第二十六話:悪夢との再会

 今回薫子に申し渡された罰ゲームは、拍子抜けするくらいに常識的なものだった。

「来週末の夜、あたし、君を道連れにひと晩中遊んじゃうから、その支払いのほうをお願いするわ」

 G6の会場イオックス・アローザをあとにする際、あいつは俺に向かってそう告げた。

 どういうわけかその時の奴は、この上もないほど上機嫌だった。

 もちろん、遠慮の色などはこれぽっちも見られなかった。

 普通なら、図々しいことおびただしい、そんなレベルの要求のはずなのにだ。

 だが俺は、その要求をふたつ返事で受け入れた。

 奴の注文に、文字どおり文句のひとつも付けなかった。

 それがあいつとの約束だったっていうのは、当然ながら最大の理由だ。

 でもそれ以上に、この時の俺がまるで浮き足立ってしまっていたってことのほうが、事の謂われとしては大きかった。

「ふん、その程度か」

 腕を組み、轟然と胸を反らせて俺は言った。

「たかだか一夜の飲み代ごとき、この俺がいっくらでも受け持ってやるぜ。当日は、大船に乗った気持ちでノーマネーで出て来やがれ」

「それはそれは頼もしいこと」

 ニヤリと笑って薫子が答えた。

「じゃあお言葉に甘えて、あたし当日、お財布持たないで来るわね。と~ぜん、最後の最後まで君の財力に頼っちゃうから、エスコートのほうはお願いね」

「ああ、男に二言はねえや!」

「その言葉、信じてあげる。光栄に思いなさい」

 結局奴との会合は、言われたとおり金曜日の夜に決まった。

 待ち合わせ場所は歓楽街の外れにあるコンビニエンスストアの真ん前で、時間のほうは午後八時。

 正直言うと、夕飯時としては、かなり遅めの時間帯だと思う。

 とはいえ、それも仕方のない話だった。

 現役の医者、それも産婦人科医という激務の職にある薫子なのだから、タイムスケジュールを常時市井の都合に当てはめてなどいられない。

 さすがの俺も、その程度のTPOはわきまえてるつもりだった。

 大通りに面した待ち合わせ場所コンビニ前

 休みの前ハナキンの夜ともなれば、クルマの量も多ければ道行くひとの密度も高い。

 約束した時間の十五分前にその場所へ到着した俺は、目立たないよう歩道の隅で、ぼけっとそれらを眺めていた。

 陽はとっぷりと暮れていて、目映い明かりが至るところで点灯している。

 それは、自然の摂理に大きく反した、ひとの手になる幻想いつわりの世界だ。

 路上を行き交うヘッドライトを背景に、綺麗な身なりの老若男女が自分の「時」を楽しんでいる。

 ふと、痛烈な疎外感が俺を襲った。

 どうしてなのかはわからない。

 ただ、どこからともなく吹き込んできた冷たい風が、俺の心臓を鷲掴みにしたんだ。

 俺は慌てて目線を逸らした。

 かなりのレベルで挙動不審な仕草だった。

 胸ポケットからスマホを取り出し、インターネットに接続する。

 検索したのは、自分の作品に関する情報だった。

 時間を潰すには、もってこいのアクションである。

 「アイタタタ」な指摘を目にすることも多いが、モチベーションを上げてくれるようなありがたい感想と遭遇する機会もまた、それ相応に多かった。

 某有名掲示板のスレッドを見付ける。

 内容は「ガロー」についてのものだ。

 あまり期待せずに目を通してみると、賞賛よりはのほうが多数派だった。

 だがそれは、およそ想定内の反応だった。

 「ガロー」そのものは俺にとっての自信作であるんだが、その出来に満足しているかと言うと、残念ながら否定の答えを出すしかない。

 特に手探りで描いていた序盤の展開。

 あのいかにもエロ漫画っていう部分に、いまさらながら不満の念を抱いていたのだ。

 機会があれば、あの部分を徹底的に描き直してみたい。

 そういう思いが、胸の奥から日々こんこんと湧き上がってきていた。

 創作者としては情けない限りなんだが、それこそが嘘偽りのない、いまの俺のホンネだった。

 セルフ突っ込みを入れながら、スレッドを読み進める。

 そうしているうちに、ひとつの書き込みに目が行った。

 短い批判の内容だった。

 曰く、「カオルゥが何考えてるのかさっぱりわからない」

 安心しろ。俺だって、あいつが何考えてるのかわからないんだ。

 顔も見えない投稿者に向け、心の中で俺は告げた。

 俺がカオルゥを描く時、その行動をシミュレートする基板として考えているのは、言わずと知れた薫子だった。

 「こういう時、あいつならこうするだろうな」「こういう時、あいつならこう応えるだろうな」などといろいろ思い浮かべながら、その中で一番それらしいものを選択する。

 わかりやすいモデルが近くに存在している分、描きやすいと言えば実に描きやすいキャラであった。

 だがその一方で、キャラの中身が作者に独占されてないって事実は、このカオルゥって登場人物を動かす際の確かな足枷になっていた。

 そう、俺が「薫子」というひとりのオンナを独占できてない以上、それを元ネタにした「カオルゥ=コー」というキャラクターを支配下に置くこともまた、ほぼ永遠に望めないものなのだ。

