悪夢の中
鬱蒼と茂る植木に囲まれた小屋の中で、ヒューは一抹の不安を感じていた。
朝方(といってもほとんど昼に近い頃だが)、スザンナと会った時に少し違和感があった。
まるで何かに怯えている様に、俺やマットとは顔を合わせようとしなかったからだ。
この屋敷に来てからまだ1日しか経過していないにも関わらず、何らかの異常が発生したのかもしれない。
「全く、勘弁してくれよ……」
深いため息と共に愚痴を零した。
何かあってからじゃ遅いんだ、特にステフが関わるとこの家族は狂ってしまうだろう。
いや、もう狂っているのか。
じゃなきゃ、あんな過保護な保護者は見たことない。
植木を伐採しようかと歩き出した時、玄関から出てきたアンソニーを目にした。
部屋に籠ってばかりのお坊ちゃんが……と思ったが、後々面倒になるので口には出さないでおく。
「これはこれは、お坊ちゃん。何か用ですかい?」
すると、無表情のままこっちに真っ直ぐ歩いてきた。
「道具を見せろ」
「へぇ、お坊ちゃんも庭弄りがご趣味で?」
珍しい事もあるものだ、自ら汚れ仕事とは。
「それならお前はここにいないな」
「そいつはご尤も。どうぞ、ご自分でお探しになってくだせぇ」
しかし、お坊ちゃんの気まぐれに構っていられるほど暇ではない。
俺はただの庭師らしく自分の鳩尾に右手を添え、左手で小屋へ行くよう促した。
足早に小屋へ向かっていった事から、どうやらこれで良かったらしい。
たまには勘も当たるもんだと思いつつ、どこの木から剪定しようか見て回った。
暫く屋敷の正面から見て右側に向かって歩いていると、地面がキラリと光った。
屋敷の壁際に見えたその光は、近づくにつれ輝きが増えていく。
「おっと」
あと少し足を引くのが遅れたら、今頃は濡れ鼠になっていただろう。
そこには5m四方の深めの池があったのだ。
水面を雑草や枯れ葉などで覆われていたが、微かな隙間から日光を反射していたらしい。
こんな所になぜ、という疑問もあるが、富豪の考える事は庶民には分からないものだ。
これも掃除しなきゃいけないか、と考えるだけでも少し疲れてきた。
今しないにしても、こんな所に池があるなんて誰も気づかない。
もしそこにステフが落ちたとすれば……俺の首はすぐに吹っ飛ぶだろう。
ざっと見た所、水面の枯れ葉や覆ってる雑草はすぐに出来そうだ。
剪定は後回し、危険なこの池から片付けよう。
俺は軍手を外し、念の為持っていたゴム手袋に付け替えた。
持っていて良かった。こんな所を素手で掃除するなんてとんでもない。
作業は素早くしなければ、日が暮れ始める前には終わらせたい。
ホラー映画みたいに恐ろしい死に方をするのはごめんだからな。
ただただ、雑草を引き抜いていく。
剪定用に持ってきていた大きな袋が役に立った。
昨日の芝刈りで落ちなくて本当に良かった。
何しろ、長い間放置されてたんだ。
どんな生き物がいるか分かったもんじゃない。
網で掬える程度のものだったら良いんだが……。
まだ底まではっきりと見えない為、少しずつ不安が積もる。
「こんなもんか」
ようやく一段落したので、立ち上がって池を眺めてみた。
水底に色々へばり付いている物を除かなくとも、だいたい1mぐらいの深さがあるだろう。
こんな所にステフが落ちたら一溜まりもないだろう。
あの子はまだ泳ぎ方も水の浮き方も教えられてない。
泳ぎ方を教えなくとも保護者がその場にいれば良いと思ってる主人たちの慢心と、それでは意味を為さない事が分からない視野の狭さ。
《親は子を破滅させる》
Parents will ruin the child
まさにあの親子にピッタリの言葉だろう。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
「ちょっと、聞いてよ!」
「どうしたの?クレア」
「ケインったらひどいの!私の事”おチビちゃん”って呼ぶのよ!」
「それはひどいわ、イヤな子ね」
そこで楽しそうな会話は途切れた。
場所は2階の1室、ステファニーの部屋からだ。
そこでは寝台に座り込んだステファニーが、可愛らしいぬいぐるみを抱えてままごとをしていた。
しかし、1人ではどうしてもつまらなくなり、すぐに飽きてしまう。
今もまた、何度目かの飽きた時間だ。
ふかふかの布団に埋もれる様に身を預け、天井をじっと見つめながら少し考えこむ。
そして、ぽつりと呟く。
「お屋敷の中を探検しちゃおうかな」
兄さんには明日までダメだと言われたけれど、待ちきれないんだもの。
