ってきた。無言の微笑を湛えながら僕の準備を見守っている。僕が背後霊でも見返るような心持ちで顔を向けると、彼女は「早く部活いこ?」と小首をかしげてくる。

「生徒会はどうするんだよ」

「休暇を取ったわ」なんでそんなOLみたいな言い方するんだ。

「どんな理由で?」

「体調がすぐれないの」

「ほんとに? 大丈夫? 病院行った方がいいんじゃないか」

「病名はわかってるわ」

「なに?」

「五月病っていうのよ」

「それは病気じゃありません」つまりはサボっただけだろ。

「ミュンヒハウゼン症候群」「名前かっこいいけどそれは病気のふりだから」「仮病、とも言うわ」「なお悪いわ!」つまりはサボっただけだろ!

「怜未がそんな理由で生徒会休むなんて珍しいな。毎日まじめに行ってたのに」

 彼女はまなじりを決して力強く言う。

「詠人のためならなんでもするわ」

「そういう台詞はもっとちがうシチュエーションで聞きたかったなあ……」

「ずる休みも辞さない」

「一大決心みたいに言うけど、僕のことを思うならふつうに生徒会行ってね……?」

 僕のためなら生徒会のずる休みも辞さないという怜未の健気さに心打たれ、彼女を連れて教室を出た。先に特別棟四階へ向かうよう怜未に言い、僕は鍵を取りに行くために職員室へ足を向けたが、怜未は職員室前までついてきた。扉の前で彼女を待たせて、僕は鍵管理の箱から視聴覚室の鍵を取り出した。鍵がここにあるということは、宇田越さんはまだ楽器室に顔を出していないんだろう。

 特別棟四階へ向かい、視聴覚室と楽器室を開錠する。楽器室に入り、部屋に唯一備え付けられている椅子に怜未をエスコートした。彼女は「うむ。ご苦労」とのたまい、ゆっくりと椅子に腰を落ち着ける。そういえば、最近この椅子に座ってないなあ。宇田越さんが来ると彼女が腰を据えるものだから、僕の定位置は机の上にすっかり決まってしまっている。唯一の部員が活動場所唯一の椅子に座れないとはどういうことか。

 しばらくすると、楽器室のドアがこんこん、こんと三回ノックされた。僕が反応して向かうより先に、怜未が椅子から立ち上がりドアに向かった。「あ、ちょっと……」と僕が制するのも間に合わず、彼女は「はーい」と意気軒昂ドアを開く。宇田越さんはいつもと違う出迎えに驚いたのか、怜未をじっと見つめて中に入ってこようとしない。それどころか、踵を返して歩き去ろうとしてしまい、怜未が彼女の制服の袖をとっさに掴んで引き留めた。

「待って、宇田越さん!」

「……」

「どうして行っちゃうの?」

 宇田越さんは見えるか見えないかというぎりぎりの角度までこちらに顔を向ける。

「あなたは」

「……え?」

「だれ」

 消え入りそうなか細い声で訊ねてくる。部屋の奥にいる僕には聴きとるのがやっとだ。

「私? 私は倉城。倉城怜未」

 怜未が律儀に自己紹介をし、僕が、

「怜未は僕らと同じクラスだよ」

 と補足する。ていうか宇田越さん、クラスメイトの名前覚えてないのか。僕のときもそうだったし、基本的に他人には興味ないんだろうか。

「立ち話もなんだし、中に入ろう?」

 怜未が宇田越さんに入室を促す。「なにもない粗末な部屋だけど」「なにもなくて悪かったな」まあ本当のことなんだけど、ただの部室だしなにもなくても不自由ない。

 宇田越さんは僕に、さも恨めしそうな視線をちらちら寄越しながら、おずおずと中に入ってきた。入り慣れているはずの部屋なのに、今はまるで借りてきた猫のようにしゅんと縮こまっている。

「詠人、となりの部屋にも椅子あったよね?」

「あ、うん。ちょっと待ってて」

 僕は楽器室を出て、となりの視聴覚室から椅子をもう一脚運んだ。怜未の座っていた椅子のとなりに置こうとしたが、あまり近づかせすぎると宇田越さんが居心地悪いような気がしたので、やや離れたところに椅子を据える。怜未は誰からも好かれるような分け隔てない接し方をしてくれるが、宇田越さんはおそらく反対の性格だろう。彼女はパーソナルエリアが広そうだ。