「めんどくせェよなァ、三次元のオンナって奴は」

 周りに聞こえないよう愚痴りながら、俺はスマホをポケットに戻した。

 待ち合わせ時間の五分前。

 これまでの経験によると、そろそろあいつが現れるころだ。

 背筋を伸ばして周囲を見渡す。

 通行人の数は相変わらずだったが、気持ち的には、もういい加減捌けてきてもおかしくない時刻だと思った。

 ふと見ると、少し離れた歩道の上に、やたらと華やかな一団がいた。

 お洒落な服装で武装した、リア充を地で行っている連中である。

 男女比は、おおむね三対一。

 人数は、十人前後ってところか。

 その先頭を肩で風斬り歩いているのは、髪の毛を茶色に染めた長身のオトコだ。

 悔しいことに、非の打ち所のないイケメンだった。

 さぞかしオンナにモテるだろう。

 事実、その左手には派手な格好のひとりのオンナが付属品みたいにまとわりついてる。

 一瞬だが、「芸能人?」と疑わんばかりの華だった。

 もちろん、そいつが気のせいだっていうのはすぐにわかった。

 奴らはおそらく、どこかの大学のサークルか何かの面々なんだろう。

 互いの距離が近付くにつれ、俺とさほど変わらない歳だっていうのがありありと見て取れた。

 俺は、その場から一歩下がって顔を伏せた。

 いまの俺とは絶対相容れないワールドと、あえて接触する道を拒んだのである。

 件の集団がすぐ前を通る。

 楽しげな男女の声が、嫌でも耳に届いてしまった。

 例えじゃなく、本心から怖気を感じる世界だった。

 暗く淀んだ冷たい空気が、たちまちのうちに俺を包む。

 笑顔溢れる青春の謳歌。

 思い出に残るキャンパスライフ。

 あるいは俺もその只中に踏み入ってたかもしれない、十九才の学生生活。

 しかしそうした感傷が、俺のハートを温めることはなかった。

 むしろ、まったくその逆だ。

 俺にはそう思えるだけの、強い確信があったのである。

 この俺がその恩恵を浴する機会など決してない。

 俺というオトコは、その恩恵から積極的に阻害されるべき人間なのだ。

 そうあることを、その恩恵の発信先から望まれてしまった、惨めで哀れな存在なのだ、と──…

 それは、他者から見れば被害妄想に近い思考だったろう。

 だが俺は、仮にそう指摘されたとしても、その了見を覆そうとは思わなかった。

 胸の奥にざっくりと刻まれた古傷が、痛みとともにそいつを許しはしなかったからだ。

 悪夢の端っこが、ゆっくりと俺の襟首に手を伸ばした。

 ブンブンと頭を振って、無理矢理そいつを払いのける。

 いつもならそれで終わっていた。

 それで終わっていたはずだった。

 だけど今日に限って、夢魔ナイトメアは俺の身体を真っ正面から抱きしめてきた。

 それは、ひとの形をしたリアルな魔物が俺の姿を捕捉ロックオンしたからにほかならなかった。

「ねえ卓也ァ あそこにいるの、ひょっとして楠木じゃない?」

 それは、聞き覚えのあるオンナの声だった。

 どこか相手に媚びてるような、糖度増し増しのソプラノボイス。

 忘れようにも忘れられない、その明瞭な声色。

 そいつが鼓膜を震わせた時、俺の背筋を大量の汗が流れ落ちた。

 胃袋が緊縮して、苦い何かがどっと込み上げてきそうになる。

 俺は伏せていた顔を勢いよく上げ、声の主を視界に捉えた。

 リアルを認めたくない本能が、俺の身体にその確認を強制したのだった。

 だが、現実はあまりにも無情だった。

 次の刹那、俺は思い出したくもないそいつの名前を、無意識のうちに口ずさんでいた。

「山崎……あかね」

 そこにいたのは、ひとりの際立つ美少女だった。

