三章
三章① 悪魔の女剣士
銀色の満月が、夜空から地上を青白く照らしている。そういえばあの夜も、こんな風に明るい月夜だったことを覚えている。
シャナイアはベッドに今までの宿泊金を置き、一度部屋を見渡す。その左手には、布を巻いた大事な杖。それと、旅に必要な最低限の荷物。初めてこの村に来た時と、同じ装いだ。
女が去った後。アイリだけではなく、村中からシャナイアを擁護する声が上がった。それは、本当に嬉しかった。
だが、決意する後押しにもなった。
「……お世話になりました」
自分以外に誰も居ない空間に、感謝の言葉を放る。返事を待つことなく、シャナイアは窓を開けた。
一晩開けっぱなしにすることになるが、今夜はよく晴れている。風も穏やかで、部屋を汚すことは無いだろう。
「よっ、と」
躊躇なく、二階の部屋から地面へ。大地に、ふわりと飛び降りる。膝を屈伸させ、衝撃を和らげる。
夜の村は心地良い静寂に包まれていた。無音ではない。無視の鳴き声や、風で木の葉が擦れる音。自然の音だ。
村の家々は明かりを消して、皆は既に眠っているのだろう。シャナイアは足音を忍ばせ、歩みを進める。
後戻りはしない。それが、決意だった。しかし、シャナイアの歩みは止められてしまう。
不覚にも、凄く動揺した。
「……アイリ?」
村と、山道の境にアイリが立っていた。いつもは結ってある金髪は解かれ、ふわふわと夜風に靡いている。いつもとは違う憂いの表情が、少しだけ大人っぽく見える。
「こんな時間に、どうしたの?」
「シャナイア……どこに行くの?」
問い掛けが、問い掛けで返ってくる。どうすれば良いかわからなかった。
「……風邪、引いちゃうよ?」
そんなことしか、言えなかった。寝間着に薄手のカーディガンだけ着込んだ格好で、寒くないのだろうかと馬鹿なことしか考えられなくて。
「村を、出るの? アタシ達に、何も言わずに?」
「……ごめんね」
気の利いた返事なんか、出来なかった。
「俺が居ると、皆に迷惑かけちゃうから」
「あの悪魔のこと? シャナイアは何も悪くないじゃない!」
「俺はね、旅人なんだ。旅人は、一つの場所に留まることは出来ない」
「……でも、どうして」
「村の皆には、本当に感謝してる。ありがとう、俺なんかに良くしてくれて――」
「どうしてシャナイアが傷付かなくちゃいけないの!!」
シャナイアの右手を、小さな両手が掴む。小さくて、華奢で、すっかり冷え切った手は震えていて。
俯く、その瞳から零れる雫。あまりにも綺麗な涙を止める術なんか、わからなかった。
「ごめんね……」
謝るくらいしか、思いつかなくて。でも、シャナイアの決心は揺るがなかった。
もう、この村には居られない。昼間に来た悪魔の女もそうだが、村に長く居過ぎたと実感した。
一か所に留まり続けることなど、自分には出来ない。それを改めて思い知った。
「いやよ……行かないでよ、シャナイア」
「ありがとう、アイリ。でも、それは出来ない」
行かなければ。しかし、握られた手は振り払えそうにない。かける言葉も見つからない。
だが、アイリが言う。
「お兄ちゃん達がね、ブーゲンボーゲンまで兵士さま達を呼びに行ったの。だから、大丈夫よ?」
「……え?」
「馬で急げば、一日で戻ってこられるからって。だから、シャナイアは村の中に居て? ここならきっと、悪魔も簡単には手出し出来ないからって」
「まさか……夜道を下りて行ったのか!?」
本来ならば、夜中に山道を行くことなど避けるべき行動だ。景色には闇が降りて視界は悪い上、いつ魔物に襲われるかわからない。しかし今夜は満月で視界は比較的明るい。
山道は馬車が通れる程度に手入れされているので、これを辿って行けば野生の獣に出くわす可能性も高くは無い筈だ。彼等もそう思い、出て行ってしまったのだろう。
それでも、昼間に比べて視界が悪い。危険が無いわけではない。
「今すぐ止めに行かなくちゃ――」
「おい、どこへ行く気だ?」
その時だった。山道から外れた獣道から、聞き覚えのある女の声。
