第二話「三人の約束」
『なんで泣かないの?』
青子は、いっこうに涙を見せる気配のない赤崎にそう問いかけた。
これはあれから―そう、赤崎の十回目の誕生日が過ぎてから、一週間ほど経った頃の話で、いつものように三人で遊んでいた、まさにその最中のことである。
緑間が、そんな青子の言葉に焦ったような顔をした。乱暴に、彼女の肩を掴みにかかる。
赤崎の両親は依然として行方をくらませたままで、十歳になったばかりの幼い子供が、親もなく一人で生きていくことなどできるはずもなく。本来なら赤崎は、母方の祖父母―つまりは藤黄家に引き取られるはずだったのだが、本人の強い意向と緑間家の申し出により、赤崎は緑間の家で世話になっていた。これはちょうど―その頃の話だ。
『辛くないの?静のお母さんもお父さんも、もう帰ってこないかもしれないんだよ?』
『おい…っやめろ、それは言うなって言われてるだろうが!』
赤崎は、両親が消失した七月七日から一度も泣いていなかった。それは、両親に捨てられたのだという自覚がなかったからではない。赤崎はむしろ、誰よりも真っ先にその事実を受け止めている。
そして、わずか十歳の少年は、その事実を目の前にして、涙を流すどころか泣き言一つ言わなかった。それはある意味、異常なことであったのかもしれない。
青子には理解できなかった。何故、自分と同い年の赤崎が、両親が二人ともいっぺんにいなくなったと聞いて、平気な顔でいられるのか。
自分には無理だと思った。そして青子は、そんな赤崎を怖いとも思った。
『ねえ、なんで?どうして泣かないの…?一人になったの、ねえ、わかってる?』
『やめろって…青子!』
『だって、僕は独りじゃないから』
画用紙に絵を描いていた赤崎は、一旦クレヨンから手を離し、青子の問いかけに対し不思議そうな顔でそう答えた。
『なに、言ってるの。だから、言ったでしょ。静は、一人っきりになったんだって』
『二人がいるよ。祭と、青子がいる。僕は独りじゃない』
それは、青子が想像していた答えとは、全くかけ離れていた。
今頃になって、あの頃のことを後悔している。どうしてあの日、自分はあんなことを聞いてしまったのだろうと。幼い日の彼女は、それが赤崎にとってどれだけ残酷なことであったかを、まるで理解していなかった。
それでも、あの時赤崎が言った言葉の意味だけはわかったのだ。わかっていた、はずだった。
『二人が僕を独りにしないなら、僕は絶対一人になんてならないよ。だから、泣く必要なんてどこにもないんだ』
その言葉を最後に、彼女は過去の回想を止め、現実へと戻る。ほどなくして青子はゆっくりと目を覚ました。
部屋のカーテンは閉じられているため、外の景色を見ることはおろか、日の光すらまともに入り込んではこない。カチ、カチと正確な、時計の秒針を刻む音だけがそこにあった。
今が何時なのか、確かめようとは思わなかった。昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのかも、今の彼女にはどうでもよかった。
ただ、薄暗い部屋に、生きる気力を窺わせない虚ろな目で、人形のように座っている。呼吸を、繰り返すだけの生き物。
(…寝てたの、私)
どうやら気づかない内に眠ってしまっていたらしい。青子は、だらんとぶら下がっている右腕をぴくりと動かし、ゆっくりと持ち上げてみたものの、再びだらんとぶら下げた。
あれから、もうどのくらい経ったのだろう。どれほどの時間が、経過したのだろうか。
青子が赤崎の不幸を知ったのは、ついこの間のことである。当たり前だ、彼が亡くなったこと自体が、ついこの間の出来事であるのだから。
連絡は、直接その場に居合わせた緑間から、その日の内に伝えられた。ちょうど、赤崎の家へ向かおうとしていた、まさにその時である。電話ではなく、緑間は直接青子の家へやってきた。
初めは、なんて気持ちの悪い冗談を、よりにもよって今日言うのだろうと、ほんの少し自分の幼なじみを疑った。そんなことあるわけないじゃない、と笑い飛ばした。
だが、いつまで経ってもその幼なじみは何も言わず、冗談だと笑い飛ばすこともしなかった。
胸騒ぎを感じた。そんなはずがないと思いつつ、自分の顔がどんどん引きつっていくのを青子は感じた。感じてしまった。