 金色に染めた長い髪と、商売オンナみたいな露出度の高いワンピース。

 身体の各所に散りばめられた装飾過多の光り物アクセサリーが、バツグンの見てくれを徹底的に強調している。

 そう。

 それは、イケメンリア充の脇に張り付いていた、あの派手なオンナに間違いなかった。

 どこをどう見ても俺との接点など持っていそうにない、見目麗しいそのオンナ。

 だがしかし、俺はそいつを見知っていたし、奴もまた、俺のことを忘れてくれていなかった。

 記憶の中にある姿とは、まったく異なるそのオンナ。

 奴の眼差しが俺の視線と絡まった瞬間、俺の両足は、持ち主の意に反して小さく震え始めていた。

 そいつが恐怖によるものなのか、それとも憤怒によるものなのか。

 正直、俺自身にもさっぱり判別つかなかった。

 このオンナの名は「山崎あかね」

 かつて俺のハートを独り占めした聖少女であり、俺の人生に再生不可能な生傷を刻み込んだA級戦犯の筆頭だった──…


 ◆◆◆


 俺とあかねが初めて出会ったのは、俺が高校生の時分だった。

 当時、あいつは俺のクラスメートで、言葉を交わすことは少なかったけれど、それなりに顔を合わせる機会の多い間柄だった。

 化粧っ気の少ない清楚な顔立ちと鴉の羽根みたいに光沢のある長い黒髪。

 すらりとした体躯にぴんと伸ばされた背筋。

 決して強い自己主張はしてないが、それでも目に付く身体のライン。

 聞けば良家のお嬢さまらしく、落ち着いた雰囲気を漂わせつつ物腰も柔らか。

 学力優秀で教師からの覚えもよく、周囲から「人徳溢れる」と太鼓判を押されるような、まさに絵に描いたような完璧少女だった。

 その存在感は、俺の知るオンナどもの中でも群を抜いたものだった。

 おそらくだけど、地域の学校すべてをひっくるめても、その評価が変わることなどなかっただろう。

 当然ながら、奴に憧れていたオトコは十や二十じゃ効かなかった。

 マスターベーションのネタにしていた野郎だって、そりゃあ数多かったはずだ。

 このころすでにオタクへの道を順調に歩んでいた俺だったが、それでもなお、あかねの魅力を無視することはできなかった。

 いやむしろ、ひと目で首ったけになったとさえ言い切ってよかった。

 なぜならあかねは、まさにそのころの俺が求め続けていた理想の女、それそのものであったからだ。

 いつしかこいつに付いた渾名、聖少女というそれがぴったりくる、そんな夢にまで見た現実の女に、俺のハートは鷲掴みにされてしまってた。

 振り返ってみれば、そいつは純粋に初恋だったんじゃないかと思う。

 普通の男と比べてみれば、俺のは随分遅れた時期だ。

 だからこそだった。

 それまでの人生でまともな女と接したことのない当時の俺にとって、その衝撃はまさに圧倒的で強烈無比なものになった。

 あかねの姿を目で追い続けるだけの日々は、情けないことに二年以上も継続した。

 その二年間、玉砕して傷付くことが怖くて、自分の気持ちをあいつに伝えることなんてできなかった。

 そう、三年生になってすぐの春、あの晴れた日の直前までは、だ──…

 その日の前日、積もり積もった思慕に押されて、俺はそいつを一枚の便せんに書き綴った。

 ひと文字ひと文字に心を込めて、誠心誠意、普段なら決して書かない思いの丈ををおのれの筆で文章にした。

 ラブレター。

 告白に使うツールとしては、随分と古臭いシロモノだ。

 だが同時に、そいつは俺にとって一番合理的な選択肢にほかならないものだった。

 想い人に直接言葉を贈るって芸当は、非モテを究めた俺なんかには到底適うアクションじゃなかったし、だからといってメールや何かを介してのそれだと、今度はあまりに事務的すぎると思われたんだ。

