第四十八話:決戦の刻

 ギャラリーの見守るなか、一本目の走行が終了する。

 タイムが出るまで順位その他は確定しないが、手応えだけは十分にあった。

 少なくとも、これまでのジムカーナ経験で一番の走りができたと思う。

 容赦なく踏みつけたアクセルペダルと、パイロンギリギリをカットする最適のライン。

 ブレーキングもほぼベストと言い切れる出来で、自画自賛じゃないが、いまの俺が出せる実力のうち、九割五分は発揮できたと自信をもって断言できた。

 ゴールラインのその先でクルマを停め、ひと息ついてからヘルメットを脱ぐ。

 パドックへ向かうのは、それからのことだ。

 会場内は確実な徐行。

 名物MCの実況を片側の耳で聞きながら、俺は愛車を進ませた。

 確保してあったスペースにバックで入れ、きっちりとサイドブレーキを引く。

 全開を経験したエンジンは、しばらく止めずかけっ放しだ。

 帰還の完了。

 幸いなことに、次の出番二本目の走行までにはまだ相当の余裕がある。

 改善策を練る時間は、十分すぎるほどに確保できてた。

 本来のG6ジムカーナは、二本ある本走行のその前に、一本だけだが練習走行が許されている。

 いきなり本番に臨むのと比べ、実走行での確認が行えるそのプラスワンは、俺らみたいなルーキー勢にとって実にありがたい設定だ。

 だが参加台数の多い今回は、その練習走行分がまるまる全部省かれていた。

 言うまでなく、余裕を持った競技時間をきちんと確保するためだ。

 開催者側からすれば、それは仕方のない対応だと言える。

 でも同時にそれは、実走に基づいたセッティングの調整が、ただ一回しか行えないことをも意味していた。

 すべてを賭けるべき二本目の走行。

 当然ながら、失敗なんて許されなかった。

 否が応にも高まる緊張。

 扉を開けてクルマから降り、しばし思考を巡らせる。

 気温が上がり路面温度も上昇すれば、タイヤの食いつきは自然発生的に向上する。

 だとしたら二本目のタイムは、ほとんどのエントラントがベストを更新してくるだろう。

 セッティング調整の効果とも相まって、その可能性は非常に高いものだった。

 そんな連中に先んじるため、いまの俺ができることとはなんだ?

 タイムを削れる手段はないか?

 走行ラインの無駄はないのか?

 前後のタイヤの空気圧は?

 様々な自問が、脳内血管を最大速度で駆け巡ってく。

 だが率直な答えは提示されない。

 あたりまえの話だ。

 孤影を見詰めてそれに問う。

 たとえ答えは出なくても、そうしなくては足を踏み出すことなどできない。

 もっとも、孤独に悩む子羊に唐突な福音が訪れたのは、それからすぐのことだった。

「お疲れさま。なかなかいい感じだったじゃない!」

 ハスキーボイスが近間で弾ける。

 顔を上げた先では、両手に缶ジュースを持った薫子が文字どおり満面の笑みをこしらえていた。

 そしてその傍らにもうひとり、見慣れた顔を俺は認める。

「悟さん!」

 予想してなかった援軍の登場に、俺は両目を輝かせた。

 それは想い人の実兄でありチューニングショップ「トレジャー・レーシングサービス」の代表でもある、大橋悟さんそのひとであった。

 悟さんは、実の妹である薫子の愛車・DC-2型「インテグラ・タイプR」を競技車両としてきっちり仕上げ、G6上位にこれを食い込ませてきたという実績のあるメカニックである。

