第101話 救芽井の涙

 あの冷たい機械に包まれた世界で知らされた、この丘にそびえる箱庭の真実。その意味と重さは考えれば考えるほど、最終的には堪え難い重圧という悪影響に帰してしまう。


 その全てを振り払い、向き合わなくてはならない道理から逃げるわけにはいかない、と括られた腹。今の俺を支えるアイデンティティそのものが、それであった。


「救芽井……いるか?」


 しかし、俺が「向き合わなくては」ならないのは、何も四郷研究所の現実だけではない。

 今まさに救芽井の個室の入口に立つ俺には、彼女に会わなければならい理由があった。――彼女が何かに悩んでいる、というからだ。

 矢村が言うには、俺にも関係のあることらしい――が、イマイチ見当がつかない。最初はコンペティションについて不安に思っているのかと勘繰っていたが、矢村によればそれは違うようなのだ。


 俺のことで――か。確かに元々はよそ者だった俺に、自分達の夢の未来を託すのは不安だろう。


 何か気の利いたことでも言って安心させてやりたいところだが……あいにくそれだけのボキャブラリーはないし、不安の元凶たる俺が言っても説得力は気迫だ。

 だが、かといって「救芽井が悩んでる? ふーんそう」で終わらせたりなんかしたら、気になって眠れずにコンペティションどころじゃなくなるのは自明の理。とにかく、直に会って話を聞いてみるしかないだろう。


 向こうも何か悩んでいるなら、話してみることでスッキリするかも知れないしね。

 ……いや、俺がスッキリしたいだけなのかも知れないな。


「えっ――りゅ、龍太君っ!? あ、ちょ、ちょっと待って、今開けるから……!」

「ん? いや、そんなに慌てなくていいからな?」


 条件反射のように彼女の返事が聞こえて来るが、ひどく狼狽しているらしく、元々高い声がさらに裏返っていた。加えて、その声と共にドタドタという忙しい音が扉越しに響いている。

 どうやら、こんな時間に人が訪ねて来るとは思っていなかったらしい。ちょっと迷惑だったかな……。


 それから約一分の、短いようで長い時間を挟み――自動ドアという障壁が去ると、一つの部屋とその借主が視界に現れる。


「お、お待たせっ!」

「……あ、あぁ」


 声を掛けてから扉を開くまでに間が空いたことを気にしているのか、その表情は「イタズラがバレた子供」のような苦笑いの色を帯びている。

 だが、それよりも彼女の顔には、俺の目を引き付けるものがあった。


 ――目尻に伺える、泣き腫らした赤い跡。


 白く艶やかな彼女の肌ゆえに一際目立つその存在は、今の彼女の笑顔が本当の表情ではないということを如実に表している。

 それを一番に目にしてしまったせいか、俺はどうしても、今の彼女に合わせた笑顔を作ることができなかった。

 なんとか口元を吊り上げようとしても、彼女の瞳に意識が集中してしまい、顔の筋肉に力が入らない。……いや、正確には力が入らないというより、うまく表情がコントロールできないんだ。

 どれだけ空気を読んで作り笑いを浮かべようとしても、俺の顔は固まったまま。まるでぶっつけ本番で試験をやらされている面接初心者の如く、俺は凍り付いた表情のまま、彼女をただ見詰めていた。


「あ、あの、龍太君……? も、もしかして怒ってる?」

「い、いやいや、そんなことねぇって」


 ――そんな顔をしているんだろうか、俺は。少なくとも、彼女にはそう見られている、ということなんだろう。

 ここに鏡がない以上、自分がどんな表情をしているのか確認する術はない。仮にあるとするなら、彼女の瞳にぼんやりと映る自分の姿を見ることくらいだ。


「りゅ、龍太君……そ、そんなに見詰めちゃ……やだ……」

「え? あ、あぁ……すまん」


 いつの間にか、俺はそれを実践していたらしい。救芽井は桃色に染まる頬を隠すように、俯いてしまう。


 ……いかん、このままだとまた矢村の時みたいな沈黙が訪れてしまう! さっさと本題に移らねば……!


