【I-001】悲運の女帝

 グランフェルテ帝国という国家は、特殊であった。

 帝国と呼ばれてはいるものの、皇帝に権力は無いに等しかった。代わって政権を掌握しているのは、今や世界を取り仕切るほどの大国となったエクラヴワ大王国である。


 とはいえ、「帝国」とは昔から名ばかりのものではない。初代皇帝バルタザールは強烈な野望を持った男であり、『グロワール・ド・ディジョン』なる奇跡の剣を手に、世界の統一を実現したと言われる。しかしそれは、もはや二百年余りも昔の話である。

 バルタザール亡き後、世界は分裂した。長い間、多くの国際紛争、内乱、大国同士の権力争いが続いた。

 そして、やがてひとつの国家が台頭した。マクシムと名乗ったその男は、征く道すがら率いてきた集団から成り上がり、次々と諸国を征服すると、ついにはエクラヴワ大王国を築いた。かつて絶対の強さを誇ったグランフェルテ帝国も、いとも簡単にエクラヴワの支配下に敷かれてしまった。


 しかしながら、グランフェルテ皇帝はその地位を失うことは無かった。

 エクラヴワ大王は、あえてグランフェルテを存立させたのである。自らがこの帝国をおさえ最強となった証として、他者にその強さを誇示するために。

 ゆえに、グランフェルテは世界で最も豊かな国から一転し、大王国の奴隷として扱われた。城下町では大王国の兵士や役人が幅を利かせ、逆らう者には容赦のない拷問や処刑が与えられた。グランフェルテ皇族、貴族、役人は政治から排除されて大王国の人間が取り仕切った。

 バルタザールの血を引く皇家の血筋を途絶えさせないことは許されたが、皇帝となる者に力は必要とされなかった。むしろ、その逆で……奴隷の象徴として大王国に従順で、その愛玩動物としてふさわしい、美しく優雅な佇まいさえ持ち合わせていれば、その役割を十分に果たしているとみなされていたのである。

 

 十八才で即位した第六代女帝、イザベル・オリアーヌ・ド・グランフェルテは、長く波打ったブロンドの髪と大きな琥珀色の瞳をはじめ、均整の取れすぎた容姿を持った、絶世と呼べるほど美しい女性であった。

 彼女の母アドリーヌは宮廷で高貴な者を癒す踊り子として際立つ美貌を誇り、五世皇帝アルフォンスに見初められ結ばれた。ひとり娘のイザベルは母の優艶さと父の温厚さを受け継ぎ、さらに秘めたる強さを思わせる凜とした姿で、彼女を遠巻きに見る国民たちから今までになく憧憬の眼差しを集める姫君であった。しかしイザベルの両親は、彼女の即位のひと月前に相次いで突然亡くなった。


 大王国が示したグランフェルテ皇帝の条件にぴったりと適ったイザベルの、その日常は、決して幸せなものでは無かった。

 十九才の誕生日に強いられた結婚相手は、エクラヴワ大王国・デュヴァル家の御曹司で、十五歳年上のアルマンという男であった。彼本人は表に出ることが好きではなく、眼鏡をかけて一日中哲学書を読んでいるような頭の硬い人間だったが、その父親はたいそう野心家であった。息子とこの帝国女帝との結婚により、中流貴族であるデュヴァル家は大出世を遂げるはずであった。

 イザベルには以前から想う男性がいた。近衛である帝国騎士兵団元帥であり、古くから皇家に仕えるローラン候の当主でもあった、フェルディナンである。彼は女帝の護衛の騎士として、常にイザベルの傍らに立っていた。フェルディナンの方もまた、妻オーレリアが第二子出産の際に神に召される以前から、イザベルに許されざる想いを抱いていたのであるが……それも、イザベルのアルマンとの結婚を境に断ち切らねばならなかった。

 毎日を絶望的に生きるイザベルを見るに見兼ねた彼女付きの女官カトリナは、ある日、イザベルの結婚から四年ほどが経って初めての休養を彼女に勧めた。

 イザベルは迷った。アルマンとの間に昨年、娘が生まれていた為である。しかしカトリナの強い説得により、イザベルは幼子を信頼できる乳母に任せ、僅かな休暇を受け入れることにした。