きっとそう言ったら許してもらえるわ。
こんなに待たせた兄さんも悪いんだから。
お気に入りのぬいぐるみを抱え、そっと自分の部屋から出たステファニー。
きょろきょろと周り見て、大人がいない事を確認する。
探検はドキドキして、それからワクワクする事も大事なのだ、と彼女はよくアンソニーに言う。
注意したり、制止する大人がいたら楽しめない。
好奇心旺盛な年頃である為、仕方ない事なのかもしれない……。
得てして、こういった目先の”気になる事”に夢中になりすぎて、大きな失敗に繋がるのは物語の定番。
当然、
パタパタとかけ足で向かったのは、2階の一番奥にあるアンソニーの部屋。
もう手書きの地図を書いて、机かどこかに置いてるのかもしれない。と、ステファニーは思ったのだ。
小さく音を鳴らしながら扉をゆっくりと開き、中の様子を窺った。
「兄さんはいないみたい……?」
ここにアンソニーがいてもいなくても変わらない、と言う様に部屋へ入り扉を閉めた。
自分の部屋に置かれた家具と比べ、飾り気のない大きくてシンプルな家具に圧倒され、少し屈みながら壁際をゆっくり歩く。
静かにする必要はないが、ステファニーとしてはこれが1つの冒険である為、緊張感を自分で作っているのだろう。
ゆっくり、一歩ずつ、アンソニーの足の長い書き物机に近寄る。
椅子にそろりと座り机を見ると、昨日来てすぐにアンソニーが書いていたメモを見つけた。
書いてある文字はステファニーには読めないが、逆にそれが探求心を膨らませた。
手書きのフリーハンドな屋敷の間取り図、矢印風の線の先には走り書きで書かれた文字。
隠された宝の地図の様で、ワクワクしてきたステファニー。
跳ねるように椅子から降りると、足取り軽やかに部屋を出て行った。
半開きになったままの扉が、風で微かに動いている。
一部屋ずつ順に全て見て回っては何日もかかると思ったステファニーは、線で引いて文字を書かれた場所に行ってみる事にした。
最初に行ったのはダスティンとディアナの寝室。
足音を立てよう、ゆっくりと扉に近づき、少しずつ開く。
部屋の中ではダスティンが電話で仕事の話をしていた。
はっきりとは聞こえないが、落ち着いた口調で話している。
仕事の邪魔をしてはいけない。と思ったステファニーは、またゆっくりと扉を閉めた。
次はどこへ行こうか。と辺りを見回してみると、一番端で光がよく当たっている部屋の扉が開いていた。
アンソニーの図では何も印付けされてなかったが、ステファニーの好奇心はコロリとその部屋へと転がった。
瞳を輝かせて、何か不思議な事があるんじゃないか、と部屋に駆け込んだ。
部屋には淡い色合いの家具ばかりが置かれ、木製のベビーベッドが置かれていた。
傍らに今まで見た事のない女性が座っており、ベッドで眠る赤ん坊を優しく見守っていた。
女性がステファニーに気づくと、そっと人差し指を唇に当てた。
それにつられて、ステファニーは両手で口を覆った。
そして女性が静かに笑い、口をパクパクさせて伝える。
「は、じ、め、ま、し、て」
しかし、ステファニーには伝わらなかったらしく、分かった風に頭を縦に振るだけだった。
その仕草が可愛らしかったからか、女性は口もとに手を当てて笑った。
ステフも一緒に笑いそうになったが、廊下の向こうから誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
それじゃあ、とステファニーは女性に手を振って立ち去る事にした。
女性はまた口をパクパク動かす。
「ま、た、あ、と、で、ね」
そう言ってニコニコと手を振った。
またもやステファニーには伝わらなかったが、こくりと頷いて部屋を出た。
廊下にはディアナがおり、ステファニーを見つけるとふわりと笑った。
「あら、そんな所にいたの?」
「えぇ、とても楽しかったわ!」
「それは良かったわね。さぁ、お夕食の時間よ」
と階段を下って行った。
実はステファニーが見つけた間取り図には、2階を少しだけしか書かれていなかった。
その為、ほとんど地図を見ずに屋敷中を見て回っていたが、その事に探索が終わるまで気づかなかった。
子供らしい探求心も解消され、その日はとても満足したのだろう。
夕食が終わると大きな欠伸をしながら、ディアナに手を引かれて自室に戻っていった。
眠る前によく「本読んでくれないと寝ないから!」と、ディアナとスザンナを困らせるものだが、今日はとても寝付きが良いらしい。
布団に入るなりすぐに寝てしまった。