振り向けば、やはりそこには思った通りの姿があった。昼間と変わらない装いだが、月光が照らす姿は更に艶美である。
「な、あんた……よくもここまで来たわね!?」
「ふんっ、いつまで待っても来ないから迎えに来ただけだ。逃げたのではないかと心配したが……小娘に邪魔をされていただけか」
見た目通り、あまり気が長い方ではないようだ。アイリがシャナイアの手を離すと、臆することなく女を睨みつける。
「アンタなんかに、シャナイアを良いようにさせないわ! もうすぐ聖霊軍の兵士さまが来るんだから、さっさとここから立ち去りなさい」
「上等だ、全員斬ってやる。それにしても、子ザルのようにきいきいと喧しいな……小娘、貴様から斬り倒してやろうか?」
紅い瞳が、アイリを静かに見据える。そんな二人の間に割入って、アイリを庇う。
「……あんたの目的は俺だろ、ルカ・クレイル」
「ほう? 私の名前を覚えていたか」
記憶に蘇る名前を呼べば、猫のように目を細めて嗤う。
ルカ・クレイル。それが、彼女の名前だ。
「シャナイア……あの悪魔のこと、知ってるの?」
「昔のことだよ。……ルカ、あんたの目的は俺だけだろ?」
杖をルカに突き付けるようにして、問う。彼女は深く頷いた。
「当たり前だ。貴様を倒し、私がこのガーデンで最強の存在になる。それが、私の目的だ」
「……変わらないね、あんたって」
初めて彼女と会った時も、同じことを言っていた。国の為、悪魔の為ではなく自分の為に戦っているのだ。
「良いよ、相手してあげる。でも、これから村の人達を呼び戻して来るからちょっと待っててよ。ていうか、あんたはここまで来るのに誰とも会わなかったの?」
ふと、思う。村を出たロイド達と、村までやってきたルカ。どこかで出くわしていても、おかしくはない筈だが。
「知らんな。私は約束した場所から獣道を上ってきたんだ、誰とも会ってなど居ないぞ」
「あー、なるほどね」
身体能力が優れている悪魔なら、その方が早い。対して、ロイド達が馬を使っているのならば踏みならされた山道を使う筈。
「それなら……今から全力で追い掛けたら、間に合うかな」
「む、ムリよ! お兄ちゃん達が出て行ったの、もう何時間も前だし――」
「貴様ならあの程度の獣道、余裕だと思うぞ。英雄殿?」
必死に止めるアイリと、嘲笑を浮かべるルカ。どちらの言うことを聞くかなんて、迷わなかった。
「……ルカ、後で必ず行くから、約束した場所で待っていてくれ」
「ちっ仕方ないな、早くしろ」
「アイリ、きみは家に帰りなよ。ロイド達なら、すぐに連れ戻してくるからさ」
「ちょ、ちょっとシャナイア!?」
再び伸ばされるアイリの手を振り切り、シャナイアは地面を蹴りルカの横をすり抜けた。獣道を降り、ロイド達に追いつくために。
シャナイアの姿がすっかり見えなくなった頃、最初に動いたのはルカだった。
「さて、行くか」
「ちょっと……待ちなさいよ」
踏み出したルカを、アイリが止める。銀髪を揺らして、ルカが振り向く。
濡れた瞳で、きっと睨む。
「あなた……一体何なのよ。どうして、シャナイアを狙うの!? シャナイアが、何をしたって言うのよ!」
「……あいつが何をしたか、貴様は知らないのか」
つかつかと歩み寄り、背の低い少女を見下ろす。それだけで怯むアイリに、ルカが冷たく吐き捨てる。
「あいつが何をしたか、何者なのか。何も知らないまま、ぎゃーぎゃー騒ぐ貴様のような女が、私は嫌いだ」
「なっ!?」
「あれは貴様等が英雄と慕う、ルイ・セレナイトだ。私は三年前、あいつに負けた。だが……邪魔が入って殺されることはなかった」
「ルイ王子は……亡くなったのよ」
「ならば、見せてやろうか?」
静かに、ルカが問う。穏やかだった夜風が、不気味にざわつき始める。
「あいつの正体を、その目で確かめろ。どうすれば、自分がどれ程愚かであったかを思い知ると良い」
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