 彼女に許された滞在先はグランフェルテと同じくエクラヴワ領となっている、海を渡った先のミリエランスの街……夫の実家、デュヴァル家の別荘であった。

 

 「姫様、今日は本当に溌溂としてらっしゃいますのね」

 イザベルはすでに姫と呼ばれる立場ではない。しかし幼いころから付き添ってきたカトリナにとっては、自分の親友とも言える、まだ二十三歳の女主人に対してはこの呼び方が一番しっくりと来るものだった。

 「久々のお休みですもの!楽しまなければ損でしょう?」

 彼女は長らく封印されていた、宝石がこぼれ落ちるように麗しい笑顔を久々にカトリナに向けた。

 ミリエランス郊外に建てられた、森の中の小ぢんまりとした別邸の庭。大王国の、夫のものとは言えど……彼女が暮らす、常に見張られろくに陽も当たらないグランフェルテ城の裏邸よりは、はるかに開放的な気分になれた。

 手入れの行き届いた芝の上で、イザベルは伸びをした。蜂蜜色の髪がきらきらと光を反射する。

 その様子を見ると、カトリナは自身にたまった疲労をも払い落とされる気がして嬉しくなった。……イザベルの精神的な疲れを少しでも軽減したいというカトリナの懸命の訴えにより、この別邸へは大王国の見張りが同行しないことが例外的に許可され、ほんの数人の侍女と帝国籍の騎士たちのみを引き連れて来ることができていた。しかし護衛の騎士フェルディナンの同行は、普段より二人の関係を訝しむアルマンの絶対の命令により許されなかったが。

 「姫様、私ひとつだけ気がかりがございますの。お嬢様をお城に……」

 「心配しないで、カトリナ。もちろんディアーヌのことはとても愛しているわ。ただ……」

 イザベルは美貌を曇らせた。

 アルマンとの間に生まれたひとり娘……一歳になるディアーヌは、深い茶の髪や色付いた肌などはアルマン譲りであったものの、その表情には前帝アルフォンスの優しさを受け継いで生まれた。イザベルは大好きだった父の面影を持つ娘の、その喜怒哀楽の面立ちひとつひとつを本当にいとおしく感じ、つらい毎日の中でただひとつの宝物のように思っていた。

 しかし……夫アルマンの事を娘と同じように愛する事は出来なかった。ただ大王国に押し付けられた結婚相手であるという屈辱的な事実のみならず、彼の傲慢で独善的な人柄を、彼女はどうしても受け入れられなかった。

 「……わかりますわ。姫様は、本当は情熱的なお方ですもの。もしそのご身分がなかったら、アルマン様ではなくて……」

 「やめなさい、カトリナ」

 イザベルは苛立ったような表情で、にわかに立ち上がった。せっかくの休暇にまで夫のことを持ち出されるのは不快でたまらなかったし、今カトリナがしようとしていたような話は、一刻も早く、心の奥に封じねばならないことだ。

 「散歩をしてくるわ。……独りになりたいの、誰も付けないで。カトリナ、あなたもよ」

 「えっ、姫様……!」

 イザベルは追おうとするカトリナの声を無視し、庭の小さな門の鍵を開け、森の中へ繋がる小路をどんどんと歩いてゆく。穏やかな彼女がまさかこのような行動に出るとカトリナは思っていなかった。イザベルが窮屈な思いをしては休暇の意味がなかろうと、この扉の周りの騎士たちの見張りを断っていたのも、カトリナであった。

 彼女は慌ててイザベルの後を追って門の外まで出たが、すっかり怒らせてしまったので気まずいかと、それ以上の追跡を思いとどまった。この向こうの森はデュヴァル家の庭の続きのようなもので、出るものといったら小鳥かリスくらいのものだ。それに彼女は、身の危険も判らぬほど愚鈍な人ではない。そう遠くにも行くまい、すぐに戻ってくるだろう……そう思っていた。

 しかし、イザベルは明け方まで帰らなかった。

 その休暇からいくらかの時が経った頃、イザベルの体調がおかしいことに、カトリナはいち早く気付いていた。

 晩餐のときに、食欲のなさを訴えているかと思えば、野菜の酢漬けや果物ばかりをやたらつまんでいる。何かある毎にカトリナに八つ当たりをする。娘のディアーヌをあやす声が、妙に高らかに楽しげであったかと思うと、突然、悲しみを含んだようなものになる……。

