第10話
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「あ、森田く――……」
女の子の可愛らしい呼びかけに、森田君の肩はびくりと震えた。
最新のお化け屋敷で背後から不意打ちをくらっても、ここまで驚く事は無いかもしれない。女の子の声一つで心臓が縮み上がる体験は、そうそうないだろう。
森田君はばっと振り返り、生瀬さんと目が合った。
(なませ、さん……?)
森田君は見間違いかと思った。
だが、目の前にいるのは間違いなく生瀬さんだ。
どうしてこんな茂みに、いきなり生瀬さんが現れたのか。森田君は全く分からない。生瀬さんは目をしばたかせている。その生瀬さんの視線の行方に、森田君は気づいた。
タイミングが悪い。
いかんせん、あまりにも悪すぎた。なにせ森田君は、所用を終えたヨロズ先輩をトランクケースに入れている、まさにその最中だったのだ。閉まりかけたトランクケースは、さながら二枚貝だ。ヨロズ先輩の足が、にょきっと飛び出しているのである。
生瀬さんはヨロズ先輩の美しい足を凝視していた。
それはそうだろう。
当たり前だ。
逆の立場なら森田君だって釘付けになる。
(まずい……)
森田君の背中がじんわりと湿りはじめ、額に脂汗が浮かんだ。
(これは、非常に良くないぞ……)
緊張ゆえか森田君は喉の渇きを感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。
おおよその事情を知っている森田君が見てすら、犯罪のにおいが漂ってくる。
事情を全く知らない生瀬さんがこれを見たら、どう思うか?
想像に難くない。
秋風は我関せずと吹いている。木々の乾いた葉っぱがこすれ合うチロチロという音が、止まってしまった森田君の体感時間を、否応なく日本時間へと引き戻した。
「な、生瀬さん……?」
森田君の声は上ずっていた。
なぜこんなところに生瀬さんが突如現れたのか。よりにもよって、なぜこのタイミングでやって来たのか。どうして後ろから音もなく近づいてきたのか。そもそも、なんで自分はこんな事をしているのか。森田君の疑問はとどまる事を知らない。
だが、そんな事よりも今は大事な事がある。
「……ち、違うんだよ、生瀬さん……」
森田君は生瀬さんを手で制した。
生瀬さんに誤解されては困る。
これは決して、やましい事ではない。森田君は女の子をトランクケースに詰めて山中まで運び、地面の下に埋めようとしているだけなのだ。
「これはっ、その……これは違うんだっ」
何が違うのか森田君自身も定かでは無かったが、口からその言葉が出ていた。
信じてほしいが、おそらく信じてもらえない。
信じてもらうための言葉が、何一つ思い浮かばない。
森田君は口をパクパクと開閉するのみで、言葉が続かない。
真意を伝えようと気張るほどに、誤解を解こうと焦るほどに、言葉が頭から消えていく。そのもどかしさに森田君が立ち上がって一歩近づくと、生瀬さんが一歩後退した。
さらにもう一歩、森田君が歩み寄ると生瀬さんがまた一歩、後ろに下がる。サバンナで出合い頭の駆け引きをするチーターとガゼルは、きっとこんな感じになるのだろうか。
逃げるか、逃げられるか。
食うか、食いっぱぐれるか。
文明社会のど真ん中に突如として出現してしまった、二者択一の自然の原理。
「…………」
「…………」
沈黙は時として言葉よりも雄弁に語る。と、森田君は気付いた。
生瀬さんは逃げるつもりだ。
(今、逃がしてはいけない)
森田君の思考は肉食獣と化していた。
そして計らずも、森田君の肉体も肉食獣の瞬発力を発揮してしまった。
「――きゃっ!?」
生瀬さんの小さな悲鳴は一瞬だった。
後ろを向いて走り出そうとした生瀬さんの手を、一歩早く森田君が掴んだのだ。なぜそうしたのかは分からないが、森田君は背後から生瀬さんの口を塞いでいた。
それは見事な早業だった。
例え「初犯です」と真実を告げても、警察屋さんに目撃されていたら絶対に納得されないであろうほど、森田君のその一挙動作は実に手馴れていた。