「――あのさ、聞きたいことがあるんだ。……なんか、お前が悩んでるって話を聞いてさ。出来れば相談に乗ろうかなーって来たんだけど」

「えっ? ――そっか、矢村さんから聞いたのね」

「え……よ、よくお分かりで」

「あの娘、そういうのすっごい目ざといのよ。……そんなに、顔に出てたのね」


 彼女は一瞬だけ驚くように目を見開くが、すぐに納得したように頷き、口元を緩めた。矢村の鋭さを認めている――ということは、悩んでいる事実は確かってことか。


「ねぇ……龍太君、明日のコンペティションなんだけどね……やっぱり、私が出る」

「――はぁっ!?」


 事実を認めたからには、何の悩みなのか話してくれるのかと思えば――彼女はいきなり、そんなことを言い出した。当然ながら、俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。

 この期に及んでお役御免かよ!? 確かに頼りないとは思うが……。


「お昼のあの時に見た、あなたの傷……あれは、私の付けた傷なの。もし明日、あなたの身にまた何かあったら……」

「ま、待った! そりゃあ、確かに俺なんかに任せるのは頼りないかも知れんが、『競争』なんだから命取られるようなことにはならないだろ? それに、『救済の超機龍』は俺にしか使えないんだし――」

「私が実家から持ってきた『救済の先駆者』があるわ。確かに性能面で不利にはなるけど、最も実績のある着鎧甲冑なんだから向こうも納得するでしょうし……」

「……なんで、そんなに俺にやらせたくないんだよ。それに傷の話は、もう終わったんじゃなかったのか?」


 いつの間にか彼女の作り笑いは消え去り、沈痛な表情――すなわち、彼女の本当の顔が表面に出て来ていた。本人もそれを把握しているらしく、そんな表情を見せまいと目を伏せている。

 俺の脇腹の傷を気にするような発言を皮切りに、声も次第に消え入りそうな弱々しいものへと変わりつつあった。俺のことで悩んでいる……ってのは、脇腹の傷のことだったんだろうか。


 傷のことなら林の中で決着を付けられたと思ってたんだが……どうやら、彼女自身はまだ尾を引いているらしい。

 それくらい、救芽井にとっては重い問題なのだろうか……。


「……これは、元々私があなたに押し付けたことだし……」

「そんなの……! 俺はもうよそ者じゃないんだ、お前が気負いすることはないんだよ!」

「だって、私……何度もあなたを巻き込んで、何度もあなたを傷付けて……! もう、もう……!」

「きゅ、救芽井……」


 もう、我慢するだけの余裕もないのだろう。泣き腫らした跡の正体を明かすように、彼女は半泣きの声を上げるようになってしまった。


 ――俺の傷が、ここまでこの娘を追い詰めてたってことなんだろうか。


 確かに、「技術の解放を望む者達」との戦いも、このコンペティションも、救芽井との出会いがなければ関わることはなかっただろう。そのおかげで色々と大変な目に遭ったのも確かだ。

 ……しかし、その責任が彼女一人にあるだなんて言い出すほど、俺は鬼畜でもない。二年前のあの時、俺はそのことで思い切り後悔した。そして――変わろうとしたんだ。

 家族のためにとは言え、あんな勝ち目のない戦いに身を投じるほどに優しい彼女なら、自分が原因で他人を巻き込んだことに責任を感じるのもわかる。傷跡を残してしまったとなれば、なおさらだろう。

 あの後みんなで遊んでいる中でも、彼女は内心どこかで気に病んでいたのだろうか。


 ……なら、今度はきっと……俺が彼女を助けなくちゃいけないんだな。

 家族のため――そして、世界中の人命のために戦ってきた彼女を、見習うように。


「……バカだな。こんなの、なんてことないって何度も言ってるだろ」

「でも……でも……!」


 俺はそっと彼女の肩を抱き寄せ、この部屋のベッドに並んで腰掛けるように誘導した。こういう時はとりあえず座らせて、落ち着かせるのが一番だろう。たぶん。

 ベッドの上には、二年前に彼女が買っていた、二つウサギのぬいぐるみが置かれている。つがいのイメージであるというその片方には、僅かながら涙のシミが伺えた。あれは確か……オスの方だっけ。