幼なじみは、「冗談で言わねえよ、こんなこと」と大きな手で自分の顔を覆い、嗚咽を漏らした。涙が一筋、その頬を伝っていく瞬間を、青子は見た。見てしまった。
わかっている。緑間が演技派ではないことを、青子はちゃんとわかっていた。
冗談で言って良いことと悪いことがあることを、その冗談に乗っかって嘘の涙を流せるほど器用な人間ではないことを、青子はわかっていた。声が、表情が、そして流れた涙が、真に迫っていたことを、何よりもその現実を肯定していたことを、長い付き合いだ、わからないはずがない。頭では、それが理解できていた。
だが、それでも。
理解はできていたとしても、認めたくはなかったのだ。
『あいつ…静が、俺を庇って、事故に』
青子は発狂した。
あれからずっと、彼女は部屋に引きこもっている。食事もろくに取らず、少しの水分で生を繋いでいるような状態だった。もう、何日もろくに食べ物を口にしていない。
水でお腹が膨れるはずもなく、今もぐうぐうと青子の腹は食べ物を求めているが、食欲は不思議とわかなかった。
食べる、という行為は人間が生を繋ぐ手段の一つである。
だが今、赤崎の死により彼女は生きる意味を見失っていた。何もかもが、どうでもよかった。
(どうせ、一人よ)
青子の両親は、彼女が中学三年生の頃に交通事故で亡くなっている。仕事の都合で一時海外へ出張に出るはずだった彼女の両親は、空港へ向かう途中で車と衝突事故を起こし、青子の元へ戻ることはなかった。その時ばかりは、流石に泣いた。
幸い生活に困らない程度のお金は残されていたので、なんと彼女は十五歳という若さで一人暮らしを始めた。青子の家は借家ではなかったため、家賃はかからなかったし、学校も歩いていける程度の距離だったので、贅沢さえ望まなければそれなりにやっていけたのだ。青子の両親は、彼女の将来のために、そこまでのお金を残してくれていた。
昔から縁があったということで、赤崎の時と同様に、緑間の家は青子のことも引き取ろうと言ったが、緑間家には既に赤崎がいたし、来春から高校生になるのだから、周りに甘えてばかりではいけないのだと自分に言い聞かせ、彼女はそれを丁重に断った。辛くなったらいつでも帰ってきていいからね、という緑間の母の言葉に、やっぱり彼女は泣いた。
ちょうどその頃から赤崎も緑間家を離れ、藤黄家の仕送りを頼りに自分の家へと戻り、彼もまた青子同様に一人暮らしを始めたのである。
だから、というわけではないが、主に青子は赤崎の家に入り浸るようになり、それがいつの間にか衣食住を共にするまで発展したため、一人暮らしというよりは、むしろ二人暮しであったという方が正しいかもしれない。
そんな状態が約半年続いたものの、流石に高校に上がる頃にはそういった二人暮しを控えるようになり、いつしか青子は、赤崎の家で寝泊まりすることをしなくなった。
両親を失くしてわかったことがいくつかある。まず第一に、自分が天涯孤独の身になってしまったのだということ。第二に、思っていた以上に自分は家庭的な女の子ではなかった(つまり家事スキルがほぼ皆無であった)ということ。
そして第三に、悲しみは、自分が思っていた以上にあっさりと引いてしまうということ。
両親が亡くなって青子が泣いたのは、最初の一日目だけだった。二日目にはお腹がすいて、ご飯をたくさん食べていた。三日目にはクローゼットを漁って、喪服があったかどうかの確認さえしていた。青子にとって両親の死は、悲しむべき対象にしてはあまりに薄かった。
何故なら、彼女にもまた、幼なじみがいたから。その幼なじみの存在が、彼女の心の支えになっていたのである。
青子は両親の死を悲しみはしたが、残された自分の不運を悲観することは決してなかった。当たり前だ、彼女は一人になりはしたが、本当の独りにはなりきれていなかったのだから。
「ごめん…ごめんね、静」
もう何度目になるかもわからない謝罪の言葉を、今はもういない幼なじみへと青子は呟く。
(独りにしないって、決めていたのに)
二人がいると言った。二人が僕を独りにしないなら、僕は絶対一人になんてならないよと―そう、言っていたのに。
確かに誓ったはずだった。指きりで約束をしたはずだった。これから先、たとえどんなことがあろうとも静だけは独りにしないと、出来る限り一番傍で生きていこうと、緑間と青子はそう決めたはずだった。
それなのに、これは一体、どういうこと?