 彼女は僕の据えた椅子にゆっくりと近づく。座ると爆発するみたいな警戒の仕方で、椅子と僕を交互に見比べながら、彼女は椅子に腰を落ち着けようとする。なにも仕込んでねえよ、とよっぽど突っ込みたかったが、彼女の怯えるような所作を見ているうちになんだかずっと見守っていたいような心持ちになり、ようやくすっかり腰を沈めたときには思わずほっと胸をなで下ろした。捨てられて弱っていた仔猫が、怯えながらもやっと食べ物を口にした様子を見ているみたいだ。

「宇田越さん、大丈夫だよ。怜未は君を取って食べたりはしないから」

「む」怜未が僕を目線で射抜いてくる。「そういう詠人こそ、彼女に変なことしないでよね」「変なことってなんだ」「そ……そんなの口で言えるわけないじゃない! 変態!」なんでだ。ほんとにわかんないんだけど。

「宇田越さん、男は狼なのよ? 気をつけてね」

「僕はそんなんじゃないから。むしろ迷える子羊だよ。怜未にいつも虐げられているかわいそうな子羊」

「ラム肉っておいしそうだよね」

「取って食う気かよ!」

 さっきから宇田越さんの反応がないような気がしたので、僕はそっと彼女の顔を覗きこむ。すると彼女は、

「レミ、レミ」

 と小声で呪文を唱えるように、怜未の名前を繰り返しつぶやいている。なんだ、どうしたんだ? すぐ忘れないように必死に名前を覚えようとしているのか? 僕のときはそんなことしなかったような気がするけど、やっぱり女の子同士の知り合いは増えるとうれしいんだろうか。

「レミ」

「宇田越さん、どうしたの?」

 僕がそう訊ねると、彼女はふっとこちらに向き直った。

「ソラ」

「ん?」

「ソラ」

 彼女は僕の目をじっと見つめながら、その単語を繰り返しつぶやく。吸い込まれそうな深い暗藍色の瞳のなかに、遠い星のようなかすかな光がたゆたっている。

 どうしちゃったんだろう。空って、空がどうかしたのか。この部屋には窓がないので、空を眺めることはかなわない。

「宇田越さん、空がどうかしたの」

「私のなまえ」

「……ああ」

「呼んで」

「……おう」

 そういうことか。宇田越さんを彼女の下の名前で、ソラと呼んでほしいということか。僕が怜未のことを怜未と呼んでいるから、平等にしてほしいというのだろうか。僕は咳払いし、気を落ち着ける。女の子のことを下の名前で呼ぶなど造作もないことだ。実際に怜未のことも下の名前で呼んでいる。しかし、これまでずっと苗字で呼んでいた、それもこの部屋の中でふたりで時間を過ごしていたような子の名前をあらためて呼ぼうと思うと、なんだか身体じゅうをくすぐられるような変な感覚になってくる。

「呼んで」

 彼女はその宝石のように澄んだ瞳をじっと向けてくる。その視線に心臓を射抜かれてしまいそうな錯覚にとらわれ、僕はたじろいだ。身体じゅうが熱くなってくる。頭の中が火にかけた豚汁のようにぐつぐつと煮えたぎる。

「……そ、そ、ソ――」

「ソラ!」

 身体のなかで熱膨張した言葉が口から漏れ出ようとするより先に、快活に響く声がそれを遮った。僕の視界を横切る人影。そして「ぐえ」というなにかが潰されるようなかわいそうな悲鳴が聞こえた。怜未が宇田越さんに思い切り飛びついたのだ。

「ソラかわいい! 食べちゃいたいくらいかわいい!」おいキャラ変わってるぞ。

 宇田越さんは怜未の腕の中でじたばた苦しそうにもがいている。「むうう」と声にならないような呻き声が聞こえる。一大決心で僕が彼女の下の名前を呼んだ声は、怜未に吹き飛ばされて楽器室内をふわふわと漂流している。

「落ち着けよ怜未」

 僕がそう言って怜未を引き剥がすと、宇田越さんはごほごほとむせこんだ。苦しそうに咳をしているので、思わず僕は声をかけた。

「宇田越さん、深呼吸して」

 彼女は胸に手を当て、ひい、ひい、ふうと深い呼吸を繰り返す。「それはラマーズ法だよ!」と僕がすかさず突っ込みを入れるか入れないかの絶妙なタイミングで「なにソラ孕ませてるのよ!」と怜未が後ろから僕の頭をはたいた。孕ませてねえよ人聞き悪いな!

