二章⑨ 復讐
サメのように鋭い歯列が、フロストの腕に食い込んだ。コートが破け、皮膚が千切れ肉が穿たれる感触。噴き出す血に舌を這わし、啜る音に怖気立つ。想像以上の激痛に、意識が飛びそうになる。
でも、簡単に気絶なんかしてやらない。悲鳴だって上げてやるものか。意地と、虚無に対しての憎悪がフロストの正気を保たせる。
大量の血と共に、体温と気力が流れ出す。それでもまだ、指先を動かすことは出来た。
「っ……ど、だ? サンタクロースの血肉は、美味いのかよ。テメェらには、最高のプレゼントなんだろうな」
でも、それは同時に破滅をもたらす贈り物でもある。右手は動く。そして、人差し指はブランシュの引き金に引っ掛かっていた。
歯を食いしばり、口元に嘲笑を飾る。
「……くたばれ」
くぐもった銃声。湿った爆音と共にタコの頭が弾け、辺りにどす黒い肉塊が飛び散る。
フロストの腕を喰い千切ろうとしていた歯列から、力が抜ける。変なところでタコらしく、長い脚が不気味に蠢いていたが、やがてそれも無くなった。
「フロスト!」
力無く膝を着いたフロストに、親子二人が駆け寄る。エーヴィの悲痛に満ちた声と銃声に気付いたのだろう、一人二人と村の住人が恐る恐る顔を出し、そして血相を変えて彼等の元に集まった。
「フロスト、大丈夫か!?」
「ひでえ……すぐにユド先生呼んでくる!」
「それより、早く引っ張りださねえと」
ただの屍と化した虚無の口は、元の体重によってフロストの腕に噛み付いたままでいた。何とか抜け出そうと身を捩るものの、喰い込んだ歯は傷を広げるだけ。左手で上顎を持ちあげようとするも、彼一人の力ではそれも叶わない。
加えて、フロストは今にも気を失ってしまいそうだった。話掛けられているのだろうが、その声は遠く不明瞭で、何と言っているのかわからない。
「よし、俺達が持ち上げるから、その間にフロストを頼む」
「わかった。大丈夫だぞ、フロスト」
すぐに助けてやるからな。すぐ傍で言われた誰かの言葉。それだけがやけに鮮明にフロストの耳に届き、消えかける意識に溶ける。
助ける? どうして、俺は助けられているんだ?
「くっ……この、重いな意外と」
「がんばれ、もう少し持ち上げてくれ」
「おし、いけるぞ。早く、みんな手を貸してくれ!」
ずるりと、解放されたフロストの右腕は凄惨な状況であった。穿たれた傷からは今もどす黒い血が垂れ流れていて、剥がれた皮膚が痛々しくぶら下がっている。奇跡的に傷自体は大きいものではなく骨も無事らしいが、感覚は完全に無い。
腕と共に引き摺り出されたブランシュが、雪の中に落ちる。粘着質な血や体液やらで此方も酷い有様だ。白銀に輝いていた筈の愛銃。アンナが見たら発狂しそうだな。
顔を真っ青にして叫ぶアンナが容易に想像出来て、なんとなく、笑える。
「なっ……こいつはヒドい」
「ごめんなさい……わたしが、わたしが悪いんです」
エーヴィが泣きじゃくり、何度も何度もそう繰り返す。それを誰かが宥めている。ぼやける視界で人事のように眺めていると、野次馬の中からユドが飛び出してきた。何やら叫んでいるが、何を言っているのかイマイチわからない。
「ええい、お前達は止血の仕方すら知らんのか!! フロスト、聴こえるかおい!」
うるせえな、聴こえてるっつのクソジジイ。掠れる声で言ってやると、呆れたような溜め息が返ってきた。
「……変なところまであの馬鹿に似よって。痛くするぞ、スマンな」
言うと、ユドが布でフロストの右上腕をきつく縛る。覚悟した程痛くはなかったが、ユドのしわだらけの顔面は蒼白していた。
「すぐに処置してやらんと……誰か、フロストを安全な場所に」
「で、でも一体どこに?」
「この村に今……安全な場所なんて」
一様に口を紡ぐ村人達。何かが燃える音と、誰かがすすり泣く声が聴こえる。その時だった。
炎ではない、圧倒的な光が夜空を覆ったのは。
「何だ、何だ何だ今度は!?」
「花火……か?」
そう、それは正に花火だった。光の球体が天空を目掛けて駆けのぼり、爆発すると四方八方に散開しやがて流れ星のように儚く消える。場違いな美しい景色に、一瞬誰もが見惚れてしまった。