静は死んだ。もう、戻ってきはしない。
幼き日の約束が脳裏を掠める。
小指を絡めた。
ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます。
『約束する、俺達は絶対にお前を裏切らない。ずっと一緒だ』
『私と、静と、祭、3人の一生の約束ね』
ゆーびきーった。
「約束したのに…結局、守れなかった」
彼を独りにしてしまった。
彼を独りで逝かせてしまった。
今度こそ彼は、独りになった。
「ごめんなさい」
針を千本飲めば許してもらえるだろうか。約束を破ったその代償を支払えば、自分は許されるだろうか。
きっと静は、後にも先にもそんなことを望んだりはしないだろう。
そんな風に思いつめないで、僕の分も精一杯生きて、幸せになってと。そんなことを言うに違いない。長い付き合いなのだから、それくらいわかる。
それでも、それ以上に。
自分の気持ちは、わかりたくなくてもわかってしまう。
「…私も、
そうすれば、彼は独りではなくなる。だってきっと、私達同じところにいけるもの。
別に、今まで生きたかったから生きていたわけじゃない。きっかけがなかったから死ねなかっただけ。死ぬ勇気がなかったから、仕方なく生きていただけ。
(…なんて、馬鹿みたい)
そんなこと、一度だって思ったことはなかったくせに。仕方なく生きてきた、だなんて嘘。毎日が楽しかったじゃない。生きたいと思えるだけの日常が、手の届くすぐ傍に、今までずっとあったくせに。
生きたくても生きられない人がたくさんいる。彼もきっと、その内の一人だった。それなのに、今を生きている私が、そんなことを言っていいはずが、ないのに。
(私は、静を理由に何から逃げようとしているの)
「…っ」
涙が溢れてくる。青子はうずくまって、必死に歯を食いしばった。
ねえ、私どうすればいい?未練、無いって言ったら嘘になるけど、静がそれを望むなら、今ここで針千本飲んでもいいよ。
…ああ、違う。静はそんなこと、望まないんだった。きっと、そう、静がそう言ってくれるのを、私は待っているだけね。なんて都合の良い妄想。
私の知っている静は、たとえどんな時であったとしてもそんなこと、言ったりしないのに。ただ、私がこの現実から逃げたいだけで、この罪悪感と悲しみから、一刻も早く逃れたいだけね。
「静…しずか、」
でも、それもありだと思う。どうせもう、私は一人なんだから。お父さんもお母さんも、いないんだから。
『青子』
ふと、聞き慣れた声が脳裏を過ぎった。この声は、そう―祭のものだ。
(そうだ、まだ)
祭がいる。
きっと怒るだろうな。私が、私も死んだら、きっと。祭はどんな顔をするかな。私の為に、泣いてくれたりするのかな。
(ああ、でも)
私まであっちに行ったら、今度は祭が独りになる。そうだ、それじゃあ意味がない。結果的に、誰か一人が独りになってしまう。
「そんなの…じゃあ、私はどっちを選べばいいの?」
どちらを選ぶことが最善であるか、今の私にはもうわからない。
死ぬ理由も生きる理由も、どちらも今は私の手にある。けれど、どちらを選んでも、誰か一人だけが救われない。そして私は、どちらを選んでも必ず救われる。
だって私は―どちらを選んでも、独りになることはないのだから。
「最低よ…どっちを選んだって、最低じゃない」
初めから、選択肢なんてなかったんだ。私だけじゃない、選択肢は、誰にもなかった。
ブブブ、という携帯のバイブ音が、静まり返った部屋の中に鳴り響く。彼女は、耳を塞いで聞こえぬふりをした。
しばらく経つと、コンコンと今度は何かを叩くような音が聞こえてきた。―コンコン?