 当然のことながらジムカーナ競技にも造詣が深く、その助言には専門家としての重みがあった。

 過去のG6においても、その口から随時的確なアドバイスを貰えたなら、どれほど心強かっただろう。

 だが正直、そこまでしてもらえる間柄だとは思ってすらもいなかった。

 悟さんにとって、俺は単なる新参の客だし、何よりも自分の可愛い妹の明確な「敵」でもある。

 だから俺は、リアルタイムでの彼の助けを心のどこかで否定していた。

 まったくもってありえないことと、その可能性を除外していた。

 にもかかわらず、そうした前提が、いまはっきりと覆ったのである。

 恐らくだけど、薫子の奴が連れてきてくれたんだろう。

 反射的に喜びの声を俺は放つ。

「来てくれたんですか!」

 どういうわけだか、ネガティブな予想が頭を過ぎることなんてなかった。

 現実的に考えたら、単にギャラリーしにきただけ、なんて可能性のほうが断然高かったこと疑いない。

 手前勝手なぬか喜びに失望する割合のほうが、ずっと大きいはずだった。

 だがしかし、そんな若造の希望的観測を、悟さんは全肯定で受け止めてくれた。

「まあね」

 照れ笑いとともに彼は言った。

「可愛い妹にお願いされたら、兄として断るわけにはいかないよ。ましてやそれが、義理の弟になるかもしれない君の助けになるとあっては、これはもうなおさらのことさ」

「義理の、弟?」

 そのセンテンスを聞いた俺の脳裏に、ほんの一瞬、困惑が走った。

 だがそれは、あっというまに消え失せて、別の理解に変化する。

「プロポーズの話、薫子から聞いたんですか?」

 忌々し気に俺は尋ねた。

「あいつ、なんでまた軽々しくそんなことを──」

「知られて困ることじゃないでしょ? いずれはバレることなんだから」

 その遣り取りに女神の舌が介入を果たす。

 あっけらかんとした口振りで、彼女は俺に抗議した。

「それともなに? あの日あたしに言った台詞は、口から出まかせだったってこと?」

「んなわけねーだろッ! 莫迦にすんなッ!」

 拳を握って俺は怒鳴った。

「俺はだなッ! 惚れたオンナにウソはつかねえッ! 約束どおり表彰台に登った暁には、ふたりそろって結婚指輪のショッピングだッ! 雨が降ろうが槍が降ろうが、何があろうがおまえの姓をゼッテー『楠木』に変えてみせるからなッ! おとなしく首を洗って待ってやがれッ!」

 自覚してない爆弾発言。

 おおッ、という驚愕をともなった周囲の視線が光の速さで集中する。

 いやこの場合は、背中一面に突き刺さったと言ったほうが正解か。

「け、結婚指輪って?」

「マジかッ!」

「俺たちの薫子姫が、あんな小僧にッ!」

「あのガキ……あとで〆てやらんといかんな!」

 オトコどもの物騒な呟きが、至るところで噴出する。

 だがしかし、そうした現実に俺が気付いたのは、薫子と悟さん、目の前の二人のドン引きした様子を直接認めてからだった。

「あ……いや……その、だな……」

 おのれ自身の大胆不敵に圧倒され、あたふたと両手を広げるみっともない俺。

 「いまのは本気だけど、本気でないというか……いや間違いなく、胸を張って本気なんだが……」などと、意味不明に近い言葉を取りとめもなく流してしまう。

 そいつを阻止してくれたのは、女神の放った咳払いひとつだった。

「え~、コホン」

 もったいぶってあいつは言った。

「圭介くん。その話は、また今晩にでもゆっくりしましょ。いまはとりあえず競技の話に集中しなきゃ」

「ま、まあそういうことらしいから」

 苦笑いを浮かべつつ、悟さんが会話を受け継ぐ。

「次の出走までに、僕の経験で君のクルマをリセッティングする。外から見てただけでも、気になるところがいくつかあるんだ。そこを直して走りのほうを合わせれば、タイムアップは十分以上に望めるよ」

