第3話 異界の煙草は甘い味
「秩父って、遠くないですかそれ」
我が家のある埼玉県春日部市から秩父市まで車で行くとなると、片道2時間くらいはかかる。
しかもこれまでの話からすると、エルフ保護特区とやらは秩父の山奥にあるというから、往復で6時間はくだらないんじゃないだろうか。
「はい。ですから、今日はご自宅には帰れないと思いますが、ご容赦ください。明日にはお帰ししますので……。茉莉子さんには、のちほど私のほうから改めて一報入れておきます」
「あの、明日バイトがあるんですけど。本屋の」
「分かりました。職場の方にも連絡しておきますね」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
八木さんの物腰には親しみが持てるが、どこかズレている。
それに比べると、ルシルは単刀直入に横暴であった。
「あんたは素直に拉致られておけばいいの。どうせ特区のことを知られた以上、ただでは帰れないんだから」
「ルシルさん、我が国は法治国家です。誤解を招く発言はやめてください」
八木さんにたしなめられたルシルは、ふくれっ面で懐から何かを取り出した。
細長い形状の筒と、それに結わえつけられた小袋は、喫煙具——いわゆる「キセル」のように見えた。
ルシルは小袋の中から乾燥させた葉っぱを砕いたようなものを取り出し、キセルの先端に詰め始めた。
「車の中で吸わないでって言ったじゃないですか」
「タバコに比べれば匂いも害も少ないんだからいいでしょ」
八木さんが抗議の声をあげたが、ルシルは取り合わず、助手席のダッシュボードを開けて中を物色し始めた。
「八木、マッチは?」
「捨てました。車でそれを吸われるのがイヤなんで」
「ふうん。じゃあ、しょうがないな」
ルシルは右手の人差し指を自分の目の前に掲げた。
「——我が友、火蜥蜴よ。盟約に従い、その姿を現せ」
彼女の桜色の唇が、美しい旋律を紡いだ。
その瞬間、ピンと立てた指先から小さな炎が吹き上がった。
ルシルが指を動かすと炎の向く先が変わる。彼女は炎をキセルの先端にある火皿に向け、乾燥させた草に火をつけた。
火皿から煙が上がり、車内に甘い匂いが立ち込める。
「あ! 外で魔法を使っちゃダメって言ったでしょ!」
「車の中は治外法権だもんね。ふーーーうっ!」
ルシルは吸い口に唇をつけて大きく息を吸い込み、うまそうに煙を吐き出した。
八木さんはわざとらしく咳き込んで、抗議の意を伝えようとしてるようだったがルシルはどこ吹く風だ。
「それ、絶対に外では吸わないでくださいね」
「分かってるって。だから治外法権の場所——特区かこの車の中でしか吸ってなじゃん」
会話の流れが、ルシルが美味そうに吸っている物が、日本の法では使用を許されない代物であることを雄弁に語っていた。
ぼくの心を不安の影がよぎる。
「それ……」
「ん? 深蔓も吸う?」
そういう意味じゃない。
ぼくが首を横に振るとルシルは、
「だいーいじょうぶよ、大麻じゃないから」
と手のひらを上下させながら笑った。
「この世界のものじゃないから、日本の現行法には触れないわ」
そんなことを言われたら余計に不安になるんだけど。
「深蔓さんにおかしなもの教えちゃダメですよ」
「なーによっ! 特区の中ではみんな吸ってるでしょ。いずれ特区の存在が外界に広く知られる時代がくれば、“エルフ村特産品”とか銘打って売り出したいくらいよ。ソージローもこれが大好きだったし、あそこで暮らすなら早いうちに慣れてもらわないと!」
ルシルは吸い口から唇を離すと、キセルをぼくに差し出した。
「ほら、一口吸ってみなよ」
え、それって間接キスってことになるんじゃ……。
ぼくはキセルと、ルシルの柔らかそうな桜色の唇を見比べて、思わずドギマギしてしまう。
「なに戸惑ってんの。大丈夫だってば。慣れてないと最初の一口はちょっと刺激的かもしれないけど、すぐ慣れるから。はい、どうぞ」
ルシルは助手席から身を乗り出し、ぼくの口に押し込もうとする。
その拍子に、ぼくの手が彼女の体に触れた。手のひらから柔らかな感触が伝わってきてドキッとしたが、ルシルは気にした様子がない。
一瞬の隙を突かれて、ぼくはキセルをくわえさせられてしまう。
「あ……」
口腔内を温かい空気が満たし、鼻腔を甘い香りが刺激する。
煙草のような刺激臭は一切なく、まろやかな口当たりだったが、逆にそれがぼくの本能に危険信号を送ってきた。
この草は、何かがやばい!
「や……」
ぼくはキセルを掴んで、自分の口から引き離そうとした。
しかし、なぜか手足がうまく動かない。脳の奥に、痺れたような感触が湧き上がってきた。体の平衡感覚が徐々に失われていく……。
「ちょ……! 深蔓さん、大丈夫ですか!」
慌てた八木さんの声が耳朶を打つが、その声はところどころ、ヘリウムガスを吸った声のように音の高低が乱れていた。
「こらーっ! ユウ! 前見て運転しろ! 前!」
続いてルシルの怒鳴り声。こちらもところどころ音程がおかしい。
ぼくはぼんやりした頭で、おかしいのは彼らの声ではなく、ぼくの意識だと気づく。
何かを言おうとしたが、目の前に桃色の
体のどちらが上か下かも分からなくなってきた。
意識だけが体を抜け出し、どこか遠くへ飛翔していくような感覚が身を包んだ。これって、もしかして臨死体験ってやつなのでは……。
「おーい、ミツル。しっかりしろー?」
ルシルの声がドップラー効果のように遠のいていく。
気がつけば、ぼくの目の前にルシルが立っていた。
しかし、何か様子がおかしい。さきほどまでは車の中にいたはずなのに、ここはピンク色の靄に覆われた、だだっ広い空間だ。
靄の中に、人影のようなものが見える。
目をこらすと、それはルシルだった。絹糸のような滑らかで艶のある金髪、ほっそりとした肢体、非現実的な美貌。彼女で間違いない。
しかし、不自然なことに、彼女は服を着ていなかった。
「ここは……?」
質問を発したが、彼女は妖艶な笑みを浮かべ、答えない。
その代わり、ぼくの体にしなだれかかってくると、ズボンのベルトに手をかけた……。
ぼくは慌てたが、抵抗しようにも体が動かなかい。それになぜか、抵抗しようという気が起こらなかった。
ルシルは片方に手でベルトを外しながら、もう一方の手の指をズボンの腰の部分——その中央部に這わせる。その部位の感触を楽しむように……。
ぼくは体の奥から、言葉にならない歓喜が湧き上がるのを感じ、彼女に身を委ねた——。
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