第10話 第二章・変革(4)

 が、すぐにふわり、と持ち上げられてしまう。

「見つけた」

 ヴィックの優しい、安堵した声が耳にかかる。そのまま抱きあげられてしまう。

 ヴィックの首に顔をうずめる形となり、ラーラは力が抜けた。嫌でも鼻を通ってくる匂いは、ラーラを不安にさせ、安心させ、恐怖すら抱かせる。

 ヴィックが歩くと、すぐアパートに着いた。逃げ出した割に、たいして動いていなかった。なんだか、妙に恥ずかしい。

「嫌です、私を離してください」

 少しもがいてみるが、しっかり抱きしめられる格好となっていて、まるで動かなかった。

「ダメだって、無理したら悪化させる。湿布貼ってあげるから」

 部屋に入り、扉を閉める。それに、とヴィックは顔を曇らせた。

「さっきのことは謝るから。そんなに怖がらないで」

 違うのだと首を振ろうとした。けれど、頭に血がのぼり、そして次第に涙となって溢れた。

「ごめんなさい……。でも、行かないと。ゼフィラが……」

 いきなり泣き出され、ヴィックは慌ててラーラをベッドに座らせた。

「ごめん、本当にごめん」

 首を振る。違うのだ。だけど、ヴィックと一緒にいるとダメになる。強くいられなくなってしまう。怖くて怖くて仕方がない。

 それ以上に、側にいたくてたまらない。

「ゼフィラが、ゼフィラが」

 しゃくりあげながら名前を呟く。けれど心は、ゼフィラにだけ向けられていなかった。目の前のヴィックに、ほとんど奪われている。それが怖い。

 まるで、あのときのゼフィラのようだ。

 思い出しても寒気がする、ラーラのことを、知らない人でも見るかのような無関心の気持ち。

 そうなってはいけないと、口ではゼフィラのことがついて出てくる。

「ゼフィラは、ひとりじゃ何も出来ない。私の大切な人なんです」

 可愛い可愛いゼフィラ。家族のように大切なゼフィラ。

 しかし、ヴィックは顔をしかめていた。

「ラーラ。君にとって大切な人かもしれないけど、僕はラーラが心配なんだ」

 しゃがみこみ、下からラーラを覗き込んできた。その意志の強そうな瞳に、不安が募る。どうしてヴィックが、こんなにもラーラの心を乱すのかわからない。

「私が、心配……?」

 うなずき、ヴィックはラーラの黒髪を撫でた。

 まただ。またラーラを別の世界につれていこうとする。

「ラーラがゼフィラを思っているのと同じくらい」

 その手があまりに優しくて、吸い込まれそうだった。先ほど口にした指先を思い出す。あの快楽はなんだろう。

「ううん、それ以上に、大切かもしれない」

 大切。

では、ラーラにとって、ヴィックは大切な人?

 その答えが浮かんだ途端、ラーラの心の奥底から、感じたことのない欲望が正体を現し始めた。

「おかしい。そんなはずないわ。だって、私とゼフィラは十六年、ずっと一緒だった。でもあなたと私は、今日出会ったばかりなのよ。お互いのこと、何も知らない」

「時間なんてどうでもいい。僕は、こんな気持ちになったのは初めてなんだ」

 いたって、ヴィックは真剣だった。戸惑うラーラは何も言えなくなった。

 わかっている。二人にとって時間なんか関係ないことを。皮肉にも、さっき、ラーラとその男を天秤にかけたゼフィラの気持ちがわかってしまったではないか。

 心が引き裂かれる。どうにかバランスをとっていたのに、何かが強い力でラーラの理性を消そうとしている。

 痛い。ラーラは思わず顔をしかめた。

 開けてはいけない、心の箱。そこに、ヴィックが歩み寄ってくる。ラーラの心に触れようとする。

 やめて、これ以上、さわらないで。

 しかし、その理性は湧き上がる欲望にかき消され、声にならなかった。

 ヴィックの瞳に写るラーラ。自分の顔が自分じゃないみたいに見えた。その瞳には、村の人間特有の、マゼンタ色の輪が広がる。

 どこかで見た。そう。ゼフィラと最後に会った時。足元から再びぞわぞわと恐怖が登ってきた。やはり、ゼフィラと一緒だ。恐怖に顔が歪む。ヴィックの姿が、どんどんと大きくなる。ラーラに近付いてくる。

 危ない。やめて、やめて。

 ヴィックは目を見開くラーラに、ためらいながら大きな手を広げ、抱きしめた。

「ごめん、何もしないって言ったのに」

 違う、そうじゃない。離れて。お願い。

「ラーラが大切なんだ。まだここにいて欲しい」

 初めて、グロリア以外からそんなことを言われた。

 少し体を離し、じっと、瞳を覗き込んでくる。

 今、ラーラの瞳に異変が起きている。それは鏡を見なくてもわかった。瞳が熱い。狂気の色を増していた。ヴィックは、ラーラの耳に唇を近づけた。

「ラーラ、きみを……」

 何かが、体から押し開いて出てきた。

 不安や、安心、恐怖の正体。それがようやく分かった。


『人を、愛してはいけないよ』


 これが、愛。

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