第8話 動き出す状況

 誰の声か、わからなかった。振り返り、美夕の口からその言葉が出たことを知り、受け入れられず。

 思考が混乱し、停止してしまった。


 その一瞬のうちに、扉がピシャリと閉められ。真里の体は、瞬く間に影から伸びてきた無数の手に囚われ、組み伏せられてしまった。

 自身を見つめる美夕の表情が、憎悪と狂喜でブレンドされた悍ましい色に変貌していく。手足に感じる縛られた感覚が、この危機的状況を物理的な信号で、真里の神経に伝達していた。


 理解を超えたその現象に、何が何だかわからないまま、真里は腰を抜かしてしまう。


「……!?」


 その直後、自分を捕らえた無数の手……次々と見知った顔が、美夕と同じ色の貌で視界に現れてきた。彼女達は皆、真里を保護するために生徒会から遣わされてきた役員である。


 あれほど優しく、事件を受けて傷心だった自分をケアしてくれた彼女達が。つい先ほどまで、あれほど気遣ってくれた先輩が。


 なぜ、こんなことを。


 この状況も彼女の貌も受け入れられず、目の前が明滅する感覚に襲われる真里。そんな彼女を見下ろす美夕は、裂けるほど歪に口元を吊り上げ、嘲笑する。


「あっ、はははは! 傑作、傑作だわ! まさかこんなに簡単に引っかかるなんてねぇ!」

「そ、んな、どうし、て」


 恐怖と混乱で、口がうまく動かない。歯と歯がぶつかり、カチカチとおかしな音が鳴る。そんな状況の中、震えながら真里は問いかける。


「あの植木鉢がちゃんと当たっていれば、私達の気も早々に晴れたのにねぇ。まさか、『救済の遮炎龍』の邪魔が入るとは思わなかったわ」

「……!? せ、先輩、がっ……!?」

「そうよ。今さら?」

「だ、騙してたんですか……!? 今日まで、ずっと……あぅっ!」


 だが、返答の代わりに飛んできたのは言葉ではなく、足。腹を蹴られ、生まれて初めて受けた悪意の込もった「暴力」を味わい、真里はさらに震え上がる。


「失礼な上に生意気な小娘ね」

「かはっ、けほっ……」

「そもそも、私は嘘なんか一言も言ってないわ。琴海様があんたを招き入れて、保護しようと仰ったのは本当。あんたを狙ってる奴が、それを知ったら怒り狂うのも本当」

「……!」


「その狙ってる奴が、役員の私だった。それだけのことじゃない」


 憎悪と怒り、狂気、嘲笑。負の感情の全てがかき混ぜられ、熟成され、彼女の貌を造っている。おおよそ、人間が出来る表情とは思えないほどの悍ましい何かが、真里の眼前に現れていた。


「……許せないわ。あんただけは許さない。琴海様の寵愛を奪っておきながら、報いも受けない。私達が、気が狂うほどの怒りに苛まれる日々の中。……薄汚い庶民のあんたが、満面の笑みで毎日を過ごしているッ! ……なんという不条理ッ! なんという理不尽ッ!」

「そん、な」

「許されない、絶対に許さない! どんな力に守られていようと、その全てを引き剥がし、掻い潜り、あんたを裁く! ……それが、一ヶ月の苦しみから私達が見つけ出した結論よ!」

「……さぁ、私達が苦しんできた痛みを、怒りを、わかりやすく教えてあげるわ。下賤な庶民の頭でも、理解できるようにね」


 縛られ、身動きが取れない真里を完全に包囲する美夕達。暗闇に飲み込まれるような感覚に陥った真里は、瞼から雫を溢れさせながら、懸命に助けを呼ぶ。


「だ、誰か……誰かぁあぁあ!」

「アッハハハ! ここがどこだかわかってんの!? ただでさえ滅多に生徒が近づかない旧校舎の、最上階の最奥なのよ! 誰を呼んだって来やしないわ!」


 だが、叫びは届かない。届かせるにはここは、あまりに遠すぎる。

 孤立無援の状況に突如立たされ、絶望に打ちひしがれる真里を嘲笑う、美夕の叫びだけが、この空間に木霊していた。


 ◇


「いや、その……大した用じゃねぇんだ。ただちょっと……な」


 その頃。中庭の整備を続けながら、恵が何かを話す時を待ち続けている幸人は、要領を得ない彼女の様子に、小首を傾げている。

 そんな彼の顔色を伺いながら、恵は深呼吸を繰り返し、いざ言葉にして伝えるべく、彼と正面から向き合った。


「な、なぁ、才羽。一昨日のことなんだけどさ」

「はい。植木鉢の件のことですか?」

「そ、そうそう。あの時は、疑うようなこと言っちまって、済まなかった。……ありがとう。真里を、守ってくれて」

「そういうことでしたか。……当然のことをしたまでですよ。気にかけて頂き、こちらこそ感謝の言葉もありません」


 何食わぬ顔で、幸人はいつも通りにそう言ってのける。確かに「救済の遮炎龍」の力を持つ彼にとっては、造作もないことだったのだろう。

 だが、少なくとも。


「……当然、なんかじゃねぇよ。少なくとも、アタシにとっちゃ全然違う。危うくアタシは、一番大切な奴の笑顔を、失うところだった」

「……」

「なぁ……! アタシは、ずっとあいつの笑顔を守りたい! あんたもそうだってんなら、任期が終わってもずっと一緒に……!」


 恵にとって、幼馴染の笑顔は本当にかけがえのないものだった。それが失われるようなことなど、決してあってはならない。

 その想いに突き動かされるまま、恵は幸人の袖を掴む。まるで、何処かへ行ってしまいそうな彼を引き留めるように。


 そんな彼女の必死な姿に何かを感じた幸人は、彼女の考えの全てを知らないまま、その真摯な瞳を見据え、言葉に耳を傾ける。


 だが……その続きは、聞けなかった。


「……!?」

「な、なんだぁ!?」


 突如鳴り出した警報。火災報知器の作動を意味する、そのサイレンが彼らの言葉と思考を断ち切ったのである。何事かと辺りを見渡す恵を一瞥し、幸人は一瞬で鋭い表情になると、迷うことなく中庭から飛び出して行く。


「あ、おい待てよ才羽! 待てったら!」


 一拍遅れてから、その後に続く恵は――並外れた速さで「現場」に向かう幸人の背を追い、驚愕する。

 彼が向かう先……敷地の外れの旧校舎から、火の手が上がっていた。


(防火設備が強化されているこの女学院の施設の中で、簡単に火災が起きる場所と言えばあそこしかない。……しかし、あそこで一体が何が……?)


 一目散に急行する幸人は、突如火災が発生した「出火地点」である旧校舎の五階を見上げ、その不審火の出処を訝しむ……。

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