伏せていた顔を上げて、青子は辺りを確認する。今のはドアがノックされた音ではない。その音は、全く逆の方向から聞こえてきた。
そう、音がしたのは窓からである。一体どうして?
もう一度、コンコンと音が鳴る。閉じられているカーテンの向こうに、何かの影が一瞬過ぎった。…鳥?
青子はふらふらとベッドを降り、力なくぶら下がっている右手をゆっくりと引き上げて、カーテンを開けた。部屋の中に日の光が差し込んでくる。
空はもう大分赤く、どうやらもうすぐ夜が来るようだ。
―だが、気づくべきなのはそこではなかった。もう夕方だとか、久しぶりに見た空が綺麗だったとか、今考えるべきは、そういうことではなかったのだ。
「な…んで」
窓の縁に何かがぶら下がっていた。ぶら下がっている何かが青子に気づき、へらっと屈託なく笑った。久しぶりに見る顔だった。
「なんで…なんで、そこに」
青子の家は一軒家にして、彼女の部屋は二階にある。どうやっても地上からの距離は、登ってこられるようなものではない。では、このぶら下がっている何かがぶら下がっているのは、おかしくないだろうか。ないだろうか、ではなく、おかしいのだ。一体どうやって?
―何より、
青子は現状に驚き、戸惑いながらも鍵を開けて窓を開け放った。心地よい風がぶわっと体を吹き抜ける。外の空気に触れるのは久しぶりのことだった。
青子は深く息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出す。ああ、私は生きていると、、そう思った。改めて自分の生を、痛感させられる。
そして、いつの間にか窓の縁に両腕を乗せ、落ちればそれなりに重傷を負うだろうと思われる高さをものともしない様子で「よっ」と片手を上げる幼なじみを見た。見下ろすと、業務用に使われる程度の大きさはある梯子が倒れていた。なるほど、あれを使ったのか。
久しぶりに会った幼なじみの顔は、最後に会った時と比べると随分明るさを取り戻しているように見える。別段それについてどうこう言うつもりはないが―自分にはまだ、明るさを取り戻すには時間がかかるだろうと、青子は思う。
もっとも、以前のような明るさが戻ってくるかどうかは、また別の話であるが。
「…よっ、じゃないわよ。何やってるの…祭」
「いやーだってインターホン押しても青子出てくんねえんだもん。電話にも出ねえし。だからまあ…不法侵入ってやつ?」
インターホンを押された記憶はなかったが、どうやら先程の携帯のバイブ音は、緑間からの着信だったらしい。
「んで、梯子使ったまでは利口だったんだけどよ、ぎりぎり手が届かなくってさ。なんとか窓に手え届いたと思ったら、間違って梯子足で蹴っちまったんだよ。そんで俺、今すっげー困ってんの」
情けない笑顔を浮かべ、青子の幼なじみは眉を八の字に下げている。その顔が、一瞬赤崎のものと被って見えた。
だからさ、と緑間が続ける。
「よければお手をお貸し願えないでしょうか、プリンセス?」
何がプリンセスよ、と青子は内心で幼なじみを毒づいた。本当に、この幼なじみは人をからかうのが好きである。
一瞬、手を貸そうか迷った。もしも今、身動きの取れない祭の体を、ほんの少し力を込めて押せば。そして、彼と一緒にここから飛び降りればと―刹那にそんなことが青子の脳裏を過ぎった。だがそれは、あくまで過ぎっただけである。
青子はそれを振り払うように首を振り、間抜けな幼なじみに向かって手を差し伸べた。
「本当に、馬鹿ね。救いようがないくらい…馬鹿よ、祭」
きっと、本当に救いようがないのはわたしのほうだけれど。
「ははっサンキュー青子」
私の手を取ったのは確かに祭だった。けれど、もう一つ、感じ慣れたぬくもりをこの手に感じて、何故だかたまらなく泣きそうになった。