 まあ、折衷案と言われたらそれまでだったことは、はっきり認める。

 しかしそれでも、当時の俺は、自筆の手紙を想い人に渡すという行動に相応のロマンチシズムを感じていた。

 アニメの見過ぎと言われるだろうが、そのやり方を劇的な手段だと思い込んでた部分もあった。

 もちろん、この告白が玉砕必至であることぐらい、十分以上に認識していた。

 さすがにそこまで愚かじゃない。

 男としての自分の価値は、誰より俺が把握していた。

 イケメンじゃない。

 背も高くない。

 運動神経だって人並みだし、勉強だって十人十色。

 それに加えて、二次元オタクでコミュ力に劣るとくれば、女に好かれる要素なんてこれぽっちもありはしない。

 対して相手は、聖少女とさえ呼ばれる学園のアイドル。

 才色兼備で性格もいい、誰もが認めるハイレベルなヒロインだ。

 俺なんかが付き合えるようなオンナじゃない。

 俺なんかと釣り合うようなオンナじゃない。

 俺なんかを、受け入れてくれるようなオンナじゃない。

 そんなことは、言われるまでもなくわかってた。

 文字どおりの特攻だった。

 生還なんて一ミリも考えていない、片道切符のアタックだった。

 リア充どもであったなら、そんな時間と労力の無駄は絶対選びはしなかったろう。

 だが残念なことに、俺はリア充じゃなかった。

 リアルな女って奴がどんなものなのかも知らなかった。

 そもそもそういうのを知る機会さえ、これまで一度も持ったことがなかった。

 だからだった。

 この莫迦丸出しの告白を、当時の俺はためらうことなく実施してしまった。

「や、山崎さん! よ、よ、よ、良かったら、こ、この手紙、読んでくだしゃい! お願いひます!」

 その日の放課後。

 ところどころ咬みながら最敬礼で差し出した手紙を、しかしあかねは笑顔とともに受け取ってくれた。

 肯定の言葉はなかったけれど、その一方で拒絶の意思も示されなかった。

 恋文を手渡すことだけで満足してしまった俺は、その場でくるりと踵を返して、自分の家に逃げ帰った。

 戦果は十分以上だった。

 戦うことのできた自分を誇らしくさえ思った。

 まさかその告白の返事があいつのほうからもたらされるなんて、その時は予想さえしていなかった。

 俺の携帯に奴からの電話がかかってきたのは、夜の八時を過ぎたあたりのことだ。

「楠木君。今日はお手紙ありがとう。大切に読ませてもらったわ。あなたさえ良かったらそのお返事を差し上げたいのだけど、明日のいまごろ、学校裏の公園まで来てくださらないかしら? あそこなら、ひといないし──」