対して虚無にとっては眩しい厄介者だったようで、多くは逃げるように闇の中へと姿を消した。
「……まさか」
あれが、アンナの言っていた信号弾なのか。まるで、というより正に花火にしか見えない。
綺麗だが、それだけで済ませられるものではない。アンナの性格から考えるに、彼女がフロストに助けを求めるなど余程のことだ。
もしや、キュリが――
「ふ、フロスト?」
「離、せ……」
「こ、こら!! 無理に動くんじゃない!」
傷の具合をよく見ようとしていたユドを押しのけ、フロストは立ち上がろうとした。しかし両脚には力が入らず、強烈な目眩に吐き気さえ催してしまう。左手を地面に突っぱねる、ただそれだけの動きでも呼吸が荒く息が出来なくなる。
それでも、行かなくては。雪を引っ掻き、歯を食いしばる。それを、大人達がなんとかして押さえ込もうと肩を掴む。
「ダメだ、一体どうしたんだフロスト!」
「ど、け……あいつは、俺が殺す」
「落ち着けって、まずは手当てが先だろ?」
優しく宥める声は、トニのものだ。彼に同調して、何人もの大人がフロストを止めようとした。
「そ、そうだよ。な? とりあえず、落ち着けって」
「下手したら、傷口から感染して大変なことになるぞ」
「大丈夫だって。おれ達が何とかするから。だからもう、無理しなくて良いんだ」
休んで良いんだよ。あとは俺たちが頑張るから。今度は私たちたちがお前を護るから。押し付けられる優しい言葉の数々に、フロストの苛立ちはもう、限界だった。
フロストの中で、何かが切れた。
「…………うぜぇ」
「フロスト?」
「うるせぇんだよ!! テメェら大人は揃いも揃って、そんなに俺が頼りねぇか! そんなにヒョウに戻って来て欲しいのか!?」
それは、今まで必死に押し隠していたフロストの痛みであった。しん、と大人達が静まり返る。ああ、やっぱりこれは彼等にとって禁句だったんだなと改めて感じた。でも、もう止められない。
堤防は決壊した。今まで我慢していた苛立ちを、もはやせき止めることが出来なかった。
「俺が……気がついてないとでも思ってたのかよ。はっ、つくづくおめでたいヤツらだな。いつまでも、泣き虫なガキだと思ってるんだろ?」
「ち、違うんだよフロスト。俺たちはただ――」
「さっき女の姿をしたキュリって虚無に会ったぞ。そいつは金色のリヴォルヴァーを持っていたんだ……あれは、絶対にヒョウの銃だ。ヒョウはもうどこにも居ないし、いくら待っても帰って来ない。キュリが親父をこの村から奪ったんだよ!」
絶対に帰って来るって約束したのに、ヒョウは二度とフロストの元に帰って来ることはなかった。これからも、どれだけ待っていても帰って来ないのだ。
だから、フロストは戦士になったのに。誰も自分を認めてくれなかった。失格とさえ言った。
頼ってくれなかった。復讐に狂って何が悪い、それで虚無が始末出来て、平和な生活が送れるなら何も問題ないじゃないか。
「何で……何でだよ」
どうして村がこんなにぼろぼろにならなければならないんだ。
俺がガキで、頼りないから? ヒョウなら、こんなことにはならなかった?
「虚無を殺すことの何が悪いんだよ……。俺とヒョウは何が違うんだ? 親父を殺したキュリを恨んで、形見の銃を取り戻したいってことが許されないことなのか? ……俺は何か間違ってるのか?」
傍らにいるユドの肩を掴む。柔らかな茶色のダッフルコートを、どす黒い紅がじわりと侵す。
「何でも良いから言ってくれよ……教えてくれなきゃ、もうわかんねぇんだよ」
わからない。自分の何が間違っているのかがわからない。戦士とは何か、誰も教えてくれない。教えてくれる人が居ない。
限界だった。フロスト一人では、何をするにも限界なのだ。それは村の大人達もわかっているのだろう。でも、どうすればいいかわからない。彼を導くことが出来ない。それは、父親の役目だったから。
同じ戦士で、父親であるヒョウにしか出来ないこと。誰かで代替することは、不可能なのだ。
「……うふふ。無様で愛おしいフロスト、今の貴方……わたくし好みでとても可愛らしくてよ?」
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