***
緑間は青子に引き上げてもらい、なんとか無事に彼女の部屋に転がり込むことが出来た。今更ながら、窓から侵入しようなどと、そんな漫画のような発想が展開できた自分に苦笑いをする。当然土足厳禁なので、とりあえず靴を脱いでお邪魔しますと言っておいた。
「よっ、久しぶりだな、青子」
「…ええ、そうね。久しぶり、祭」
緑間は、出来る限り陽気な感じで切り出してみたわけだが、彼女の反応は想像よりもかなりロウでひどかった。なんというか、言葉に抑揚がなく、何より二つの目に光が宿っていなかったのである。虚ろだった。
ちらりと部屋を見渡すが、空気はとてもどんよりとしていて、まだ夏の五時だというのに、この部屋だけが隔絶されているかのような雰囲気を漂わせている。
悲しい、苦しい、辛い、寂しい。この部屋と彼女を取り巻いているのは、そういった負の感情であった。
やはり響達を連れてこなくて正解だったな、と緑間は思う。彼女はおそらく、今の自分を後輩達に晒したくはなかっただろう。いや、もしかしたら後輩達だけでなく、彼女からすれば緑間にも見られたくはなかったかもしれないが。
約一週間ぶりに会った彼女は、最後に会った日と比べようがないほどに変わり果てていた。話に聞いていた通りろくに何も食べていないようで、随分痩せたように見える。
自慢の髪なの、と言っていた彼女の長い柔らかな髪は無造作に荒れ果て、ぱっちりとした大きな目は充血していて腫れぼったくなっていた。よく眠れていないのか、目の下には隈が出来ている。
原因はもちろん、今緑間の隣りにいる困った幽霊のせいだろう。そして緑間は今日、その幽霊のことを彼女に話すために来たのだ。
「俺、とりあえず今日はお前に話があって来たんだけど…まあ、とりあえずそれは置いといて。台所借りていいか?」
「…台所?」
どうして、と青子が首を傾げる。緑間は、鞄に無理矢理押し込んでおいたレジ袋を取り出し、その中からたまねぎとにんじんを取って彼女に差し出す。意味が分からない、というような顔で青子はそれを緑間から受け取った。まあ、どこからどう見てもたまねぎとにんじんにしか見えないだろう。
「お前がまともに食ってねえことはわかってたからな。この俺様が、あったかいシチューを作ってやるよ」
学校帰り、緑間はいつものように行きつけのスーパーに寄った。いつもと違ったのは、眠たそうな顔をして、それでも文句を言わず買い物に付き合ってくれていた(そもそも緑間だけの買い物ではないのだが)幼なじみが、もう他者から視覚されない霊となって隣りを歩いていたことと、買った材料を調理する場所が赤崎の家ではなく、青子の家だったということだけだ。
何を作ろうかと買い物カゴを片手に、熟年の主婦さながら緑間は悩んでいたわけだが、野菜コーナーや魚肉コーナーをぐるぐると回っている内に、霊となった幼なじみがぽろんと言ったのである。シチューにすれば、と。
『シチュー?なんでよりによってそんな面倒なもんを…』
危うく声に出しそうになったのをなんとか押さえ、緑間はテレパシーを送った。だって、と赤崎が続言った。
『僕ら三人が、揃って一番好きなものだったでしょ』
『…ああ、そういや』
確かにごもっともな意見だったので、緑間はそれに従うことにしたのだった。そういえば幼い頃、緑間の両親がいない時を見計らっては、よく三人でシチューを作ったりしたっけか。一番上手に作れたのは、確か中三の時だったように思う。あの味はまだ忘れていない。
そして今、ここに三人が揃っている。
「シ…シチュー?どうしてそんな、いきなり」
「昔はよく一緒に作ったろ。俺と青子と、静の三人で」
むしろ、三人で作ったことがあったのはシチューだけであった。もちろん、シチューは三人で作る、という約束事があったわけではないが、不思議とシチューだけは三人揃って作っていた。どうしてそこまでシチューにこだわっていたのか、今ではもうよく思い出せないけれど。