「それじゃあ、今日は早く眠れそうね」
スザンナに軽く笑いかけながらディアナは言った。
それに少し緊張した様な顔持ちでスザンナが頷く。
ベッドからそっと離れ、静かに部屋から出る。
ディアナは廊下を歩きだそうとしたスザンナに声を掛けた。
「ねぇ、もし気のせいだったらごめんなさいね……」
と前置きを言い、言葉を続けた。
「何かトラブルでもあったのかしら……?」
その言葉を聞き、一瞬だけハッとした顔をしたが、すぐに顔を曇らせた。
「いえ、何も問題ありません。大丈夫です」
「本当に?今日1日ずっと暗い顔していたけれど?」
「そ、そうですか?気のせいでは……」
白々しく目を逸らして誤魔化し続けるスザンナに痺れを切らしたのか、少し寂しそうな顔で小声で呟いた。
「そんなに頼りないかしら」
それを聞き取れなかったスザンナは口籠りながら、何か返事しようとしたがディアナは頭を横に振った。
「いいえ、何でもないわ」
その顔は綺麗で、とても悲しげだった。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
またわたしは辺り一面真っ暗な所に立たされていた。
そして昨日と同じように、闇の中でわたしに話しかける声を聞いた。
でも、今日の声はおじいちゃんじゃなかった。
「こっちよ、こっちへおいで……ステファニー」
とても優しい声だけど聞いたことはない。
たぶん女の人、知らない女の人の声。
「おいで、ステファニー……」
暗闇の中で反響してるみたいに、声が色んな方向から聞こえてくる。
どうしてわたしを呼ぶの?
「あなたは誰なの?」
ただただ真っ暗な場所に話しかける。
わたしは少し不安になったから、自分の手をギュッと握る。
すると、また声が聞こえてきた。
「ステファニー、こっちだ。おじいちゃんだよ」
おじいちゃん……の、声?
昨日夢の中で聞いたおじいちゃんの声そっくりだ。
そして暗闇に光が見えた。
「おじい、ちゃん?」
少し間を置いて、光がチカチカと瞬きだした。
「そうだよ。さぁ、おいで」
声に合わせて瞬くその光は、昨日見たままだ。
きっとこれはおじいちゃんなんだわ。
「おじいちゃん、どこにいるの?」
知らない女の人より安心できる。
暗闇で光は見つけやすいかもしれないけれど。
私は物を見つけるのが下手だから、教えてくれないとわかんない。
「こっちだ、こっちだよステファニー」
視界の端に光がチカチカとしたのが見えた。
光が消える前に急いで駆け寄った。
「そうだ、こっちにくるんだ」
少し口調が厳しくなった気がした。
気のせいかもしれない、足は止めずに光に向かって走る。
「良い子、良い子だ」
あれ、おじいちゃんってこんなに怖い声だったかな。
どうして怒ってるの?
「そうだ、もっと近くに」
少し怖くなって一歩ずつ近づく事にした。
本当におじいちゃんなの……?
「どうした、ステファニー。おじいちゃんだぞ」
瞬く光が早く鋭くなっていく。
「怖い、怖いよおじいちゃん」
そう呟いた瞬間、わたしの目の前に恐ろしい顔が現れた。
顔が風船みたいに膨れ上がり、目玉もピンポン玉みたいになった顔。
そして、真っ白な肌と口や鼻から垂れる液体、腐った牛乳みたいな匂いで鼻が曲がりそう。
ぷっくりと浮腫んだ唇がパクパクと動く。
その動きをわたしは見た事がある。
あの部屋で会った女の人、きっとそうだわ。
あんなに綺麗な顔がこんなひどい顔になるの……?
女の人がパクパクと口を動かす。
今度は声がはっきり聞こえる。
「アランを知っているな、アランは知っているのか?」
音が反響して聞こえるその声は、聞きとりづらいけど何とか分かった。
でも……
「アランって……誰?」
そうしたら目の前の怖い顔が、わなわなと震えだし頭が痛くなるような声を上げた。
突然のことでパニックになってしまいそう。
「ありえない、ありえないぃぃ!!」
怖い、怖いよ。
まだ目は覚めないの?
「ステファニー、嘘はよくない」
嘘……?
わたし嘘なんてついてないわ。
「だって本当に知らないんだもの!」
「アランなんて知らない!!」
しばらくの間、シーンと静かになった。
それから最初に声を出したのは目の前の顔。
「そう、ステファニーも知らないのね」
気がつくと目が覚めていた。
勢いよく起き上がると、少し眩暈がした。
あの夢は、ママとパパには内緒にしよう。
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