 「ちなみにタイムは?」と尋ねる俺に、俺の女神は「一分七秒六五三」と返してきた。

「三位が七秒六四四だから、いまのところはコンマゼロゼロ九秒落ちの四位ね」

「そうか」

 左手に右の拳を打ち付けた。

「てーことは、表彰台が見えて来たな」

「見えてきたどころか、完全に射程距離内よ」

 薫子の奴が、そう太鼓判を押す。

「今回のためだけに新品タイヤを奢ったのが、無駄にならずに済みそうね」

 そう。

 俺の女神が言うとおり、今回の決戦に向け、俺はタイヤを新調した。

 それも、競技関係で評判のいいブリジストンの最新型ハイグリップである。

 そいつをわざわざホイールと合わせ買い。

 無駄な消耗をしないよう愛車に乗せてここまで運び、会場入りして履き替えた。

 つまり、軽く街乗りは経験させているものの、ほぼまっさらな新品状態を維持したままの形ってことだ。

 言うまでもなく、この手のタイヤは新しければ新しいほど高い性能を発揮する。

 たとえそいつがコンマ一パーセント以下のレベルであっても、百分の一秒を削りあうモータースポーツの世界にあっては勝敗を分ける要因になりかねないのだから、手を抜くことなんてできるわけなかった。

 いまの俺に言わせるなら、本気で勝負に挑む者の、そいつはまさしく「たしなみ」に近い。

「ひとりの男として、おまえとの約束を破るわけにはいかねえからな」

 やや自慢げに俺は言った。

「カネで解決できることなら、出費を惜しんだりしねえよ」

「御大尽ねえ」

 その発言に薫子が答える。

「その割には、クルマを乗り換えるって選択肢だけは眼中になかったようだけど」

「当然さ!」

 胸を張る俺。

「見晴峠での雪辱戦。あれは俺だけの問題じゃなく、相棒パルサーの問題でもあるからな。テメー勝手な俺だけの都合で、こいつを見捨てたりはしねえさ!」

「ほんと。めんどくさいのね、男の子って奴は」

 言いながら、俺の女神は肩をすくめた。

「でも、擦れた大人になられるよりは、そっちのほうが断然魅力的かもね」

「安心しろ、薫子」

 俺はズバリと言い切った。

「オタクがオトナになることなんざ、絶対にない!」

「それはそれで困りものだけど」

 俺と想い人との夫婦漫才みたいな掛け合いはそれから間もなく終了し、続けざま、悟さんの手による「パルサー」のセッティングが開始された。

 悟さん曰く、俺の走りは、やはり思い切りのいいアクセルオンこそが魅力らしい。

 それゆえ、下手にコーナーワークを小細工するより立ち上がり加速を重視したほうがタイムに好影響がでるんじゃないか──とのことだった。

「リア側の減衰を二段階ほど柔らかくして、トラクションの掛かりを良くしてみよう」

 悟さんはそう告げて、素早く作業を開始した。

 彼の狙いは、おおむねこうだ。

 リア側サスペンションの減衰力を柔らかくすれば、その分、後ろ側のロールスピードが速くなりタイヤが路面に追従しやすくなる。

 四輪駆動の「パルサーGTI-R」の場合、そうすることで若干アンダーステア気味曲がらない設定にこそなるが、反面、立ち上がりの姿勢が安定するのでより大胆に踏めるはず。

「タイトコーナーに進入する時、気持ち小さめに回ってから大きくアクセルを踏めばいい」

 軍師としての悟さんが、俺に向かってそう語った。

「特に序盤の8の字を脱出する際は、一本目より早めにアクセルオンにしていい。動画を見てる限り、リアが滑りそうになっててアクセルオンが遅れてる。さっきの調整でそのあたりの挙動が解決されてるはずだから、僕を信じて思い切り行って欲しい」