「い、い、行きますッ! 行かせていただきますッ!」

 俺の答えは迅速だった。

 理想の彼女から送られたデートのお誘い。

 断る理由なんてどこにもなかった。

 俺は浮き足立っていた。

 あいつにラブレターを受け取ってもらったその帰り道と同じように、何度も何度も歓喜の叫びを口にした。

 冷静な判断力など雲散していた。

 普通に考えれば、そんな甘い話には裏があるのが当然なのに──…

 あかねから指定された時間より三十分ほど早く、俺は現地に到着した。

 学校裏に広がる公園。

 そこは、いわゆる児童公園というものではない。

 別の言葉で表現するなら、それなりの敷地を備えた多目的広場って奴だ。

 晴れた休日の昼間には、青々とした芝生の上でボール遊びやなんかに興じる家族連れの姿を見ることもできた。

 待ち合わせ場所としてあかねが指定してきたのは、そんな敷地のほぼ中央だ。

 コンクリで舗装されたその空間には背もたれ付きのベンチが置かれ、街灯の明かりが煌々とその周囲を照らしていた。

 無論、公園外周を走る市道からは視線の通る位置にない。

 ロマンチックな男女にとって、まさに最適な密会場所だと言えた。

 自分なりのオシャレを自分なりに施した俺は、この時、うきうきしながら聖少女の到着を待ち構えてた。

 不思議なことに、お断りの返事ごめんなさいを受ける可能性などちっとも思い浮かばなかった。

 いや、仮に失恋の宣言をいただいたとしても、俺は満足していただろう。

 なんといっても、あの「山崎あかね」が一対一で俺と向き合ってくれるのだ。

 それは経験不足な童貞少年にとって喜び以外の何物でもなかった。

 過ぎていく時間が煩わしいほど気にかかった。

 一分一秒が待ち遠しく、俺の心臓はいつしか早鐘を打つまでになっていた。

 見知らぬ男から声を掛けられたのは、まさにそんなおりでのことだった。

「おい」

 乱暴そうな声色だった。

 予期せぬ呼びかけに振り返る俺。

 その顔面に、いきなりパンチが炸裂した。

 生まれて初めて身に受ける暴力。

 鼻っ面に一撃を受け、俺はバタッと地面に倒れた。

 何が起こったのかわからなかった。

 目の前がチカチカし、鼻の奥がツンとした。

 痛みはいっさい感じなかった。

 その代わり、鼻腔の中をぬるっとした何かが止める間もなく駆け下りてきた。

 鼻血だった。

 ボタボタと流れるそれが、地面と俺の胸元とをたちどころのうちに汚していく。

 呆然とした顔付きで襲撃者を見上げる俺。

 そいつは若い男だった。

 髪を金色に染め、いかにもチンピラっていう雰囲気をプンプンと臭わせている。

 ワルの顔付きをした長身のイケメン。

 さぞかしオンナ受けするだろうな、なんて場違いなことを、この時の俺は思ってしまった。

 伸びてきた男の左手が、俺の胸倉をむんずと掴んだ。

 そのまま力任せに引き上げられる。

 結構な腕力だ。

 とてもじゃないけど俺の敵うようなレベルじゃない。

 そうやって互いの顔を近付けた男は、唇を歪めて俺に尋ねた。

「テメエかァ、俺のオンナに手を出したっていうカス野郎は?」

「俺のオンナ?」

 身に覚えのない問いかけだった。

 第一俺は、こんな連中の棲むような世界との接点なんて持ち合わせてない。

 こいつのオンナに手を出したくても、そもそも手の出しようなんてまったくなかった。

 そのはずだった。

 困惑し要領を得ない俺に、ふたたび拳が撃ち込まれた。

 今度は左の頬だった。

 口の中が切れ、奥歯が微妙にぐらついた。

「ばっくれてんじゃねーぞ、テメエッ!」

 激高した男が俺の腹部を膝で蹴る。

 容赦のない一発だった。

 呼吸が寸断され、俺はその場で崩れ落ちた。

 そんな俺に向かって、男の怒声が投げかけられる。

「テメエが俺のオンナを寝取ろうとしたのはわかってんだ! どう落とし前を付けるつもりなんだ、エエッ!」

「卓也ァ、首から上は止めてあげなよ。警察沙汰になったらヤバいじゃん」

 聞き覚えのある声が、男のそれにやんわり続いた。

 甘ったるいオンナの声だった。

 地面の上にうずくまりながら、顔だけ上げて、俺は声の主を見た。

 それは「山崎あかね」だった。

 学園のアイドルにして、俺の恋した聖少女──…

 だがそこにいるオンナは、そんな崇高な存在ではなかった。

 露出の大きい派手な衣装に身を包み、サディスティックな眼差しを上から俺に突き刺してくる。

 口元には火の付いた煙草。仕草が板に付いているのは、それがたまさかのものではない何よりの証だった。

 そのオンナは、少なくとも俺の知る「山崎あかね」ではなかった。

 「山崎あかね」の形を保った、まったく別の何者かだった。

 見てくれだけなら百戦錬磨の売春婦だ。

 だけどそれは、俺の勘違いでも見間違いでもなかった。

 そこに立って俺を見下していたオンナは、紛れもなく俺の見知った「山崎あかね」本人だった。

 信じられない事実に接して、俺は思わず両目を見開く。

「やまざき……さん?」

「ヤホー、楠木君」

 紫煙を吹き出し、奴は言った

「制裁を受けた気分はどお?」

「なんで、そんなとこに……」

「なんでって、アタシが彼氏の横にいるのがそんなに不思議?」

「彼……氏?」

「そうよ。この強くてカッコイイ卓也サンが、いまのアタシの最愛の彼氏。君みたいに気色の悪いオタクとは、比べものにならないくらいイイオトコでしょ?」

 あかねはそうやって俺のことを嘲笑った。

 それはあたかも情婦のような笑みだった。

 聖少女の持つ清らかなイメージなど、そこには欠片も見当たらない。

 どす黒く、生臭い独特のオーラが、奴の全身を濃厚に覆っていた。

 俺は驚愕に打ち震えた。

 鉛色の絶望が、身体中にのしかかる。

 まさか、これがこいつの本性なのか?

 俺は思った。

 俺が見てきたこいつの姿は、分厚く被った猫の皮だったのか?

 だとしたら、これまでの俺の想いは、これまでの俺の恋心は、いったいなんだったっていうんだ?

 嘘だろ?

 冗談だろ?

 夢なら早く醒めてくれ!

「楠木君。実はアタシねェ、君からラブレターもらった瞬間、死にたくなるくらいに傷付いちゃったのォ」

 愕然と口を閉ざす俺に向かって、蛇の顔付きで奴が言った。

「だってそうじゃない。君レベルの下層男子に告白されるだなんて、まともなオンナにとっては人生最大級の屈辱よォ。言葉を変えれば、オンナにモテないキモオタに『そんな俺でもこいつとなら付き合える』って思われてたってことだしねェ。あ~キモいキモい。思い出すだけで鳥肌が立っちゃうわ」

「そん、な……」

「だからねェ、アタシ、あのあと愛しの彼氏に相談して、君からきちんとそのことの謝罪と慰謝料をいただこうって話になったわけ? 頭と顔の悪いキモオタの君にだって、それっくらいのことはわかるんでしょ?」

