春の眠りは永遠に続く 5

「杏奈さん!」

 僕はもう部室から遠く離れてしまった杏奈さんを呼び止めた。杏奈さんはくるりと振り返る。僕は杏奈さんの元へ駆けて行った。

「久仁さん」

 杏奈さんは僕に呼びかける。僕は息を整えた。

「あれで、よかったんですか」

 僕は杏奈さんに問いかける。杏奈さんは少し目を泳がせると、僕に歩み寄ってきた。だんだん距離が縮まってくる。後1歩。後数センチ。杏奈さんはかかとをあげて自分の顔を僕の顔に近づけた。すぐ目の前に杏奈さんがいる。杏奈さんは口の前に手を当てた。

「少しだけここだけの話をしたいのです」

 そう言って杏奈さんはかかとを落とす。力が抜けた僕は思わずよろけてしまった。まだ心臓の音が体中に響いている。

「危ないですよ」

「パーソナルスペースを狭めると、人間不快感を感じるそうです。試してしまったことには素直に謝ります。でも、どうしても久仁さんに話す機会が欲しかったのです。そしてこれは同時に他言無用の案件ですから」

「そんなに大事な要件を僕に話してくれるんですか」

「もちろんです。久仁さんには安心して話すことができます」

 さあ、と僕は杏奈さんに連れられて大きな桜の木の陰に身を潜めた。

「私が井川さんを探していることは先ほど申した通りです。ただし、これはご両親から『依頼』として受けました」

「『依頼』ですか」

「井川さんを最後に見たのはいつですか?」

 僕は脳をフル回転して記憶を遡る。

「春休みの最終週にキャンプがあった時にはいました。それ以降は見ていないと思います」

「そうですか。そして、久仁さんに聞いてもらいたいことがもう1件あります。先日の事件について久仁さんにも意見を伺いたいのです」

「僕にですか?」

「ええ。私も考えてはいますが、他の人の意見を聞くことで分かることもありますから。もしかしたら久仁さんの方が見えているものがあるかもしれません」

 そこまで高く評価されていいものなのかとも思いながら、僕は話を聞くことにした。

「犯人は誰か、ということですか?」

「はい。正確に言うと、20号館の中の誰が犯人か、ということです。

 警察の調べによると、20号館にはざっと200人ほどの学生がいたそうです」

「そうなんですか」

 杏奈さんの手にかかれば警察の情報も手に入れられるということなのだろうか。ちょっと怖いから聞くのはやめておこう。

 それにしても、200人も容疑者がいるのはかなり骨が折れそうだ。

「そんなに人がいたんですか」

「そのうちの大半は、1階と2階の講義室で授業を受けていました。私たちが被害者を発見したのは2限の終わりに近かったでしょう?」

 僕は当時の状況を思い出す。確かに、僕の場合はちょうど空きコマだったけれど、まだ講義中だったはずだ。

「はい。ですが、講義は早めに終わったりすることもあれば、自主的に早く抜け出してしまう人もいますよね? そういうことはなかったんですか?」

「その可能性については心配ありません。どの講義も時間通りに行っていましたし、途中退出する学生はいなかったようです。それに、講義を受けていたのはほとんどが1・2年生で、小森さんの知り合いはほとんどいないようです。

 さらに言うと、研究室に入るには、ドアについたキーに暗証番号を打ち込んでロックを外さなければ開かないそうです。また、オートロック式なので、ドアを閉めればまたロックが掛かります。まずゼミに所属していない1・2年生は入ることはないでしょう」

 研究室はそんなにもセキュリティがしっかりしているのか。ただ、防犯上これくらいしっかりしていたほうが僕たち学生にとっても安心できる。

「それで、結局小森さんが転落した場所っていうのは?」

「私の読み通り、当時窓が開いていた葉山教授の研究室でした。窓のサッシから転落した跡が見つかったそうです。他の研究室や講義室からは見つかっていないそうなのでまず間違いないかと」

「ということは――」

「可能性は2つあります。1つ目は、ゼミの仲間、もしくは教授が犯人という場合。しかし、全員にアリバイがあります」

「アリバイ?」

「容疑者が現場以外の場所にいたという事実です」

 それは分かっている。ただ、実際こういうことがある、という事実が呑み込めなかった。

「どんなものですか」

「まず、教授自身はその日は出張で大学にいませんでした。このことはゼミの学生は全員知っていたようですし、講義が休講になっているのである程度の学生、また他の教授は知っていたと思われます」