「この傷は俺がバカやらかして付いたもんだし、あの時『戦う』って決めたのも、俺が勝手に決めたことだ。お前が気にするようなことじゃないんだよ」

「だけどっ! 人の命を救うのが私の役目なのに、あなたも守るって決めた後だったのに……! もし万が一、またあなたに何かあったら、私もうっ……!」


 ――もしかしたら、彼女も四郷研究所の真実について、薄々感づいているのだろうか。瀧上凱樹――その影に。


 しかし、参ったもんだ。落ち着かせるどころか、とうとう本格的に泣き出してしまった彼女に、俺は頭を抱えるしかない。


 こうなったら――もう、アレをやるしかないのか? 彼女にも通用するかはわからないがッ……!


「……なぁ、救芽井」


 俺は一か八か、目尻に大粒の涙を貯めていた彼女の傍へ身を寄せ――小指同士を、僅かに触れ合わせた。俺の感覚神経が彼女の柔肌を認識した瞬間、俺の脳に「救芽井に自分から触りに行った」事実が伝達される。

 その現実を受け止めた時、俺は体の芯――胸の奥から込み上げて来た熱を抑えるように、唇を噛む。顔が熱いのはきっと……気のせいではないのだろう。


「えっ――!?」


 だが、指が触れるだけで過剰に反応したのは俺だけではなかったようだ。救芽井は俺以上に鼻先まで赤くして、信じられない、という表情で視線を泳がせていた。俺に触れられた弾みでタガが外れたのか、今では透明な雫が、ボロボロと零れるように彼女の頬を伝っている。


「俺、確かに頼りないかもしれないし、これからも心配かけることにもなるかも知れない」


 しかし、ここで退くわけにもいかない。俺は思うままの言葉を並べながら、彼女の手の甲を撫で――腰に手を回す。最初に小指が触れ合った時のショックが強すぎたせいか、それより遥かにスゴイことをやろうとしているのにも関わらず、意外なほど胸の動悸は少ない。


 心配は……恐らく、古我知さんの時よりも掛けることになってしまうだろう。正直な話、一国を滅ぼしたような男と戦うことにもなりうる今、何もかもが丸く収まるとは到底思えない。


 だが、俺が聞いた話をそのまま彼女に伝えたら、間違いなくコンペティションどころではなくなってしまうだろう。その時こそ、所長さんが最も恐れていた事態に発展してしまうんじゃないだろうか……。


 そんな「余りと言えば余りにも危険な場所にいるというのに、何も話せない」というジレンマが、俺の胸を締め付けるように全身を駆け巡る。その感覚を代弁するかのように、俺は腰に回した自分の手に力を込めた。彼女の身体を、引き寄せるように。


「りゅ……龍太……君……!?」


「だけど、やっぱり――信じてほしい。ここまで来て引き下がったんじゃ、やっぱし格好が付かないから、さ」


 そして――抱き寄せた彼女の温もりを浴びて、俺は格好の付かない建前を囁いた。

 「誰かの命を救うために戦う」。そんな漠然とした夢でも、家族と一緒に叶えようと生きてきたお前がいじらしくてしょうがなくて、どうしても支えたくなった。――そんな歯の浮くような動機、知られてたまるかよ。


 彼女の身体は想像以上に柔らかく……豊満な胸の感触が俺の胸板に伝わり、甘い吐息が耳をくすぐる。次いで手の平に伝わる柔らかさを感じつつ、手を這わせるように背中を撫でる。