「というわけだ」

 奴の台詞を金髪男が受け継いだ。

「取りあえず、有り金全部渡せや」

「だッ……誰がッ!」

 俺は、気丈にも抵抗の意志を見せた。

 しかし、暴力がそれを蹂躙した。

 立て続けに叩き込まれた爪先とかかとが、俺の全身を打ちのめした。

 俺の心が折れるのに、さほどの時は有しなかった。

 無様に過ぎる謝罪に併せて、俺は自分の財布を差し出した。

 金髪男がそれを受け取り、我が物顔で中身を確認。

 ヒューッと甲高く口笛を鳴らした。

「結構持ってるじゃんよォ。キャッシュカードまであるぜェ。見ろよあかね。こいつ、実はブルジョワだったりするんじゃねえの?」

「あらほんと。アタシとのデートのために、わざわざ貯金を叩いてきたって感じ? だとしたら健気じゃん! 一日ぐらいは付き合ってあげてもよかったかな? セックス抜きの援助みたいに」

「ま、オタクはオタクらしく、漫画やなんかでセンズリこいてろってこったな。生身のオンナに関わろうなんて、身の程知らずにもほどがあらァ」

 同調するあかねとひとしきり盛り上がったのち、金髪男は俺に対して駄目を押す。

 キャッシュカードの暗証番号まで吐かされた。

 奴らにとって、俺は同じ人間なんかじゃなかった。

 ただ搾取するための対象でしかなかった。

 惨めだった。

 あまりにも惨めだった。

 涙すらも出なかった。

 ただブルブルと身体を震わせることしか出来なかった。

 やがて、俺からすべてをむしり取った金髪男が傲岸不遜に勝利の言葉を宣った。

「おいオタク。間違っても、警察や学校には言うんじゃねえぞ。責任は全部、他人ひとのオンナに手を出したテメエのほうにあるんだからな。俺らは単に、与えられた正当な権利を行使しただけ。もしつまんねえ知恵付けて誰かにこのことチクりやがったら、その時はバックも使って徹底的に潰すからな。忘れんじゃねえぞ」

 俺は、そいつに返答することもできなかった。

 遠ざかっていく奴らの会話を、這いつくばって聞いていることしかできなかった。

「へへへ、こいつは新しいメインバンクゲットってところか」

「そうね。これからもガンガンむしり取れそうな感じよねェ」

「しっかし、オメエも悪いオンナだよな。おっさん相手じゃ飽き足らず、今度は同級生まで餌食かよ。少しは遠慮しとかねえと、いつかしっぺ返しが来ちまうぜ」

「なによ! 悪いことやってんのはお互いさまでしょ? 卓也だってそれでいい思いしてるんだから、アタシだけっていうのは違うんじゃない?」

「まあな。俺とおまえは一蓮托生。勝ち組同士、弱者を食って人生しあわせってな」

「そうそう。わかってりゃいいの」

「さぁてと。今日もひと仕事終わったことだし、あかねェ、これからいっちょ親睦会と洒落込まねえか? ひと晩中、ホテルの中でふたりっきりでよ」

「あらいいわね。でもアタシ、いま危ない日よ」

「チッ、だったら親睦会は延期かよ。つまんねーな」

「卓也はゴム付き嫌いだもんね。でもアタシならいいわよ。卓也がシたいんなら、卓也のしたいようにサセたげる」

「マジ? デキたらどうすんだよ?」

「そんときゃ、堕ろしたらいいじゃん。それも、テキトーなおっさんに責任おっかぶせてさ」

「ひゃははッ! そいつはいーや! さいこーだ!」

「でしょ? だからさ、今夜は目一杯可愛がってよ」

「まかせとけ、まかせとけ。失神するくらい、可愛がっちゃる」

 その日、俺がどうやって自宅うちに帰ったのかは、まったくもって記憶にない。

 それどころか、その後数日の記憶さえもが、ごっそりと頭の中から抜け落ちてた。

 かろうじて思い出せるのは、ボロボロのなりをした俺を見付けた顧問弁護士が迅速に法的手段を講じたこと。それのみであった。

 罪状は強盗傷害。

 被害届は弁護士が直接出した。

 そのおかげかどうかはわからないが警察の動きは異様に素早く、あかねとその彼氏とは、あっという間に捕まったらしい。

 他人名義のキャッシュカードで好き勝手に豪遊していたことが、それを手助けしたと聞いている。

 奴らの両親は、そのどちらもがいわゆる社会的な成功者だった。

 金の力にモノを言わせて優秀な弁護士を雇ったそいつらは、自分の立場と子供の立場を守るべく、上から目線で詭弁の上に詭弁を重ねた。

 俺という後ろ盾のない小市民を虫けらみたいに圧殺すべく、持てる人脈を最大限に活用した。

 社会正義よりもおのれの面子を優先する、そんなどうしようもないクズだった。

 まさに、あの子供にしてこの親ありってところだった。

 のちのち聞いた話なのだが、こちらの弁護士を前にした相手側弁護士の言い分は、おおむねこういった感じだったのだという。

「対象となる現金もキャッシュカードも、そちらの依頼人が本職の依頼人のご子息にプレゼントしたもので、これはいわば好意的な贈与行為に値します。その正当行為を刑法犯である強盗傷害で訴えるなど、むしろ非常識なのはそちらのほう。こちらは、名誉毀損でそちらの依頼人を告訴する準備があります」