 大学にいない間にこんな事件が起きてしまったのか。責任問題を問われても何も言えないだろう。

「そしてゼミの学生は小森さんを含めて4人いました。ここからは個人情報になるので、Aさん、Bさん、Cさんということにします。

 まずAさんですが、Aさんは午後1時から始まる企業の説明会に行くため、事件のあった30分ほど前に研究室を出たそうです。Aさんは研究室から出て他の研究室に所属する学生と待ち合わせており、その友人と大学内にある防犯カメラによってアリバイが証明されました。そこからAさんが1人でいた時間も研究室を出てから友人と会うまでの2,3分程度だということです。

 Bさんの場合、下の階の講義室で講義を受けていたようです。これに関しては多くの証言があります。

 最後のCさんですが、CさんはAさんが研究室を出る10分前に図書館に本を借りに行ったそうです。これは大学の防犯カメラ、及び図書館の入退出記録に記録が残っています。

 また、死亡推定時刻はやはり私たちが彼女を発見する少し前ということで間違いないということです。また、小森さんの遺体には拘束されたような形跡もなく、体内から薬物が検出されたこともなかったそうです」

「ええと、ということは……」

 僕は残念ながらすべての話を理解できたわけではなかった。

「紙とペンなら持っています」

「貸してください」

 僕は杏奈さんの話をまとめていく。そして疑問に思ったことを投げかけた。

「死亡時刻をごまかすことはできませんか? 特に30分前に研究室を出たAさんなら」

「難しいでしょうね。研究室にはそのような道具もなかったようですし、研究室に何かしらの仕掛けが施されたような真新しい痕跡はなかったようですし。第一、そう言った手段を選ぶには、眠らせるか拘束するかして小森さんの動きを封じる必要があります」

「では、Bさんはどうでしょうか。替え玉ということは?」

「誰かに替え玉を頼めば、事件が発覚した時点で怪しいと思われるでしょう。また、コメントカードを授業の終わりに提出する授業で、提出されたカードを筆跡鑑定した結果、Bさん本人の字と断定されました」

「Cさんの替え玉は? Cさんの学生証を誰かに貸し、似たような恰好をするということもできますよね?」

「残念ながらCさんの学生証からは本人の指紋しか検出されなかったようです。それに、Cさんは身長が146cmしかないので、代わりを立てるにもそのような体型の人はほとんどいません」

 僕は数秒考えた。

「他の人は研究室に入ることはできないんですか?」

「基本的に暗証番号を知らなければ難しいでしょう。研究室の暗証番号を知っていたのは教授とAさん、Bさん、Cさん、そして小森さんの4人だけだそうです。毎年暗証番号を変えるようで、卒業生も知らないはずだと言っています」

「誰かが秘密裏に教えたということは?」

「可能性としてはありますね。ですが、その場合キーに指紋が残ります。キーに残っていた指紋はもちろん、ドアノブにあったものもゼミの5人のものだけだったそうですし、手袋を嵌めた状態では作動しないそうです」

「じゃあ、無関係の人が入るのは難しいですね」

 僕はがっくりうなだれた。僕の推理はそこまで冴えているものでもなかったらしい。偶然来てくれた杏奈さんを引き留めてまで話をしたというのに。

 待てよ。

「もしかして、研究室の中にいる人が招き入れたなら、研究室には無関係の人が、何の痕跡も残さず研究室に入ることができるんじゃないですか?」

「ええ」

 杏奈さんは頷いた。

「私もその可能性が高いと考えています。おそらく、犯人を招き入れたのは小森さんでしょう。あるいはドアが開きっぱなしになっていたのかもしれません。どちらにしても、小森さんと面識がある人物と見て間違いありません。パソコンがハッキングされたりファイルがコピーされた形跡もなく、研究室から貴重品を含めて一切盗まれていないそうですから」

 ということは、犯人はゼミ仲間以外の小森さんの知り合いということになる。僕は身震いがした。

「それを踏まえてもう一度聞きます。久仁さんから見て井川さんと親しいご友人、いや、井川さんと直接連絡の取れそうな人物をどなたかご存知ありませんか?」

「……井川さんの、ですか」

「警察は井川さんを追っています」

「なぜですか?」

「小森さんのご友人の中で唯一所在が分からないのだそうです」

「それはつまり――」

「井川さんのご両親から井川さんを探してほしいと依頼されたのは事実です。しかし」

 杏奈さんはこう言い切った。

「警察は、井川さんが小森さんを殺害した犯人とみて捜査をしています」

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