「わかりました」

 専門家のアドバイスに、俺は大きく頷いて見せた。

 俺の一本目の走行は、薫子と悟さんの手によって、二方向から動画撮影されていた。

 今回のアドバイスは、それを見ながら行われたものだ。

 なお、この「G6ジムカーナ・フェスティバル」における走行レイアウトは、前回ここに来た時と極めてよく似たそれだった。

 スタート地点を発進したクルマは、そのすぐ先で右ターン。

 低速区間で8の字を一周半して立ち上がり、会場の外周を逆時計回りに半ばまで突進。

 そこのパイロンを左ターンしてから会場内部に進入し、奥に置かれたパイロンで右九十度ターン。

 その先にあるパイロンをサイドターンでクリアしたのち、直前に通過したパイロンを今度は左九十度ターンして外周に復帰。

 会場内に設けられてる小山の部分を通過して、そのすぐ先でフリーターン。

 再度小山を上り下りしたのち、今度は、続けて現れるクランクゾーンを左右右左。

 最後に置いてあるおにぎりをぐるりと一周してから、立ち上がりつつゴールラインを割るっていう配置だ。

 明確に「曲がらないクルマ」である俺の「パルサー」にとって、わかりやすいネックとなっているのは、序盤にある8の字とゴール直前に置かれたおにぎりの処理。

 逆に言えば、そのあたりを上手くクリアしさえすれば、その他の部分じゃほかのクルマに見劣りはしない。

 だとすれば、タイムを削るポイントだって、はっきりしてるというものだ。

 悟さんと薫子からの作戦指導を動画を見ながら繰り返し聞かされ、その合間を使って腹ごしらえをする。

 絶世の美女ファム=ファタールがこしらえた、ボリューム満点のハンバーガー。

 歯応え十分のそれに思い切り被り付きつつ、俺の頭脳は、着実に戦略パターンを構築していた。

 ほとんどのドライバーが勘違いしてるけど、そもそもモータースポーツって奴は、反射神経がでかい顔をする競技なんかじゃ絶対にない。

 恐らくは夜の峠もそうなんだろうけど、知識と経験、それに加えて身に着けた戦い方が大きくモノを言う戦場なんだ。

 この数か月、そうした現実を、俺は薫子との付き合いで学んだ。

 そして、奴と出会う以前の俺とはまったく違う俺として、俺はいま戦いの場に身を置いている。

 変な話、別人として生まれ変わったんじゃないかと尋ねられても、頷く以外の反応はできないだろう。

 それくらい、俺の変化は甚だしかった。

 そのことを自覚し、反芻し、何度も何度も噛み砕きながら、午後一番の慣熟歩行に臨む。

 女神と軍師を左右に配し、贅沢極まる実地確認をおのれの足で堪能した。

 妬みと嫉みを多量に含んだ有象無象の眼差しなんて、少しも気にはならなかった。

 そんなノイズを気にする隙など、微塵も準備してなかったからだ。

 やがて、「G6ジムカーナ・フェスティバル」における二本目の走行枠が開始された。

 コンパクトカーを主力とするクルマの群れが、戦いを前に闘志を剥き出す。

 だが、俺の出走までには、まだ相当の余裕があった。

 その間を無為に過ごすことも、あるいは可能であったろう。

 だけど、猛る気持ちがその贅沢をなかなか許してくれなかった。

 「休むのもパイロットの仕事だ」という古来からある金言も、価値あるものとは思えなかった。

「下手の考え休むに似たり、よ」

 いきり立った俺の耳元で、ほんわかとハスキーボイスが囁かれた。

「茹で上がったオツムじゃ、かえって良いアイディアは浮かばないわ。三十分前には起こしてあげるから、ちょっとだけでも仮眠を取ったら?」

「そうだな」

 女神の助言に俺は応えた。

「お言葉に甘えて、少し眠らせてもらうよ」

「殊勝な反応、実に結構」

 リクライニングさせた助手席に身を横たえる俺に、薫子の奴が艶っぽく告げる。

「初めて会ったその日から、君の努力はいっぱい見てきた。君ならできる、なんて無責任なことは言わないけど、君は自分の実力を信じてもいい。君がこれまで培ってきた日々は、夢幻むげんみたいなものじゃない。だから自信を持って。いまさらだけど、練り上げてきた自分の力を心の底から信じなさい。結果は必ず、そのあとについてくるものだから」

「俺のクルマはホンダじゃねーぞ」

 薫子の言に俺は応えた。

「だから、『夢幻MUGENみたいなものじゃない』なんて言われても、そりゃそうだとしか言いようがねーな」

「茶化さないの。こっちは真面目に言ってるんだから」

「ありがとう。がんばるよ」

 真顔になって返事する俺。

 菩薩の笑みで薫子が頷く。

 眼を閉じてふわりと眠りに就く直前、柔らかい何かが左の頬に接触したよう思えたのは、仮初の睡魔が見せた気のせいだったんだろうか?

