月下の宴 四

 そっか……。半月のもう一つの共通点。それは、店に来るみんなのどこかが欠けていたこと。もちろん、完全無欠の人なんかどこにもいないんだけどね。でも、自分ではどうにもならない傷や宿命を抱えた人ばかりが、吸い寄せられるように半月に集まったのはなぜだろう?


 わたしは、みんなに声をかけた。


「ねえ、きょうはぐっちぃとさわちゃんの祝いの席だから、湿っぽいのはなしって言われたけど、やっぱり半月と美月さんの話をしたいな。まだ解けてない謎がいっぱいあるから、その話をしない?」


 迫田さんが、ふっと笑ってわたしをいじった。


「一つ解けると、謎は倍に増えるぞ」


 ふふ。そうかも。じゃあ……。

 わたしは、最初からずっと疑問に思っていたことをみんなに問いかけた。


「美月さんは、なんでママって呼ばれることをあんなに嫌ったのかなあ」


 間を置かずに、迫田さんがさらりと答えた。


「あさみちゃん。俺たちはみんな自分の名前を持ってる。例えば、迫田俊和は俺しかいない。でも、ママってのは単なる呼称だ。誰のことを言ってるのか分からない」

「あ……」

「さよさんは、既に実体を無くしてた。だから、せめて呼ばれる名前だけでも、自分の存在を感じられるものにしたかったんだと思う」


 迫田さんが、席の一番端に目を移した。そう……そこは、半月で美月さんがいつも立っていた場所。わたしたちの目前に、もういないはずの美月さんの姿がふうっと浮かび上がる。


「長戸美月ってのも、さよさんにとっては単なる仮名に過ぎないんだろうけどさ。それでも、ママというあやふやな呼ばれ方よりは、ずっとマシだったんだろう」


 そうか……。


 今度は、卓ちゃんがさわちゃんに聞いた。


「前に半月でべろんべろんに酔って取り乱した時に、美月さんに送ってってもらったろ?」

「……うん」

「あン時、美月さんに何か言われた?」


 さわちゃんは一瞬辛そうな顔をしたけど、微笑みながら卓ちゃんに答えた。


「月には何も届かないわよ。月は孤高。だからこそ月なのって」


 うわ……。


「近づこうとしても、寄りかかろうとしても、そう出来ない。何かを投げつけても、叫んでも、届かない。だから、月影で自分の足下を見なさいって」


 さすが、美月さんだなあ……。


「その時は、抽象的でよく分かんなかったんだけど。こうありたいっていう自分の理想には永遠に届かない。だから、手の届かない理想にこだわり過ぎないで、今の自分をちゃんと見なさいってことだよね。そして、足下を照らしてくれる人は必ずいるってことも、ね」


 さわちゃんは、ぐっちぃの顔を見上げて嬉しそうに微笑んだ。ん、ごちそうさま。


 続けて、卓ちゃんがみんなに問いかける。


「九得がさ、さよさんの前で猫又になったのは、偶然じゃなくってやっぱ意味があったと思うンだけど。どうなンだろ?」


 迫田さんが、うーんとうなりながら答えた。


「たぶん九得なりに、さよさんの支えになりたいって考えたんだろう。悲しさや寂しさは、いずれ時が解決してくれる。だからそれまでは俺が側にいてやろうってな。ただ、それにまさか三百年もかかるとは思わなかったんだろうけどね」


 卓ちゃん、もう一度。


「じゃあ、九得はなんでそれを終わらせる決心をしたンだろ?」


 わたしが答える。


「わたしが思うに、だけど。九得は、さよさんが誰かと心を通わせる機会をずっと待ってたんだと思う。さよさんが心の中に抱え込んだ重荷を下ろすためには、同じ痛みを持っている人と触れ合う必要があったんじゃないかなあ。三百年待って、やっとそのチャンスが来た。だから、九得は安心したんだと思う。これでさよさんは救われるだろう。俺の役目もやっと終えることができるって」

 

 わたしは、文三さんのキツい目つきを思い出す。あれには、自分にできないことをやり遂げてしまう人間への嫉妬もいっぱい入ってたんじゃないかな。


「本来は人に障るための力を、さよさんを守ることに全部使ってきた九得。わたしはね。九得はどんな人より一途にさよさんを想っていたんだろうなあって、そう思うの。照れ屋の猫だから、素直に言えなかっただけ」