 しばらくすると彼女の呼吸が落ち着いてきた。目に涙をいっぱいためて、僕の方を恨みがましく見据えてくる。かわいそうだとは思うけど、僕は悪くないよ……。

「だいじょうぶ、宇田越さん?」

「……ソラ」

「え? ああ、うん」こんなときにまで呼び名を訂正してくるとは思わなかった。怜未のおかげでうやむやになって、そのままの呼び名で通せるかも、という僕の期待は打ち砕かれた。僕は腹を括って彼女の名を呼ぶ。

「……そ、ソラ」

 ソラはまるで、深い海の底に溜まった月の光みたいな透明な瞳で、静かに僕を見つめている。わずかながら、こくりと頷いたような気がした。

 なんだかとても恥ずかしい。恥ずかしさに顔をそむける。

「あなたは」ソラは怜未に向けて言葉を発する。

「なにをしているの」

「なにって……そうだなあ」

 怜未はその顔に困惑の表情を浮かべる。

「どうしてここにいるの」

 ソラは問いを重ねる。考えあぐねていた様子の怜未は、「世話係だからかな」と答える。

「世話係?」

「そう。詠人に食べ物をあげたり、身の回りの世話をしてあげるの」

 そんなことされてる覚えはねえ……と言いたいところだったが、月末お小遣いが足りないときには昼食をおごってもらったりするし(ちゃんと翌月返すけど)、朝寝坊しそうな時には起こしてもらったりもするし、怜未の答えがあながち間違っていないことに気づく。なんだか情けなくなってくるなあ……。

「そう」

 怜未の答えに合点がいったのか、ソラは低い声を漏らす。

「詠人はレミのペットなのね」

「ちがうよ!」どうやったらそんな受け取り方ができるんだ……と突っ込みたいところだったが、思い返すとそうとしか受け取れない会話の内容だったから、反論できずにますます自分が情けなくなる。

「そういうソラは、ここになにしに来たの?」

 こんどは怜未がソラに問いを向ける。僕に向けられた言葉でもないのに、彼女の言葉は僕の心臓の鼓動をどくんと跳ねあげた。これほど相手の心に直球を投げ込むような問いかけ方もないだろう。僕にはおそるおそる怜未とソラの顔を見比べるくらいしかできない。修羅場とかそういうわけでもないくせに、僕はなんだか空恐ろしくてふたりの視界の隅に縮こまっていた。

 しかし、問いを向けられたソラは、毅然とした態度で言葉を返す。

「私は詠人のペットよ」

「え!」

「え!」

 僕と怜未の放った驚愕の叫び声が楽器室の空気を震わせた。なに言ってんだこのひと!

「やっぱりそうだったのね!」

 思った通り、怜未が僕を憤怒の形相で睨んでくる。

「毎日まいにちソラをキャトルミューティレーションして、洗脳して手懐けて、旬の時期を見計らって食べちゃう気なんでしょ!」ちがうっつってんだろ旬の時期ってなんだよ。「変態! 宇宙人! 私も混ぜて、ソラったら食べちゃいたいくらいかわいいんだもの」だからキャラおかしいってば。

 すっかり辟易した僕はソラに援軍を求めた。

「ほっ、ほらソラも黙ってないでなにか言って」

「だいたいあってる」なんでだよ! どうしてご丁寧に火に油注いでるんだよ!

「洗脳されたわ」

「え、ちょ、なにを言って」

「あんたたち! 毎日ここでなにをしていたの! フジュンイセーコーユウは許さないわよ」

 怜未はそう言ってソラを諭そうとする。「ソラ、彼は宇宙人なんだから」不純異星交遊なんてしてねえから。いや、そもそも不純異性交遊もしてないんだけど。

「レミ。詠人はなにもしてないわ」

 ソラは毅然とした態度で怜未に言葉を向ける。そう、その言葉を待っていたんだ。いささか遅すぎる気もするが、はやく怜未の誤解を解いてくれ。

「そうなの? ソラ、無理しなくていいのよ」

「私は来たくてここに来てる」

「……そう?」

「音楽を聴きに」

「……え?」

「詠人の音楽を聴きに来たの」

 僕の心臓はこれ以上ないくらいに跳ね上がった。あまりにも直球すぎる。音楽なんて言葉、そんな簡単に口にするものじゃないのに。ちらとギターをしまってある棚の奥に目をやる。僕のその視線に気づいた怜未が、じっと僕を見返してくる。ややあって彼女は目線を外し、うつむいてしまう。楽器室の床を見据えながら、責め立てるような、それでもぐっと堪えているような、哀切を極めた表情を浮かべている。「詠人の……音楽……」とかすかにつぶやくのが聞こえた。