 弛緩した肉体が、やんわり深淵に落ちて行く。

 自覚している以上に、俺の心身は疲労していたようだ。

 意識が飛ぶのは、それこそあっというまの出来事だった。

 次に目覚めた時は、生涯を賭けた決戦の刻。

 そこで結果を必ず出して、新しい人生に大手を振って踏み出すんだ。

 それも、これまでみたいに独りで、じゃない。

 共に歩いて構わないとさえ信じる、運命のオンナと二人で、だ。

 そんな妄想みたいな現実が実際に待ち受けてたからだろうか。

 俺は夢を見ることもなく睡眠を終えた。

 いや、違う。

 ルーフを叩くドラムの連打に、強制的に目覚めさせられたのだ。

 なんだ?、と思い、身を起こす。

 眼をしばたたかせながら、窓の外へと視線を移した。

 そして見た。

 見てしまった。

 何をかって?

 激変しつつある天候を、だ。

「雨……」

 慌てて助手席の扉を開け、外の世界に飛び出す俺。

 見上げた空は、もう鉛色の雨雲が低く立ち込め、大粒の水滴を、いままさに大地めがけて降り注ごうとしていた。

 先に感じたドラムの連打は、その先兵が落下した際に立てる小気味のいい衝突音だったってことだ。

 時間は……俺の出走一時間前。

 まだ本降りでこそないものの、雨脚が弱まる気配はこれぽっちもない。

 会場内はすでに全面がウェット状態と化し、走行中のクルマたちも、パイロンめがけてどこか諦めがちな攻め方をしていた。

「なんてこった」

 参加者のひとりがそんな風にごちたのを、俺の鼓膜が迅速に捉えた。

「こりゃあ、一本目のタイムで決まりだな」

 その感想は当然だろう。

 ドライ路面で出されたタイムをウェット路面でのタイムが上回るだなんて、よほどのことがなければあり得たりするもんじゃない。

 ということはつまり、この状態で行われる二本目の走行枠は、大多数のエントラントにとって、ほぼ完全な消化試合になっちまってるってことだ。

「嘘……だろ?」

 強まる降雨に身を任せ、俺はその場で立ちすくんだ。

 朝の天気予報じゃ、今日の天候は「曇り」

 降水確率は、せいぜい二割から三割の数字だったはずだ。

 そりゃ確かに、二割三割はゼロパーセントってわけじゃない。

 でもさすがに、それがこれほどの雨天に変わるだなんて想像すらもしてなかった。

 青天の霹靂とは、まさにこのこと。

 後頭部を殴られたみたいな衝撃を受け、俺は言葉を失った。

「圭介くん……」

 数秒後。

 聞き慣れたハスキーボイスが俺の背中せなから放たれる。

 いかにも恐る恐ると言った雰囲気だった。

 振り向いた先に、複雑な表情をした薫子が悟さんと並んで立っていた。

 二人とも傘を差さず、俺と同じように肩をしとどに濡らしている。

「まさか、こんな状況になるだなんて……」

 言い難そうに女神が言った。

 その横で、悟さんの目が妹の意思と同調している。

 二人の言いたいことはわかっていた。

 細かいニュアンスこそ異なるんだろうけど、要するに「この『G6ジムカーナ・フェスティバル』において順位の入れ替えはもう起こらない。残念だけど勝負あった」ということなんだろう。