森田君に他意はない。
生瀬さんに逃げられると困るので、捕まえたまでの事だ。誤解をどうしても解きたかっただけだ。生瀬さんにどうしても話を聞いて欲しかっただけだ。
仕方がなかった。
森田君としての最善を尽くした結果だ。
だが結果的に、森田君は女の子を羽交い絞めにしてしまっていた。
もしこれがスポーツだったなら完全にアウトであり、退場処分であり、出場停止であり、選手資格はく奪であり、殿堂入りでさえ抹消されかねないほどの失策だった。
「っん!? んんっ! むー、むー!」
「お、落ち着いて生瀬さんっ」
あまりの犯罪臭さに森田君はパニックになりかけつつも、生瀬さんに呼びかけた。
だが、生瀬さんはもがき続けている。
「お願いだからっ、そのっ、えっと、こんな事して本当に申し訳ないんだけどっ、どうか静かにっ。ほんの少しで良いから、このまま話を聞いて欲し――……うわっ!?」
森田君は手首を振り払った。
生瀬さんの口を塞いでいた森田君の手に、大きなジョロウグモがいつのまにか乗っかっていたのだ。知らぬ間に、茂みの中で蜘蛛の巣を突き破っていたらしい。
生瀬さんは声をあげなかった。
だが、生瀬さんは腰からストンとずり落ちそうになり、抱きかかえるように森田君が支えなければならず……つまりお姫様抱っこの形となった。
「……な、生瀬さん?」
生瀬さんの身体が酷く重くなっている。
警察密着番組で森田君は見たことがある。完全に意識のない人間の身体は、ひどく重くなるのだということを。森田君はその知識を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
生瀬さんの意識が、ない。
事態を飲み込むにつれ、森田君の顔が蒼くなっていく。
「あれ、ちょっと……?」
森田君の声は震えていた。
そんなに強く口を塞いだ訳でも、手を掴んだ訳でも、怖い声を出した訳でも、羽交い絞めにしてしまった訳でもない……つもりだった。だがそれはあくまで、必死だった森田君の言い分であって、生瀬さんからすれば違ったのかもしれない。
あるいは間近で蜘蛛を見たためだろうか?
生瀬さんは虫がかなり苦手な女の子だ。
だが、だからどうしたというのか。
過程や理由をいくら考えても、事実は変わらない。
覆水は盆に返らない。
生瀬さんが意識を失った事に関して、過失は間違いなく森田君にある。
「森田君、何をやっているの!?」
騒ぎを聞きつけたヨロズ先輩が自力でトランクケースから抜け出し、目を見開いている。
「いやその、とっさに体が動いてしまって」
横手からヨロズ先輩に声をかけられ、森田君はシドロモドロになった。
ヨロズ先輩が生瀬さんの手首を調べている。
森田君は上着を脱いで丸め、生瀬さんの枕代わりにした。
ヨロズ先輩が生瀬さんの脈拍や瞳孔を調べ、ほっとしたように息を漏らしている。
「脈に異常はないし、呼吸も落ち着いてるわ。……気絶しただけみたいね」
ヨロズ先輩の言葉に、跪いて介抱していた森田君は胸をなで下ろした。
「よ、よかった……」
「……森田君、まさかとは思うけれど、鼻を塞いだりは、していないでしょうね?」
「まさか、そんなっ! 生瀬さんは虫とか蜘蛛がすごく苦手らしいので、たぶんそれで……ああ、でも、ボクも必死だったから、もしかしたら――」
「しっ」
ヨロズ先輩に言葉を封じられ、森田君はヨロズ先輩の視線の先を追った。
茂みの隙間から人影が見える。四十代ほどの、ウォーキングウェアを身に着けた女性だ。子犬の散歩をしているらしい。森田君のいる茂み目掛けて、やってくる。陽光と茂みの関係上、あちら側から森田君たちを見る事は難しいはずだが、騒ぎを聞かれたのかもしれない。
「生瀬さんっ、ねえ、生瀬さん、起きてっ」
小さくも鋭い声を出し、森田君は軽く揺さぶった。
生瀬さんは目を覚ます気配が無い。
森田君がもう一度ウォーキングウェアの女性をみると、女性は嫌がる小犬のリードを引っ張りながら、まっすぐこちらにやってくる。
(間違いなくこの茂みの中での騒ぎを聞きつけている……!)