 だが連中の弁解は、無残にも常識の壁によって打ち砕かれた。

 あかねたちが俺から奪ったキャッシュカード。

 その口座に入っていた金額が、都心に豪邸を三つ四つ建てられるだけのそれであったからだ。

 そのことを俺の弁護士から知らされた相手側弁護士は、見る見る顔を青ざめさせていったという。

 それはそうだろう。

 想像世界の石油王じゃあるまいし、いったいどこの世の中に、億単位の金をポンと他人に手渡しするようなお人好しがいるのだろう。

「そちらがそれをお望みでしたら、ぜひその証言を法廷においても仰ってください」

 俺の弁護士は余裕綽々で言ったらしい。

「そんな戯言を信じる裁判官が実在するのであればそちらの勝算もあるのでしょうが……まあ、あとはご想像にお任せします。なお、仮にそのような事態になった場合、本件をマスコミにリークすることも本職の依頼人には承諾済みですので、くれぐれもお忘れのないように願います」

 結果は、相手側の全面降伏に近かった。

 あかねとその彼氏との両親は、法外と言えるだけの和解金を支払うことで、こちら側との示談に応じた。

 和解金の総額は、普通の家であったなら軽く二、三回は破産してなおお釣りが来る、それほどのものだったと聞く。

 その金額と引き替えに、あかねとあかねの彼氏とは刑事訴訟を免れた。

 相手側の親が双方の生活管理を確約することで、こちら側が被害届を取り下げたからだ。

 その後、あかねの彼氏がどんな処分を受けたのかはわからない。

 だが、あかねが急な転校を強いられたことから見て、おそらくは同じような目に会ったのだろう。

 応報としては軽微だが、俺はそんなので満足することしかできなかった。

 とにかく、奴らと縁を切りたくて仕方がなかったからだった。

 身体の傷を癒やした俺がふたたび学校に通い出したのは、事件が起きてからおよそひと月後のことだ。

 正直な話、家の外に独りで出るのが恐ろしくてならなかった。

 生まれて初めて経験した肉体的な暴力と、年を経て再確認したオンナという種の暗黒面。

 それらふたつの存在が、俺の心身を金縛り状態にしてたのだった。

 それでもなんとか地に足を踏み出せたのは、ある意味で逆説的な「パンドラの箱」のおかげだった。

 あらゆる厄災が詰まっていた「パンドラの箱」

 しかしその中には、「希望」という名の最後の光がこっそり住み着いていたという。

 俺はその説話を心から信じた。

 いや、縋った、と言い換えてもいい。

 これだけ酷い目にあったんだ。

 きっとこれからしばらくは、いいことばかりが続くはず。

 そうでなければ、俺の人生、あんまりにも不公平じゃないか──…

 そんな思いが、校門を潜る俺の両足をやっとのことで支えていた。

 だけどその「希望」は、のっけから裏切られることになった。

 それまでと変わらぬ態度で教室に入った俺を、落書きだらけの黒板と机とが燦然と出迎えてくれたからだった。

 そこには、読むに堪えない悪口雑言がびっしりと隙間なく書き込まれてあった。

 曰く、強姦魔──…

 曰く、恥知らず──…

 曰く、オンナの敵──…

 内容を要約すると、おおむねこういうことだった。

 聖少女・山崎あかねが突然転校する羽目になったのは、夜の公園で俺にレイプされたことが原因なのだ──と。

 まさに根も葉もない濡れ衣だった。

 でもそれはもう、真実として確立していた。

 情報の発信源は、あかねを崇拝していたオンナどもの集団だった。

 初めにそれを言い出したのが誰なのかは、特定することはできなかった。

 だけど、奴らがその妄言を生み出し、広げ、正しいものと信じていたことだけは疑う余地もなかった。

 連中の視線、態度、醸し出す空気のすべてが、この俺に推論の正しさを伝えてきたのだった。

 わかっている。

 オンナどもはただ、同性の名誉って奴を守りたかっただけだ。

 自分たちと同じ染色体を持つあの聖少女オンナ、その輝かしい存在を汚したくなかっただけのことだ。

 この学校のオンナたちにとって、「山崎あかね」という存在は、自分たちの誇りであり象徴でもあった。

 少なくとも、俺の知る限りはそうだった。

 その価値は、俺のようにチンケな喪男なんかとは比べものにすらならなかった。

 だからこそ、連中は少しもためらわなかった。

 あかねのすべてを守るため、好んで俺を悪者にした。

 そうすることが、奴らにとっての絶対正義であったからだ。