 ぐっちぃがぽつりと呟く。


「俺たちは、みんな呼ばれたんだな。半月に。俺たちも寂しかったけど、美月さんも寂しかった。そういうことか……」


 追いかけるように、さわちゃんが言い足した。


「わたしね。最初に半月に行った時に、美月さんに言われたの。光が当たるから、月は輝く。そして影ができる。あなたは、そのどちらを見るのかしらって」


「ほう?」


 迫田さんが身を乗り出した。わたしも初耳だ。


「よくよく考えてみたら、それって二択じゃないのよね。そのどちらも、月」

「うん」

「美月さんも、本当はいろいろな自分を見て欲しかったのかなあって。今になって、しみじみ思う。わたしは美月さんの何を見ていたんだろう。美月さんの、何が見えていたんだろうって」


 ああ……そうなんだよね。美月さんは、心を誰にも見せなかったんじゃない。心の奥底を見てくれる人が誰もいなかったんだ。そこはさわちゃんも……そしてわたしも同じだったんだ。


 卓ちゃんが、何かを思い出したように呟いた。


「そう言やあ美月さんは、いっちゃん最初にもう三百歳って話をしてたンだよな。オレはてっきり冗談だと思ってたンだけどさ」


 わたしも、美月さんが三百歳若ければって言ってスネたことを思い出した。


「わたしにも、おんなじようなことを言ったのよ。それだけじゃない。美月さんは、卓ちゃんにぞっこん惚れ込んでたの。そりゃあもう、べった惚れ」


 卓ちゃん、ものすごーいびっくり顔。本当にどんね。ふふ。


「だから美月さんは、よーく卓ちゃんのことを見ていた。知っていた。恋を知る前に彷徨さまよい人になってしまったさよさんが、長い長い放浪の果てに初めて心の底から好きになったのが卓ちゃんなんだと思う」


 納得顔の迫田さんが、何度か頷いた。


「ああ……それで美月さんの雰囲気が柔らかくなったのか。恋するとオンナは変わるって言うけど」

「うん。でも美月さんの姿のままじゃ、どうしても想いを告げられない。卓ちゃんに恋い焦がれたさよさんは、初めて九得に泣き言を漏らしたんじゃないのかなあ。わたしをもう解放してよ……って」


 迫田さんが、目をつぶって小唄を口ずさむ。


「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい……か」


 今際いまわきわに、美月さんが漏らした切ない胸の内。それは……美月さんの影の部分。最後まで明かされることがなかった半月の半分。わたしたちは、その哀しさをもう一度じわりと噛み締めた。そして……半月の薄暗い空間と虚空を見つめ続ける美月さんの姿を、無言でずっと思い浮かべていた。


 腕時計を見た卓ちゃんが、すいっと席を立った。


「さあ、美月さんに会いに行きましょうか」


 そう言って部屋の灯りを落とし、庭に面した障子を全て開け放った。一瞬視界を失ったわたしたちの目に、さあっと月明かりが差し込んだ。


「うわあ……」


 このお寺は高台にある。広い庭と植え込みの影に遮られて、本堂には街の灯りが届かない。俗世に塗れることなく、月は中天高くにかかってる。そこから。地の底にいるわたしたちを慰めるように、淡い月光がふわりと舞い降りてくる。


 全てのものをほの白く照らし出し、その輪郭をとろかすかのような淡く暖かい月光。それは……とても幻想的な光景だった。


 何もかも分け隔てなく温める月に誘われて、席を立ったわたしたちは縁側に出て並んだ。そして、月光を全身に浴びるようにして満月を……見上げた。


 眩しそうに目を細めていた迫田さんが、横を向いて卓ちゃんをつついた。


「なあ、卓ちゃん。これは半月じゃなくて、満月だぜ?」


 穏やかな笑みをたたえた卓ちゃんは、それをすいっと切り返した。


「迫田さん、これは半月っすよ。ふたツ半月」


 卓ちゃんが、ぐいっと顔を上げて月を見上げる。そして月に届けとばかりに力強く話しかけた。


「お互いの影を照らせば満たされるンです。ね、美月さん」




【半月 了】


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