三章⑥ 幼馴染との約束
やっとわかった。噛み締めるように繰り返すフロスト。彼の蒼い瞳にあるのが、今までの危うい狂気とは違っていることに気が付いた。
そうだ、あの瞳だ。この村では珍しい瑠璃色の瞳。あれが、ヒョウと同じ光を宿している。優しくもあり、強くもあるそれが何なのかはトニにはわからないが。
「ただ強さだけを追い求めていた。虚無を殺せるなら、俺のことなんかどうでもよかった。でも、それじゃ駄目なんだ。自分を犠牲にするのは間違っている」
「フロスト、お前……」
「……多分、親父も同じことを言ってたんだろ?」
ふと、思う。比べられることを極端に嫌う彼が、自ら父親のことを口にするのは珍しい。豊かな髭を撫でながら、サンがふわふわと笑う。
「ホウホウホウ。……やはり、血の縁というのは不思議じゃのう? そう、ヒョウも今のお前と同じことを言っておった。まだ赤ん坊だったお前を抱き締めながら、何度も何度もな」
「やっぱりな」
「しかし、どうしてそのことを知っておるのじゃ? 村の大人でも、知っている者は少ないと思うのじゃが」
「……秘密」
そう言って、フロストが小さく笑う。痛みを押し隠すようなそれとは違う、子供のような無邪気な笑み。久々に、彼のこんな表情を見た。
「ふむ、気になるのう。……さっき会ったばかりじゃというのに、随分見違えたのう? 全く、若者は老いぼれが茶を啜っている間にどんどん成長しおって。嬉しくもあるが、寂しくもある。お前が居なくなったらもっと悲しくなる。その痛みはもう老いぼれには耐えられん、だから……約束するのじゃ」
表情は変わらないが、サンの声が微かに震えている。涙は見えないが、泣いているのだろうか。
「必ず、この村に帰ってくるのじゃぞ。お前はヒョウと、この村に住む皆の大切な“息子”なんじゃから」
「……わかった」
「戦士フロスト」
ぴんと張り詰める空気。思わず息を吸って吐くことも忘れてしまうような緊張感。改めて今、ここに新たな戦士が生まれたのだ。
この場に同席出来たことを、トニは誇りに思う。
「お前に命じる。キュリを葬り、この村に降り掛かる災厄を払ってくれ」
「……お任せください」
軽く一礼するその姿は、凛然としていて。本当に、彼は見違えた。知らない間に、別人のように成長したフロストは頼もしいが、置いて行かれたようでなんだかとても寂しい。
「ちょ、ちょっと待てフロスト!」
先程まで立ったままだったユドが、話に無理矢理に割り込む。そういえば、忘れてはならないことがあった。
「何だよ?」
「お前、まだ怪我人だろう!? 右手はどうした、右手は!」
「ああ……この村の名医のおかげですっかり良くなった」
「嘘つけい!」
「あ、その反応はあれか? 自分が名医じゃなくてヤブ医者だって認めたのか?」
「んなっ!?」
まるで水面に落とされる餌を待つ金魚のように、口をぱくぱくさせるユド。何も言えなくなった彼に、フロストが部屋を出る間際に振り向いて言った。
「心配しなくても、無理はしねぇよ。もう痛いのはゴメンだしな。やばそうだったら時間だけ稼いで、軍に丸投げして逃げて来る」
酷い怪我をした筈の右手をひらりと振って、フロストが扉を開けて退出した。真紅の戦士が残した余韻の中、すとんと腰を椅子に落としたユドがしばらく呆けたあと、残り少なくなった髪を惜しげもなく掻き乱す。
「くうううぅう!! あんの……小童があぁああ! 小生意気なところまでヒョウに似よってええ!!」
「お、落ち着いて先生! また血圧上がっちゃいますって!」
今のも額に浮きだした血管が切れるのではないかという程に、憤怒するユド。冷めきった紅茶をごくごくと飲み干すと、少しは落ち着いたのか長々しい溜め息をこれでもかというくらい吐きだした。
「……ふん。急に大人びおって。ヒョウが戻って来たのかと思ったわい」
