第121話『甘美なる旅-後編-』

 6月14日、火曜日。

 ゆっくりと目を覚ますと、うっすらと明るくなる中で、普段とは違う天井が見えた。


「そうだ、美来と一緒に旅行に来ているんだよな」


 旅先で迎える朝は決まって、ここはどこなのかと一瞬とまどってしまう。

 僕のスマートフォンで今の時刻を確認すると、まだ午前5時過ぎか。旅行に行くといつもよりも早めに起きてしまうんだよな。


「智也さん……えへへっ」


 僕の隣で美来が気持ち良さそうに眠っている。今のは寝言だったのか。どうやら、美来の見ている夢に僕が登場している模様。

 昨日は僕がお酒に酔ったせいで割と早く寝ちゃったな。美来と色々なことをしようかなとも思っていたんだけれど。まあ、旅行だしのんびりとした時間を過ごすのもいいだろう。それに、ぐっすりと眠れるのはいいことだし。


「大浴場にでも行ってくるか」


 美来はぐっすりと眠ってしまっているので、1人で行ってこよう。朝食も午前7時から9時半までに食べればいいとのことなので。帰りに缶コーヒーでも買ってくるか。

 大浴場に行ってくると書いたメモを枕元に置いて、僕は静かに部屋を後にする。

 まだ、早朝ということですれ違う人は仲居さんやご老人くらいしかいない。僕と同じ年代の人や、美来のような未成年の人は皆無。まあ、6月の火曜日の朝だからな。

 大浴場に行っても、年配の方が数人ほどしかいない状況。まあ、髪と体を洗って温泉にゆっくりと浸かることが目的なので、むしろこのくらいの少なさでちょうどいい。


「ふぅ……」


 髪と体を洗った後、僕は湯船に浸かる。朝風呂に入るのが旅行の醍醐味だよな。

 今回は僕と美来の2人きりで来たけど、いつかは……美来との間にできた子どもと一緒に来るんだろうな。男の子なら、小さい間は僕が髪や体を洗うんだろう。


「……ははっ」


 そういうことを具体的に想像できるときが来るなんて。人生を共に過ごすパートナーが10年前に出会った少女だなんて。つい最近まで想像すらできなかった。

 酒を入った状態で眠ったからなのか、今は意外とスッキリしているな。湯船に浸かって眠ってしまうかと思ったら、より眠気がなくなった。

 大浴場を後にして、部屋へ戻る途中に自動販売機で缶コーヒーを購入する。旅館特有の価格設定なのか高めだけど、飲んだことのない缶コーヒーが3種類あったので、それらを思い切って全て購入した。旅行だし、このくらいの贅沢をしてもいいよね。

 行くときと同じように静かに部屋に戻ると、


「お帰りなさい、あなた。ご飯にしますか? 温泉にしますか? それともお嫁さんであるわ・た・し?」


 浴衣姿の美来が僕のことを待ち構えており、そんなことを言ってきたのだ。

 朝からとびきりの笑顔をして、しかも旅行バージョンで言ってくるのは可愛いんだけれど、ううん、どれにするか。


「……って、ご飯は7時からだ」


 そうなると、僕の答えは自動的に絞られる。


「未来のお嫁さんの美来と一緒に温泉に入ろう」


 これしかないでしょ。


「旅館に来ているんですもんね。何度も温泉に入らないと損ですよね」


 美来は可愛らしい笑みを浮かべながらそう言った。


「そうだね。それに、僕は酔いから醒めたし、いつもよりもスッキリしているんだ」

「ふふっ、そうですか。それは良かったです。智也さん、大浴場に行ってきたとのことなので、少し経ってから温泉に入ってきてください。私も髪と体を洗いたいですし」

「分かった。じゃあ、それまでは部屋で買ってきた缶コーヒーを飲んで待ってるよ」

「分かりました。智也さんさえ良ければ、私のことを見ながらコーヒーを飲んでもかまいませんが……」

「……今は遠慮しておくよ」


 桜の花を見ながらお酒を呑むなら分かるけど、校生の女の子が髪や体を洗っている姿を見ながら缶コーヒーを飲むのはシュールすぎないだろうか。しかも、旅先で。


「では、髪と体を洗ってきますね」

「うん」


 美来は部屋を後にする。

 もちろん、僕は彼女の後をついて行くことはせず、部屋でテレビを観ながら、さっき購入した缶コーヒーを飲む。地方ならではのニュースや天気予報、CMを観るのが僕にとっての旅行の楽しみの一つ。