 そしてひとたびそうなってしまえば、俺からの弁解など、もはや蟷螂の斧にもならなかった。

 そもそも、そんなことができる機会なんて与えられもしなかった。

 オンナどもにとって俺のようなキモオタは、同窓生どころか自分たちと同じヒューマンですらなかったのだ。

 もちろん、汚物を見るような目線に晒される俺を、わざわざ擁護してくれる層は皆無だった。

 これがアニメや漫画の世界なら、心優しいヒロインがひとりやふたりは立ち上がってくれるものなのだが、そんな素晴らしい女性はやっぱり想像世界の住人に過ぎなかった。

 俺のメンタルがポッキリと折れたのは、そんな過酷な環境が続いてひと月もしないうちの出来事だ。

 そのころには、少しは言葉の通じる相手だった同じレベル非モテのオトコたちまでもが、オンナどもの顔色をうかがってか反俺の態度を鮮明にしていた。

 完全アウェーの教室で、俺は同じ言葉を繰り返し呟くしかなかった。

 なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだッ!

 乾いた笑いを浮かべながら、俺はそう思わざるを得なかった。

 俺がいったい何したって言うんだよッ!

 ただ単に、勇気を振り絞って自分の気持ちを相手に伝えただけじゃないかッ!

 それともなんだ!?

 俺のような非モテのキモオタには、誰かを好きになることすら許されないっていうのかよッ!?

 俺みたいなのが恋愛するのは、おまえらにとって、それほどまでに気持ち悪い行為ってことなのかよッ!?

 畜生ッ!

 畜生ッ!

 腐りきった三次元オンナどもめッ!

 おまえたちもあかねと同じだッ!

 普段は綺麗事を語りながら、スカートの陰で悪魔の尻尾を蠢かせてるんだろッ!?

 わかった!

 もうわかった!

 おまえらがそういうホンネを隠さないなら、こっちにだって考えがあるッ!

 俺はもう二度と、おまえらオンナには期待しないッ!

 ああ、絶対に期待しないッ!

 期待してなんてやるものかッ!

 それから間もなくして、俺は登校拒絶の道を選んだ。

 周囲との接触をほとんど断ち、自分の世界に引きこもった。

 俺の後見人である弁護士には、その理由が「学校内でのイジメ」であることを、はっきりと伝達した。

 さいわいなことに、証拠の類は山ほどあった。

 そいつを受け取った弁護士は様々な方面に働きかけ、体面を守りたい学校その他の連中に出席日数の調整を確約させてくれた。

 それ以降、俺は一度も母校の門を潜らなかった。

 当然、卒業式も欠席した。

 そのおかげか、クラスメートだった奴らにとって、俺という人間は初めからいないものとされてるみたいだ。

 今日この日に至るまで、同窓生の誰からもコンタクトされたことないのが、その揺るぎない証左だった。

 漫画家・イラストレーターとしてプロデビューしたことをまったく隠してないにも関わらず、である。

 なんともありがたい話だと思った。

 奴らからすれば、自分らが冤罪棍棒で殴りつけた相手がどうなろうとも、およそ知ったことではなかったんだろう。

 そのちっぽけな正義感が満たされたのなら、すべての結果が些細なことでしかなかったんだろう。

 だがしかし、俺にとってあの凄惨な体験は、永遠とわに消えることない生傷となった。

 刺され、抉られ、塩をすり込まれた損傷箇所は、癒やされることなくいまだ鮮血を流し続けている。

 もっとも俺は、あえてその痛みを克服しようとしなかった。

 そんなことができるとは、ちっとも思えなかったがゆえだった。

 代わりに俺が選んだのは、そいつと共存する道だった。

 痛みを実感し続けることで、自分の弱さを未来永劫戒める。

 そんな被虐的な人生を、俺はおのれの意志で選択した。

 誰かに強制されたんじゃない。

 あくまでも、自分の意志でそれを選んだ。

 そして、そいつが誤りだったとは、これまで一度も思わなかった。

 そいつを悔やむ瞬間なんて、これまで一度も訪れなかった。

 でも俺はいま、初めてそれらを痛感してる。

 まさかこの俺に刃を突き立てた張本人と再会してしまうだなんて、まったく予想してなかったがゆえだった。

「やっぱ楠木君じゃん。久し振り~。変わってないね。元気してた?」

 その、かつて聖少女だったオンナは、ふたたび悪魔リリスの笑みを浮かべながら、俺に向かって右手を振った。

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