 ……これが古我知さんとの戦いの後、矢村を落ち着かせるためにほぼ無意識のうちに取った、必殺抱きしめ攻撃だ。矢村の場合はこれで大人しくなってくれたが、救芽井にも通用するかどうか……。


「あっ……んん……」


 すると、彼女は俺の真似をするように背中に腕を回し、まるで抱っこをしてもらう子供のように、ヒシッと俺にしがみつく。

 さらに、甘えるように俺の頬に自分のソレを擦り寄せ、気持ち良さそうな声を漏らしていた。

 ――どうやら、落ち着いてくれたみたいだな。気がつけば、すっかり泣き止んでるみたいだし。


「……そりゃあ確かに頼りないかも知れないけど、カッコ悪いかも知れないけど、それでも俺――全力で戦うよ。約束する」

「……うん」

「今回が最後でいい。もう一度、俺のこと、信じてくれるか?」

「信じてる……最後じゃない。龍太君のこと、ずっと……信じてる」


 ふと、背中に感じる彼女の力が強まった。痛いくらい、俺を強く抱きしめているのがわかる。


「そっか……ありがとうな。傷のことは大丈夫だから。俺は大丈夫だから――明日のコンペティション、やらせてくれるか?」

「それは……」


 俺は優しく囁くように、なんとか彼女の説得を試みる。俺の傷のせいでこれ以上彼女を惑わせないためにも、どうにかここで決着を付けたい。


 ここまでは抱きしめ効果(?)のおかげで、俺の言うことは素直に聞いてくれていたが、コレはさすがに難しいのか……なかなか返事が返ってこない。

 やっぱり怖いのだろうか……? コンペティションに敗れるのも、俺が傷付く可能性があるのも。


 だが、こんな「限りなくアウトに近いアウト」を侵してまで説得に掛かっている以上、失敗は許されない。俺は駄目押しに何かを言おうと口を開き――


「……失敗しても、いい……負けてもいいから……また一からやり直せばいいから……無事に帰って、またこうして、傍にいて……!」


 ――縋るように、甘えるように、願うように呟かれたその言葉が、俺を制した。

 背中に感じる、震えた手の感触。俺の服を強く握りしめ、破けそうなほどに引っ張っているのがわかる。


「……ああ。こんなんで気が済むなら、いつでもやってやる。――だけど、俺は負けないからな」


 彼女が、俺の身をここまで案じている。コンペティションに負けても構わない、と言うほどまでに。

 何故そこまで俺にこだわるのか、少し理解に苦しむところはあるが――彼女を安心させてあげられる方法が、少しだけ見えた気がする。


 ……いつだって、こうして近すぎるくらい傍に居てやる。それが俺にできることであり――全てだ。


 俺は彼女の綺麗な茶髪の上に手の平を優しく乗せ、そのまま「の」の字を書くように撫でてやる。

 やがて俺を抱きしめる力は次第に緩んでいき、救芽井の身体は俺にもたれ掛かったまま、動かなくなってしまった。


「……ったく、でっかい赤ん坊だよな」


 まるで寝かしつけられ、いい夢を見ている子供のように、幸せそうな寝顔を浮かべている。そんな彼女の表情を前に、つい俺もクスリと笑ってしまった。


 俺のことで、よほど苦しんでいたのだろう。泣き疲れた分もあってか、すっかり寝入った様子であり、今ではくぅくぅと可愛らしい寝息を立てている。

 彼女の頭をゆっくりと枕に乗せ、静かに布団を掛ける。そして、枕の近くに置かれている例のぬいぐるみ達を、彼女の傍に配置した。


「……お休み。救芽井」


 お前の涙も不安も、全部杞憂で終わらせてやるからな。だから今は、ぐっすり寝といてくれよ。俺、簡単には負けないからさ。


 ――最後に、そんな届くはずのない約束を立てて彼女の前から立ち去り、俺達の間を自動ドアが遮断する。

 その瞬間を見届けて、俺も自室への帰路についた。


 ……そして、夜が明けて。


 運命の一日が、静かに幕を開ける。

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