「確かにそれは…そうだけど。でも、今、静は」
「ちょうど三人揃ってる。三人一緒なら作れんだろ」
「…っだから!だから、静はもう」
「いるよ」
青子は、その声にはっと目を見張った。
よく通る澄んだ声だった。柔らかで、一瞬誰の声か見誤ったほどに。
もちろんそれを言ったのは緑間である。今この家には、青子と緑間以外には誰もいないのだから。
(でも、今のは…まるで)
青子は戸惑い、困惑した。緑間と赤崎がダブって見えたからだ。おそらくそれは、彼女の見間違いにすぎなかったのだろうけれど。
「あいつはいる。俺らのすぐ傍にいるんだ、青子」
何を根拠にそんなことを言っているの、と青子は思った。
(だって静は、死んだじゃない)
もうこの世界のどこにも、静はいないのよ。
…と、いうことになっているが、実際赤崎は今彼女の手の届く範囲に、幽体とはなっているものの存在しているのが現状である。もっとも、彼女はまだそれについて何も聞かされていないので、知らないのも無理はないが。
青子は唇を噛み締める。ひどく裏切られたような気持ちになった。それは緑間にではない。自分自身にだ。
もしかしたら自分は、悲しんでいるふりをしていただけなのかもしれない。“静はもういない”―そんな風に諦めてしまっている自分が、確かにいるじゃないか。
静が手の届かない所にいってしまったのは、誤魔化しようのない事実だ。けれど、今のは確かに、私自身が彼を過去にしてしまった瞬間ではないだろうか。私はあの一瞬に、静のことを忘却してしまったのではないだろうか。
こんな自分は嫌だ。私の世界からどんどん静がいなくなっていく、その手助けをしている自分が、青子はどうしようもなく嫌だった。
―祭はこの一週間で、静のことを過去にしきれたのだろうか。
「あ、悪い。言い方間違えた。俺が作ってやるっていうのは嘘」
青子が手に持つたまねぎとにんじんを、緑間は意地の悪い笑みを浮かべて指差した。言わずもがな、彼の指に指されたところで、たまねぎがおにぎりになったり、にんじんがチョコレートになったりするはずもなく、あくまで青子の手にあるのは、たまねぎとにんじんであり、それ以外の何物でもなかった。
まあ、これからシチューを作ると言っているのだから、おにぎりやチョコレートに変わったりされては逆に困るのだが。
「…どういう意味よ」
「そのまんま」
スタンドアップ、スタンドアップ、とかなり発音の悪いカタコトの英語を口にしながら、緑間が青子を立ち上がらせる。緑間は肩に鞄をかけ、右手にレジ袋を持って「レッツラゴー」と、左手で青子の手を引いた。
「ちょ、な、なに…そのまんまって、一体どういう」
「シチューは三人で、だろ。だから俺一人で作るっていう選択肢は初めからねえの。OK?」
OK?の部分だけ発音がやけに流暢だったが、青子は敢えて触れなかった。
「そんなこと言ったら、静だっていないじゃない。どっちにしろ、三人じゃないでしょう」
「だーかーら、静はいるんだっての。いい加減認めろよ、往生際が悪い」
何をどう認めろというのだ、この幼なじみは。実際この部屋のどこにも、静は存在していないじゃないか―そんな風に、若干の苛立ちを含んだ目で、青子は緑間を見上げた。
(それとも)
祭には見えているのだろうか。もういないはずの静の姿が、祭の目には映っているとでも言うのだろうか。
「ま、楽しみにしてろよ。全力でこき使ってやるからな。覚悟しとけ」
“俺らのすぐ傍にいるんだ”
(ねえ、祭)
覚悟なんて、できないよ。
だって私には、祭に見えているものが見えないんだもの。
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