第2節. レンと傭兵都市アルテカンフに居る同郷の者
24. JKT異世界に呼ばれる
7月7日。早朝。世田谷区の住宅街。
梅雨明け後の雲一つない青空から降り注ぐ煌びやかな朝日を浴びる。
それを感じながら、藤堂麗は自宅アパートの鍵を閉めた。
黄色い猫のキーホルダーがカチャリと、レイの手の中で音を奏でる。
(今日は少し日差しが強い――)
灰色のジャケットを着てしまったが、今日の天気では汗をかくかもしれない。
メイクの乱れも怖い。レイは多少の憂鬱を感じる。
レイが高等学校に入学して約3か月。
新しい環境にもそれなりに慣れてきた。
そもそも同級生や先輩たちはほぼ中学校時代からの顔見知りが多く、人間関係の面ではレイはそれほど負担を感じなかった。
レイは鉄筋2階建ての古びたアパートを横目で見つつ、道路へと歩みを進める。
まだ朝早い時間帯ということもあり、外は静けさを保っていた。
レイが数分歩くと小さな交差点が見えた。
閑静な住宅街ではよく見かける信号がない形式のものだ。すぐそばの電柱には黄色い看板に黒字と赤字の文字で「とびだし注意」と描かれている。
そしてその向かい側に電柱に背中をあずけて立っている1人の男子学生がいた。
「おはよう」
レイはその人物に挨拶をした。
爽やかさを感じさせる短く刈り上げた髪と、純白のカッターシャツ、黒い学生ズボンを履いた男子学生はレイの幼馴染、川北悠斗だ。
「あぁ」
悠斗は眠たげに返事をする。
レイにとってそれは何時もと変わりない風景だった。
毎日幼馴染である悠斗とここで合流し、共に学校へと向かう。
父親同士が昔からとても仲が良く、生まれた時から家族ぐるみの付き合いをしているため物心ついた時から悠斗とは行動を共にすることが非常に多かった。
小学校高学年や中学時代は周りのやんちゃな男子にからかわれることや、悠斗のことが好きな女の子に妬まれることが多かった。
だがレイも悠斗も他人の顔色を窺うタイプでは無い。
特にお互いの距離感が変わることなく、いままで過ごしてきた。
横に並びながら学校への道をゆったりと歩く。
押しては退いていく小波のようなとりとめのない会話をおこなう。
そんな普通で少しばかり淡い日常が繰り広げられているが、レイ達自身は少しだけ――――普通ではない。
「高等生だから“源者”の職業を目指すか、俗世に行くか、将来の選択をしなくちゃなー」
悠斗が黒色のスクールバッグを肩にかけながら、眠気を朝の大気に溶け込ませるように大きく欠伸をする。
「でも、普通の大学行こうと思ったら受験があんだよなー。“源技能”関連の授業に加えて一般の勉強とか、きっちぃよな」
「そうね」
あまり勉学が得意ではない悠斗の、らしい発言にレイは同意する。
「麗はどうするんだ?おじさんは東京の保全部の人間だろう。麗もやっぱりそっちの道に進むのか?」
「少し前までは、そう考えていたのだけど――今は少し迷っている」
悠斗に言った通り、将来の進路に関してレイは最近になって頭を悩ませている。
「そっか。まぁ、おじさんは保全部だけは絶対反対しそうだけどな。男手一つで大事に、大事に育ててきた一人娘だから」
レイの母は既に他界している。レイを生んだ時に亡くなった。
その為か父親は、煩わしく感じるくらい、レイを溺愛していた。
レイが小さい頃はそんな父が大好きではあったものの、思春期になり父の態度が普通では無いことを知ると、レイは少しずつ引いていった。
「麗は治癒源技を発現できるから、医療部とかも合ってるんじゃないか?」
「うん――悠斗は?」
「俺?俺は、できれば東京の現場で動けるところに所属できたらって思うけど――倍率がなぁ」
悠斗の声が段々と自信無さげに窄んでいく。
高等学校までは悠斗との合流地点から徒歩で15分ほどの距離にある。
東京には“源技能者”の高等学校は一つしかないため、そこに通う学生は電車通学が圧倒的に多く、次いで寮暮らしだ。
レイ達のように徒歩圏内の生徒は稀だ。
学校までの道中も残り半分という時だった。
「おい。麗、あれって―――」
悠斗が前方に視線を止めたまま声を掛けてきた。
レイも釣られて顔を向ける。そこには熟年の男性が一人こちらをしっかりと見ていた。
年齢に適した濃い灰色のスーツを着こなしており、痩せ形で身長が高く、スラリとした佇まいは、どこか気品を感じさせる。
しかし、その紳士の表情は抑えきれない感情が今にも爆発するかの如く歪んでいた。
「――お爺ちゃん」
胃の中に黒い靄が生じたかのような不快感にレイは苛まされた。
「レイ!」
鋭く厳しい声が早朝の閑静な住宅街に響き渡る。
麗の母方の祖父、根古谷忠治はこちらを認識すると足早に駆け寄ってきた。
「レイ!あの男をいい加減に見限れ!家に来るんだ!」
レイの手首を、乾燥し荒れた厚い手で素早く掴む。
白のパーカーがくしゃりと歪む。レイは僅かな痛みを感じた。
(いつも、こうだ)
根古谷は会うたびレイに、父親と離れ祖父母の家に住めと言ってくる。
時には今みたいに待ち伏せをしてきてでもだ。