 カトリナは医療の知識など持ち合わせていなかったが、ディアーヌが生まれる前からずっと、若き女帝の側でその一挙手一投足を見てきた。……ゆえに不安定さの原因は予測できていた。

 彼女はイザベルを人気のない小部屋に連れ出すと、すぐに事実を夫に告げるよう勧めた。しかしイザベルは、それが喜ばしい事であるのにも拘わらず、何故だか頑なにその勧めを拒んだ。

 カトリナは不思議に思った。そして……つい、仲の良い女中のひとりに口を滑らせてしまったのである。

 イザベルが懐妊していることが夫アルマンの耳に届くのに、さほどの時間を要さなかった。美しい妻の待つ『太陽の間』に一歩を踏み入れた彼のもとより神経質そうな顔の、その表情は……しかし、酷くこわばっていた。

 「あなた……」

 「……イザベル。わざわざあの出過ぎた騎士を遠ざけて行かせたというのに、お前という女は……!」

 突然……アルマンは壁に掛けてあった装飾用の剣の一本を掴んだ。そして妻に向かって、その細身の身体に似合わぬ暴れ馬のような勢いで突進したのである。

 慶事と安心しきっていた近衛騎士たちは一瞬、何が起こっているのか察しかね呆然としたが、 すぐに彼らは動いてアルマンを取り押さえた。

 ……彼が怒り狂うのは当然であった。イザベルと夫との、もともと形だけであったような関係は、娘のディアーヌが生まれて以来一年間ますますと冷えきっていたのだから。そして、妻の様子がおかしくなり始めたのは、ちょうどあの休暇から半月ほどの時間が過ぎたころであったのだから。

 彼は妻を本当に愛していた訳ではなかった。しかし……せっかく手に入れた皇婿という地位と、世界で無二の美貌の姫君を手に入れた唯一の男としての誇りとを同時に踏みにじられたのかと思うと、この上ない屈辱を感じて仕方が無かったのである。

 アルマンは彼を取り押さえている近衛と激しく揉み合った末に、奪い返したその剣の切っ先を、ただ呆然と立ち尽くすだけの妻に容赦なく向け、躊躇うこともなく非情に突き刺した――。

 ……かのように見えた。


 剣先が突いたものは…イザベルの胸ではなかった。

 躍り出たのは、ひとりの騎士だった。イザベルが夫との会話を心置きなく行えるよう、敢えて部屋の外に控えていたのだ。彼女を庇ったその輝かんばかりの金髪を、イザベルは誰のものか判らぬ訳がなかった。

 「フェルディナン……!!」

 肉を貫く、生まれて初めて味わったその感触に、アルマンは我を取り戻した。そして手放した剣と同様に赤く染まった自らの手を呆然と眺め、ようやくその身体に震えを帯びて後退りを始める。すっかりと感情に飲み込まれていた自らの行為に後悔する暇も無く、不意に背に鈍い感覚を覚えた直後……彼の脳天に、衝撃が走った。

 ……額から鮮血を流して倒れたアルマンの背後には、彼が近衛と揉み合った際に当たって鋲が緩んでしまったのか、前帝グランフェルテ五世アルフォンスの巨大な肖像画が落下していた。剣先に貫かれたままの、勇敢なフェルディナンは……彼の守るべき女主人に覆い被さったままの姿勢で眠りについた。

 ……イザベルはもはや、流すべき涙さえ失ってしまっていた。

 『太陽の間』には、何も解らぬ彼女の幼い娘ディアーヌが乳母にきつく抱かれながら、ただ殺伐としたその場の空気と大きな音の余韻とに怯え、泣きじゃくる声だけが響いていた……。

 翌日、時の女帝イザベルは姦通罪によりその座を剥奪され、国外追放されることが決まった。

 娘のディアーヌをその腕に抱いて出ることは、許されなかった。

 グランフェルテ七世として幼くも帝位を継ぐと思われたディアーヌは、なぜかその冠を被ることは無く……グランフェルテ帝国には皇帝不在の世が、五年ほど続いたのである。

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