 俺だって、客観的な目で見ていたら同じ結論を導いたはずだ。

 寄りによって、この大切な刻に、このタイミングで──…

 普通なら、天を呪いたくなること請け合いである。

 そう。

 午前中枠の俺の順位は枠外の四位。

 それはすなわち、このままじゃ俺が表彰台に登るのは無理だという結論に直結している。

 そしてそいつは要するに、この俺が薫子との、最愛のオンナとの約束を反故にするという現実とも、完全無欠にイコールとなるのだ。

 俺の人生の再スタート──…

 俺の人生の新しい門出──…

 俺の人生の──…

 俺の──…

 俺の──…

「嫌だ!」

 濡れネズミになりながら、俺の唇が言葉を紡いだ。

「冗談じゃない!」

「えッ?」

 何事かを察した薫子が、二三歩駆け寄り俺の目を見た。

 そんな女神の双眸を、俺はまっすぐ見詰め返す。

 想い人に台詞を発する隙なんて与えなかった。

 先んじて、俺はきっぱり宣言する。

「冗談じゃないぞッ!」

 身体ごと向き直り、渾身の力で握り拳を形成した。

「ウェット路面がなんだッ! 喧嘩は下駄を履くまでわかるもんかッ! あの日の夜、俺はおまえと約束したッ! この大会で必ず表彰台に登って、おまえと一緒の人生を歩むんだって、面と向かって約束したんだッ! だから、俺は諦めないッ! 絶対に、諦めたりなんてするもんかッ!」

 そうだ。

 俺は断じて諦めるわけにはいかなかった。

 自分の意志で、戦いもせず膝を屈する。

 挑みもせずに、あっさり白旗を掲げて見せる。

 ルビコン川を前にして、肩を落として踵を返す。

 そんなみっともない真似を、俺は認めるわけにいかなかった。

 絶対に認めるわけにはいかなかった。

 だから叫んだ。

 不退転の思いを、血を吐く勢いで宣言した。

「見てろ、薫子ッ! おまえのオトコがどれほどのものか、これからたっぷり見せ付けてやるッ! これ以上もない負け戦からの大逆転だッ! カッコいいだろ!? 滅多に味わえねえ、美味しすぎるシチュエーションじゃねえかッ! 今日これから、俺はおまえの、おまえだけのヒーローになって、一生忘れられねー語り草になってやるッ! いいか、薫子ッ! おまえがこれからやるべきことは、未来の夫が表彰台に登るのを、黙って見詰めることだけだッ! 安心しろッ! この楠木圭介が、有言実行のなんたるかって奴を、その目に焼き付けてやるからなッ!」

 支離滅裂な言葉の羅列。

 自信過剰な台詞の奔流。

 正直な話、自分でも何を言ってるのかわからないほどだった。

 勢いしかない気持ちの爆発。

 感情でしかない勝利宣言。

 しかしながら、女神はそれをわかってくれた。

 大きな瞳を輝かせ、乙女の笑みをこしらえてくれた。

「そうね」

 弾ける口調で彼女は言った。

「あたしが君を信じなきゃ、誰が君を信じるのよッてところよね」

 濡れた前髪を掻き上げつつ、薫子はいつものテンポで返してくれた。

「タイムアップは任せたわよ。帰ってきたら歓迎式典で、熱々のごちそうとノーブラノーパンが君のこと待ち構えてるから、気張って行ってらっしゃいな」

「おうッ! 任せとけッ!」

 胸を叩いて俺は吠えた。


 ◆◆◆


 それから出走までの間、俺は悟さんからのアドバイスを受け、ウェット路面での戦術を練った。

 悟さんも「パルサー」のセッティングを頑張ってくれ、やれることはほとんどすべてをやりきった。

 そして、遂に訪れた出走の刻。

 俺は、自分の力を百二十パーセント出し切った。

 自惚れなどではなく、客観的にそう評されるだけの走りをした。

 ありとあらゆるパイロンをそれこそ力の限り攻め、たったひとつのミスもなく、全行程をクリアした。

 それは、俺の人生において最大密度を計測した時間帯であった。

 アドレナリンが血管を駆け抜け、一秒ごとに自分が進化しているという実感が湧いた。

 猛る愛車と一体化した、ドライバーとして最良の折り。

 恐らくだが、もう一度やってみろと言われても再現するのは不可能だろう。

 それぐらい、俺はすべてを吐き出した。

 ありとあらゆる実力を、一滴残らず絞り出した。


 だがそれでも──…


 俺は、午前のタイムを更新できなかった──…


 薫子との約束を、守ってやることができなかった──… 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る