森田君はそう思った。
騒ぎを聞きつけた一般人がこの状況を見れば、はたしてどう思うか? こんな人目を憚る茂みの中で、大きな空のトランクケースに、男女が三人。
しかも内一人は気絶している。
犯罪の臭いしかしない。
瞬く間に通報され、パトカーが到着し、両手に手錠をされ、その上から上着をかけられ、パトカーの後部座席でうつむく姿を写真にとられ、最悪の形でワイドショーをにぎわせる自分の映像が、森田君の脳裏をよぎった。
(まずい、まずいぞ、このままだと――)
どうすれば、と森田君は周囲を見回した。
この場をやり過ごす、なにか上手いアイデアはないか?
焦る森田君の目に、樹木や落ち葉、空の雲やトイレの外壁、当惑するヨロズ先輩、横たわる生瀬さん、そして、口を大きく開けたトランクケースが入って来た。
性善説を支持するとするなら、何かが――おそらく人の力ではどうにもならない超常的な何かが、森田君の脳裏で囁いてしまったのだろう。
「………………」
森田君は無言だった。ヨロズ先輩は声を出す暇すらなかった。
パタン、カチャ、と音がした。
それは咄嗟の事であった。
考える前に体が動く、という人体の不思議な機能の産物であった。森田君の意思や道徳観からは程遠いはずの行動であった。若気の至りであった。
結果だけを言えば、森田君はトランクの中に詰めてしまった。
生瀬さんを。
しまったと思った時には、しまっちゃっていた。
必死だったせいか生瀬さんの身体はとても軽く感じ、森田君の手並みは熟練の誘拐犯ですら『ヤツは将来、四天王の中で最も恐ろしい男になる』と言い出しかねない程だった。
「も、森田君……犯罪よ、これ」
さすがのヨロズ先輩も声が震えている。
「洒落にならないわ」
「ええ本当にっ。でも元凶なのにドン引きするの、やめてもらえませんかっ!?」
森田君のツッコミは、かつてないほど鬼気迫っていた。
重いトランクケースを引いて、森田君とヨロズ先輩は茂みを出る。小犬の飼い主の怪訝な表情を掻い潜り、森田君は遊歩道を突き進んだ。
背中に突き刺さる視線を引き離すと、ヨロズ先輩が森田君の肩をちょいと突いた。
「どうするの?」
「近くにボクの家があるので、まずはそこへ。親は仕事で居ないので」
「そうね」
ヨロズ先輩は頷いた。
森田君と共にトランクケースの生瀬さんを気遣いつつ、ヨロズ先輩は続けた。
「とにかく、一息つきましょう、森田君」
「できればその、生瀬さんの目が覚めたら、先輩が説得を。ボクはやらかしちゃったし、ボクより、生瀬さんがこちらの話を聞きやすいと思うので」
「ええ、わかったわ」
これほど早口で滑舌良くなされる会話は、日常生活ではほとんど無いだろう。略取誘拐半歩手前の状況下、さすがのヨロズ先輩も動揺を隠せないようであった。
森田君もこう思わずにはいられない。
(こんなはずじゃなかった……こんなはずじゃ……)
計画は狂いに狂い、当初の予定などすっ飛んでしまう。犯罪の突発性をこんな形で痛感する事になるとは、森田君も考えていなかった。
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