第二章 この声
08
どうしてだかわからないが、それからほとんど毎日のように、宇田越さんが楽器室に来るようになった。
どうしてかわからないと言うのは、彼女に来た理由を訊ねても、まったく当を得ていないからだ。それこそ言い訳としか呼べないような。
たとえばある日。
「どうしたの。なにか用事?」
「外」
「そと?」
「晴れてる」
「そうだね、いい天気だね」
「傘」
「……?」
「なくて」
「普通じゃね?」
「………」「………」「………」「……部屋の中、入る?」
たとえばある日。
「どうしたの。なにか用事?」
「向かい風が強くて」
「それ遅刻の言い訳ね。ていうかどっから来たんだよ」校舎内に風は吹かないだろ。
「途中でおじいさんが倒れてて」
「それも遅刻の言い訳ね……」もしそれ本当なら現国の安西先生じゃね?
「じゃあ――」
「『じゃあ』って言ったよな今」
「――文化だから」
「……?」
「文化だから」
「それ不倫の言い訳だよ! どこでそんなもん覚えてくるんだよ!」
「………」「………」「………」「……じゃあ、入る?」
たとえばある日。
「どうしたの。なにか用事?」
「……教室で変な二人組が」
「え?」
「変な踊りを踊ってて」
「うん」
「怖いから逃げてきたの」
「そ、それは……」本当かもしれない。変な踊りを踊る変な二人組というものには、ちょっと心当たりがありすぎる。
とにかく彼女は毎日のように、眉唾物の言い訳をこさえて楽器室にやってきた。しばらくは「どうしたの」と用事を訊ねる体をとっていた僕も、やがて自然な流れで宇田越さんを楽器室に迎え入れるようになってしまった。彼女は部屋に這入るなり真っ直ぐに、楽器室に唯一の椅子に向かっていき、その上に体育座りで座りこむ。そして、なにかを待つように僕の方に視線を向けてくる。
僕はなにも言わずにギターを抱え、六弦を引っ掻く。その音色にメロディを乗せる。曲が終わると別の曲、それが終わるとまた別の曲、そうして弾ける曲すべて弾き終われば、また最初の曲を演奏し始める。その間、彼女はなにも言わない。僕もなにも言わない。僕のかきなでる渇いたギターの音と、それが途切れたときの引き裂かれるような静寂とが、交互に楽器室を満たしていく。
なんだか僕は、これでいいと思えるような気がしてくる。宇田越さんのことはよく知らないけれど、こうやっておんなじ部屋でおんなじ音楽を聴いていることで、心のどこかで繋がっていられるような感覚がする。僕らの身体が生まれる何百年も前から、僕らの魂は音楽で繋がっていたような錯覚がする。そしてそれをただの錯覚ではないと思える。それが真実なんだと思える。
僕がギターを弾く。彼女がそれを静かに聴いている。
そんな日々が何日か続いた。
ある日の放課後、掃除当番の仕事で楽器室へ行くのが遅くなってしまった。
僕があわてて特別棟四階へ行くと、案の定音楽室の鍵は開錠されていた。
駆けてきたせいで乱れた呼吸を整えながら、僕は楽器室のドアを見つめる。宇田越さんの方が先に着いたんだと見積もるが、しかし万一べつの人間だったらことだ。気心の知れた同級生や、物分かりのいい優しい先輩や先生であったら安泰だが、しかし世間にはそんな人ばかりではない。世の中そうは甘くない。この部屋への人の出入りには細心の注意が必要だ。
気休めではあるが、楽器室のドアに右耳を当ててみる。なにか物音が聞こえないかと思ったが、やはりこの部屋の遮音・防音設備は折り紙つきだ。
ためしに軽く二回、ノックをしてみる。中から返事を聞きとることはできない。しばらく待ってみても、ドアが開く気配はない。
中にいるのが宇田越さんだとしても、彼女はなにをしているんだろう。普段は椅子に座って――座って、というよりも乗って、という体勢だけど――僕のギターを聴いているだけだ。特になにをするでもなく、彼女はおとなしく音楽に耳を傾けているだけのように見えていた。そんな彼女が、この部屋でひとり何をしているんだろう。
ドアのノブに手を掛け、ひねって回す。ほんの少し力を込めて、音をたてないようにゆっくりドアを開ける。
開いた隙間から漏れ出た空気が、渇いた音色を運んでくる。
僕は愕然とした。
ひょうたんの形をしたギターで横っ面をぶん殴られるような感覚。彼女の歌声をはたで聴いたときと同じか、あるいはそれ以上の衝撃。何度彼女の行動に衝撃を受けるのだろうか。やっぱり僕は、彼女のことをなにも知らなかったんだ。どうして音楽が嫌いなんて言うのか、どうしてそれでも僕のギターを毎日聴きに来るのか、どうしてあの日ここで歌をうたっていたのか、そして、どうして今ここで、僕のギターを弾いているのか。
開いた二センチくらいの隙間から、宇田越さんの爪弾くギターの音色が流れ出てくる。僕はそれ以上ドアを開けなかった。それ以上開いたら、音の奔流に呑み込まれてしまいそうで、彼女の音の魔力に惹きずり込まれてしまいそうで、それでもここで聴いていたくて、ノブを掴んだまま立ち尽くした。うっかり心を開いたら、流れ込んできた音楽に一瞬で満たされて、心が破裂してしまいそうだ。
――音楽なんて嫌い。
――大嫌い。
彼女の言葉を反芻する。僕はかぶりを振る。音楽なんて嫌い、なんて言うやつの奏でる音じゃない。この音に乗せられた感情はもっと別のものだ。冒すことができないほど、喪うことができないほど、なによりもかけがえのないものを、守ることができなくて、取り返すことができなくて、絶望に涙を流しているような、そんな音だ。
彼女のギターが泣いている。
彼女の歌声が泣いている。
彼女が泣いている。
僕はドアノブから手を放し、ドアから離れた。部屋の壁に背中をもたれ、そのままずるずるとへたり込む。開いたままのドアの隙間からは、まだ彼女のギターの音色が聞こえる。
ギター弾けるのか。知らなかった。やっぱり僕が彼女について知っていることなんてなにひとつなかったんだ。僕は混乱していた。風にもてあそばれる風見鶏のように、いろんな想いがくるくると頭の中を廻っている。
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