「ソラは……音楽が好きなの?」

 怜未は湿った声で問いかける。

「いいえ」

 ソラは小さくかぶりを振った。

「音楽なんて嫌い」

 それは以前も聞いた言葉だ。音楽なんて嫌い、彼女はそれでも僕の音楽を聴きにこの部屋に来る。これほどわかりやすい言葉もないだろうに、それを口にする彼女の真意が僕にはわからない。怜未も思いあぐねたのか、困惑したような表情を浮かべて僕を見てくる。僕は首を横に振って応える。

「どうして嫌いなの?」

 怜未はまなじりを決して問いかける。ソラの表情がかすかに曇る。ふだんはほとんど感情を表にしない彼女が見せた、懊悩のにじむ容貌。なにかを必死にこらえて押さえつけて、それでもふさぎきれない感情が発露しているような顔。

「音楽が私から両親を奪ったの」

 ソラはそう早口に言った。僕は思い切り当惑する。両親? なんだそれ、そんな話聞いてないぞ。いや、どこかで聞いたような気もする。

 そうだ、怜未が言っていた。ソラは「有名な両親の娘」だって。僕が彼女の方に目を向けると、怜未もこれ以上ない沈痛な面持ちを隠せないでいる。

 ソラは毅然とした態度を崩さない。表情も声色も変わらないのに、その両眼にたまった星の光だけがよりいっそう輝いているように見える。

「だったら……どうして」

 思わず僕は問いを挟む。どうして僕の音楽なんて聴くのか。

「言ったでしょ」ソラは身じろぎもせず答える。

「洗脳されたの」

 洗脳。

 人の主義や思想を根本的に変えること。

「詠人の音楽に」

 僕はどきりとした。僕の音楽が、ソラの考えを変えた? 音楽が嫌いだと言い張っていた彼女の心に、僕の音楽の手が触れたということか。冷え切った彼女の心に、その手は熱を与えることができたんだろうか。

 でも、どういうことだ? 音楽が嫌いな彼女の思想を、僕の音楽はどう変えたんだろう。

 そして彼女は、僕がこの部屋でいつも弾いている曲の、冒頭のメロディを口ずさむ。

 楽器室が一気にソラの歌声に満たされる。哀しみとか、切なさとか、苦しみとか、そして歓びとか、嬉しさとか、怒りとか、楽しさとか、そういういろいろな感情がごちゃまぜになって、僕の心の中に洪水のように押し寄せてくる。心臓を鷲掴みに掴まれて動けない。身体の中から溢れ出てくる想いに喉が詰まって、一言も発することができないでいる。

 怜未もおんなじみたいだ。ただ茫然とそこに立ち尽くし、押し寄せる感情の波にさらわれないように必死にしがみついているように見える。

 やはり僕は思う。これは音楽が嫌いだなんて言うやつの奏でる歌じゃない。

「あなたはどう?」

 今度はソラが怜未に問いを向ける。「あなたは音楽が好き?」

「私は……」

 怜未は口をつぐんだ。

 怜未は音楽が嫌いなのか。嫌いではないんだろう。音楽に家族をめちゃくちゃにされてもなお、彼女は音楽を嫌いになれないでいる。僕はそのことに感づいている。感づいているからこそ、それに甘えて僕は音楽を続けている。嫌いになれないからこそ、彼女は僕を見限らないでくれている。

「私は――」

 苦悩のにじむ彼女の表情から、低い声が漏れ出る。

「――好きよ。音楽」

 長い沈黙があった。悠久に感じるその沈黙ののち、ソラがつぶやく。

「……そう。私とは、ちがうのね」

 楽器室のスピーカーから、完全下校時間を告げるブザーが鳴った。なんの暖かみも持たない無機質な音が室内に響き渡る。僕ははっと我に返った。今日の活動時間は終了した。あまり長く居残ってしまうと、巡回担当の教師に訝しがられてしまう。

「帰ろう」

 僕のその声に、怜未がほっと安堵の表情を浮かべた。ソラの表情は変わらないままだった。

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