「あ、やっぱり。自分もそう思いました、びっくりしてまだ脚震えてますよ」
「ええ? みなさんもそうだったんですかぁ?」
思い思いに言葉を交わす大人達。そんな騒ぎの中で一人、サンが背もたれを軋ませ天井を見上げて、何事か呟いたのを、トニを含めた全員が気が付くことは無かった。
「……ヒョウ、お主は立派な息子を持って本当に幸せ者じゃな」
「あー……ちょっと、緊張した」
大人達の前では気丈に振る舞って見せたが、フロストの心臓は今にも弾け飛びそうな程に激しく鼓動していた。ほとんどハッタリだったのだ。
右腕はまだ痛むし、足元のふらつきも消えたわけではない。しかし、決して彼等に嘘を吐いたわけではなかった。
今、自分にどれだけのことが出来るかわからない。キュリを目の前にしたら、また憎悪に狂ってしまうかもしれない。何としてでも、ヒョウの銃を取り戻したくなるかもしれない。
腕の傷が、上手い具合にストッパーになってくれれば良いが。
「あ、そうだ」
このまますぐに出発しようとしたが、気が変わった。一度、玄関から向きを変え階段を昇る。
以前、自分が使っていた部屋を今でも残していたことには驚いたが、部屋数の多いこの屋敷にとってそんなに苦にはならないのだろう。そんなことを考えながら、フロストは二階の廊下を歩く。確か、この辺りだった筈。
「ミカ?」
木製のドアをノックするも、声は返ってこない。間違えたのだろうか。恐る恐るドアノブを回し、部屋の中の様子を伺う。
消毒液の苦い匂い。やはり、ここで間違っていなかった。フロストが静かにドアを開けるが、出迎えの声は無かった。
「……寝てんのか?」
それは、二人に向けられた言葉だった。ベッドに寝かされたアンナは、思ったよりも顔色が悪い。それでも、表情は穏やかで苦痛を噛み締める様子は無い。フロスト以上の大怪我を負ったと聞いていたが、少しだけ安堵した。
ドアを後ろ手で静かに閉め、足音を立てないようにミカに近付く。椅子に座りながら、アンナが横たわるベッドに突っ伏すという器用な格好で沈黙している。
規則正しく上下する肩に、微かに聴こえる寝息。左手のグローブを取り、少々乱れた黒髪をわしゃわしゃと撫でる。むぎゃっ、と変な声を出したが、この程度で起きる気は無いらしい。
色々と、言いたいことがあるのだが。しかし起こしたところで、言いたいことがちゃんと言える自信は無い。今からキュリを始末してくると言えば、ミカは絶対に、しがみついてでもフロストを止めにかかるかもしれない。
「……帰ってからで、良いか」
硬質で、艶やかな髪から手を離す。別に急ぐことではない。ふと、コートのポケットを探る。
あれだけの騒ぎの後だというのに、“小箱”は汚れ一つ無くそこにあった。
「これも、まだ良いな」
取り出したそれを再びポケットに押し込む。代わりに取り出した数本の飴玉の中から、ピンク色の包みのものを一本摘み上げ、ミカの手に握らせてやる。
幼い頃から大して変わっていない、華奢で小さく柔らかい手だ。
「お前が起きてから、こいつを食い終わる頃には帰ってくる。必ずな」
そう言って、もう一度だけミカの頭を撫でる。そして、静かにドアへと歩みを進める。
十三年前のあの夜、ヒョウは一体どういう気持ちでフロストを村に置いて行ったのか。多分、今の自分と似たような思いだったのだろう。
でも、自分はヒョウではない。あの時の幼い自分と同じ気持ちを、誰かに味わわせたりしない。
静かにドアを開ける。無意識に、右の太腿に吊ったブランシュを指先で撫でる。背中に感じるのは、ネラの頼もしい重み。
「行ってくるぞ、ミカ」
日暮れまでの時間は残り僅か。暖かな部屋を出たその瞬間、フロストは誇り高き『戦士』となった。
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