「そういえば、今回はアニメを観なかったな……」


 地方局だと、深夜に再放送をやっているアニメもあるので、高校生くらいからはそれも旅行の楽しみ。ただ、昨晩はお酒を呑んで早めに寝てしまったからできなかった。

 今は、鷺沼さんの勤める放送局のチャンネルで放送されている朝のニュースを観ている。全国放送の部分では僕の知っている男性アナウンサーがニュースを読んでいたけど、地方のニュースを伝える時間になると、僕の知らない女性アナウンサーが平和な内容のニュースを読んでいた。


「のんびりしてるな……」


 こういうニュースを観ると、地方に住むのも一つの選択肢として考えてもいいかなと思う。


「智也さん、洗い終わりました。一緒に入りましょう」


 美来がタオルを巻いた状態で僕の前に現れる。突然だったこともあってドキッとしてしまった。


「うん、分かった。すぐに行くね」


 僕は浴衣を脱いで、タオルで前を隠した状態で露天風呂に向かう。

 昨日の夕方とは違って陽が差しているからか、雰囲気が違うように思える。朝なのもあり、昨日入ったときよりも涼しいな。

 僕は美来と一緒に露天風呂に入る。


「気持ちいいですね」

「そうだね」


 大浴場に比べればかなり小さいけど、ここで美来と一緒に入る方が気持ちいいな。


「昨日から、とても素敵で贅沢な時間を過ごしている気がします。忘れない思い出の一つになりそうです」

「これまで色々あったから、こうしてゆっくりできるってことがより嬉しいよね」


 羽賀に逮捕され、警視庁に拘留されているときはこんな時間をすぐに過ごせるとは思わなかった。

 ふふっ、と美来は可愛らしく笑う。


「そうですね。昨晩は1つのふとんでぐっすりと寝て、こうして2度もゆっくりと露天風呂に入ることができるなんて幸せですよね。……子宝という文字を見ると、いつかは私達の間にできた子供達と一緒に旅行をするんだなって考えちゃいます」

「そうだね。いつか……そういうときが来るといいね。僕は今回みたいに美来と2人きりでの旅行もたくさん行きたいけど」

「ふふっ、そうですね。旅行もそうですが、楽しい思い出をこれからたくさん作っていきましょうね!」


 美来はまるで朝陽のように眩しい笑みを僕に見せてくれる。今の笑顔を見ると、ずっと美来と楽しく生きて行けそうだと自信を持たせてくれる。


「智也さん」


 美来は僕の目の前に向かい合うようにして座り、両手を僕の胸元に添える。体を洗った影響なのか昨日よりも彼女の肌が柔らかく思える。そして、彼女の髪からはシャンプーの甘い匂いが。


「智也さんのことが大好きです。そして、今は本当に幸せです。今までもそういうことを何度も言っていますけど……何度も言いたくなるほど、好きで幸せなんです」

「……ありがとう。美来のおかげで僕も幸せになれているよ。これから……色々と大変なことがあるかもしれないけど、一緒に頑張っていこうね」


 僕は転職、美来は転校という形で新しい生活に向かって動き始める。

 どんなことでも、新しいことを始めるときは身体的にも精神的にも大変になると思うけれど、僕らはきっと支え合いながら前に進めると信じている。

 美来はニコッと笑って、


「……はい!」


 力強く返事をしてくれた。その流れで僕にキスする。僕のことを抱きしめながらとても熱くて、甘くて、優しいキスを。



 今日も僕と美来は観光地に行き、美味しい物を食べ、みんなにお土産を買って。楽しい思い出をたくさん作った。

 美来と一緒にゆっくりとした時間を、ということで行った旅行は美来のことがより好きになって、これからのことをしっかりと考えるいい機会になったと思う。

 ただ、美来と一緒に歩んでいく人生という旅は始まったばかり。僕と美来はきっと一歩を踏み出したところなんだ。運転しながらそう思うのであった。

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