レイは根古谷が嫌いではない。祖父も父と同じくレイを大事に思ってくれている。
だが、父と根古谷の相性は絶望的に悪かった。
レイの最も原始の記憶でも、彼らの言い争う声と姿が映っている。
「まぁ、まぁ。爺ちゃん落ち着いて」
悠斗がやんわりと宥めている。
悠斗も幾度となくこの遣り取りを見ていた。
また幼いころ悠斗は、レイと一緒に根古谷に可愛がってもらっていた。
「悠斗坊やは黙っていろ!これは家族の問題だ!」
レイはその根古谷の言い分に、胸に小さな切り傷が走るかのごとく僅かな苛立ちを覚える。
レイが一番納得できないのは、根古谷の主張する父とレイが一緒にいてはいけない理由が酷くピンボケしていることだ。
あいつはお前を不幸にする。
あんなガサツな男に娘を育てられるはずがない。
家のことをやらなければならないレイが可愛そうだ。などだ。
だが、レイは自分のことを不幸だと思ったことは一度もない。また、しっかりと父はレイに愛情を注いでくれているし、家事もやりたいからやっているだけだ。
ここまで根古谷の理由づけがずれていると、単に何が何でもレイを自分の元に置いておきたいだけ、に思える。
レイは心の中で大きくため息を吐きつつ、根古谷と悠斗の不毛な小競り合いを見ていた。
後10分程経てば、開校時間を理由に根古谷から逃れることが出来るだろう。
その時だった。
ふとレイは違和感を覚え、後方5メートル程先に目を向ける。
「えっ!?」
“それ”を見た時、レイは自分が幻覚でも見ているのだと、瞬間的な逃避を覚えた。
それほど異常な光景だった。
目の前の空間が割れているのだ。
ガラスを割った後のように、ポロポロ、ポロポロと自発的に剝れ落ちている。
落ちた破片は空気に溶けるように消えていく。
そして“中身”が見えてきた。
薄いクリーム色の界面だ。波打つように波紋が広がっている。
デニムパンツのポケットが熱い。
いや、そこにあるスマホが何時間もゲームを起動したかのごとく熱いのだ。
レイはその非日常を呆けたように見ることしかできなかった。
目の前の空間は変化を見せる。
レイが瞬きをした瞬間に、クリーム色から薄暗い森の風景へと映し出すものを変えた。
(―――気持ち悪い)
その森は青々とした木々に満ち溢れていた。
それらによって日光は遮られているため地面が薄い闇に覆われているものの、一見は普通の自然豊かな森にしか見えない。
だがレイはその森に言い様の無い生理的嫌悪感を覚えた。
それらの木々が化け物になってこちらに襲ってくる、そんな妄想も許容できるくらいにはだ。
「麗!」
悠斗がこちらに焦ったように声を張る。
よかった。
レイは率直に思う。
どうやらこの“異常”はレイだけが認識しているものではないらしい。
レイがそれに応じ、振り向こうとした時だった。
自分の体がふわりと僅かに浮かび上がったかのように感じた。
それは段々と強くなっていき、体が自身の制御下から外れていく。
あの空間に引っ張られている。
レイはそう判断する。
このままでは、まずい。
引きずり込まれるのも時間の問題だ。
レイは重心を下に意識し、履いているスニーカーで地面をしっかりと踏みしめ、僅かな抵抗を試みる。
しかしながら、空間がレイを引っ張る力は増している。
レイの体が完全に地面から浮かび上がる。
空間を振り向きながら見る。
それはまるでレイを地獄へと誘うかのごとく、不気味にそして静かに存在していた。
「麗!手をっ!」
レイはその声に応じ視線向けると、悠斗が左手で電柱を抱えながら右手をレイに突き出していた。
その悠斗の姿にレイは頼もしさを感じた。
レイは自身の右手でしっかりと悠斗の手を握る。
手を繋ぐなどいつ以来だろうか。
ごつごつした男らしい手だ。レイは思う。
何時の間に幼馴染はこんなにも大人になったのだろうか。
「麗!絶対に手を離すなよ!!」
悠斗が怒鳴る。
レイはそれに頷きを返すと、宙に浮いた己の体に力を込め、悠斗と繋がっている右手を握りしめた。
割れた空間はまるで意志を持っているかのようにレイだけを吸い込もうとしている。
根古谷は目の前に出来た異常な現象を茫然と見ていたが、我に返り状況が把握できたのか、
レイと悠斗が手を繋いでいる場所に勢いよく手を伸ばし、
その繋がりを“切った”
(っえ!?)
レイは己の体が支えを失い、急速にあの割れた空間へと引き寄せられるのを感じる。
どうして?
なぜ?
レイの頭の中にはその疑問だけが駆け巡る。
だめだ。あの空間に引きずり込まれる。
レイの心の中に、諦めが多分に含まれる確信が生じた。
段々と意識が薄れていく。
それは、ぬるま湯に身を預けるかのごとき安堵感と、もう2度と目が覚めないのではないか、という僅かな不安を感じさせる。
意識を失う前、最後にレイが見た光景は、
必死にこちらに手を伸ばし叫んでいる悠斗と、
恍惚とした表情を浮かべ、何かしら呟いている己の祖父の姿だった。
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