第四章
月に嵐 参
あれ以来、ぐっちぃは御堂さんと同じくらい頻繁に半月に顔を出すようになった。でも、オレらに愚痴をこぼすことは一切なくなった。ぐっちぃに言わせりゃ、薄給のサラリーマンにとって、良心的すぎる半月の呑み代はとてもありがたいんだってさ。ま、それは口実だろうけど。半月は居心地いいもんな。
でも、ぐっちぃの酒は静かな酒だし、気が向けばすっげえマジックもただで披露してくれっから、オレはぐっちぃが来るのが楽しみになった。
ぐっちぃと反対なのが、あさみちゃんだ。あさみちゃんはしゃべれるようになってから、かえって無口になった気がする。前はしゃべらないってだけで、雰囲気は穏やかだったのに、今はどっか張りつめたものを漂わせてて、ぶっちゃけ近寄り難い。
それと。さわちゃんは、俺が怒鳴ってからぴったりと半月に来なくなっちまったなー。あの時。送っていった美月さんとの間で、どんなやり取りがあったんだろう? 美月さんに何か言われたんだろうか? オレたちには、その時のことは分かンないからなー。
◇ ◇ ◇
その日は、最初からどっかおかしかった。
外は土砂降りの雨。こんな日は客なんか来んだろー。オレはそう思って、美月さんに今日は臨時休業にしようよって言ったんだ。というのも、美月さんが珍しく体調を崩してたから。でも具合が悪くて辛そうだったのに、オレが止めるのも聞かねーで店を開けると言い張った。見るに見かねたオレが、じゃあ開店を遅らせたらって言ったら、それには頷いてくれた。
「ちょっと奥で休んでくるわ。一時間経ったら呼んでちょうだい。大丈夫よ。少し休めばよくなるでしょう」
美月さんは両手で額を押さえるようにして、ふらつきながら奥の部屋に消えた。ホントに大丈夫なんかなあ……。無理しねー方がいいと思うんだけど。あさみちゃんも、心配そうに美月さんを見やってる。
強い雨音が、店の中にまで流れ込ンでくる。オレはその音に少し苛立ちながら、冷蔵庫の食材を取り出して仕込みに入った。美月さんが開けると言った以上、開店の準備はしなきゃならねーからな。
ふ、と。あさみちゃんの方を見た。グラスを拭く手を止めて、一点を見つめて、じっと何かを考え込んでる。最近、そんな姿をよく見る。
あさみちゃんは、何を見てんだろう? 何をそんなに考え込んでるんだろう? すっげえ気になるけど、そこへは無闇に立ち入っちゃいけないような気がして。オレは料理を作る事に集中した。
美月さんの言いつけ通りに七時過ぎに扉の鍵を外して、扉の小窓を開けた。店の光が、雨に濡れた路面にさあっと走り出してく。
さて、美月さんの様子を見に行こう。そう思ってカウンターに戻った、その時。ばたんという大きな音と共に扉が開いて、誰かが店に入ってきた。激しい雨の中、外で開店を待ってたんだろうか。全身ずぶ濡れだ。傘をさしてなかったんか。
濡れた髪が顔にかかっていて、一瞬誰だか分からんかった。
そいつは、店に入るとそのまま前のめりに倒れ込んだ。オレは慌ててカウンターを出て、椅子席に回る。異変に気付いて、あさみちゃんも駆け寄ってきた。抱き上げて顔を見ると。
さわちゃんだ! でも、様子がおかしい。顔色が土気色で、異様に悪い。口元に何か吐いたような跡がある。粉っぽいもんが口の周りにへばりついてる。こ、これは酒じゃねーぞ!
「あさみちゃん、やべー! これは酒とか、病気のせーじゃねえ。たぶんクスリだ! すぐ救急車呼んでくれっ!」
あさみちゃんが慌ててばたばたとカウンター裏へ回り、暖簾をくぐって居間へ飛び込んだ。あさみちゃんと入れ替わって、さわちゃんと同じくらいひどい顔色の美月さんが、よたよたと駆け寄ってきた。
「美月さんも具合悪いんだから、寝ててください! 二人して倒れられたら、オレらじゃ対応できません!」
オレは、美月さんを居間へ押し戻そうとしたけど、美月さんはオレの手を振り払って叫んだ。
「さわちゃん、あんたって人は!」
そう言うなり、さわちゃんの頬を平手でぴしゃぴしゃっと叩いた。
「美月さん、無茶しちゃダメだ!」
オレが慌てて止めると、崩れるように踞って、ううーっとくぐもった声を上げて泣き出した。それはオレが初めて見た、美月さんが感情を
すぐに救急車が来た。オレは美月さんを寝室に押し込めると、あさみちゃんと一緒に救急車に乗って、病院まで付き添った。
それからの一時間は、ものすごく重くて長かった。オレもあさみちゃんもずっと俯いたまま。何も言えず、何も考えられず、ただ過ぎ行く時間にじっと耐え続けていた。
処置室から医師が出て来て、はっと我に返った。
「付き添いの方ですか?」
オレが答える。
「はい」
「胃洗浄と輸液を行いました。自発呼吸はありますし、命に別状はないでしょう。意識が戻れば心配はありません。安心して下さい」
聞いてみた。
「睡眠薬かなんかですか?」
「そのようですね。多量に飲んだみたいですが、その後かなり吐いたようです。実際の摂取量としては、それほど多くないと思います」
医師は一礼して立ち去った。
「何があったンだろ?」
オレが呟くと、あさみちゃんが項垂れたまま首を横に振った。
「そうだよな」
分からねー。人の心の闇は。暗くて、どこまで落ち込んでいるのか分からねー。その暗がりに足を取られると、泥沼に沈み込むみたいにもう光を探さなくなる。死の足音だけに耳を澄ますようになる。でも、さわちゃんはためらった。まだ自分の心の暗闇を果てしなく落ちることに、ためらいがあった。だから……助かったンだ。
オレがぼんやり考え込んでいると、サイレンの音がして救急搬入口が慌ただしくなった。そして、オレたちの前にストレッチャーが押されてきた。何気なくそっちを見たら。
美月さんだった!
しまった! たぶん、さわちゃんのことで何か無理をしようとしたンだろう。オレが慌ててそっちを追おうとしたら、あさみちゃんが動転してオレの腕を引っ張った。
「た、卓ちゃん、どうしたの?」
「今度は美月さんだ。大人しくしてろって言ったのに。なんか無茶しやがったな」
ストレッチャーの後ろから、見慣れた顔があたふたと走って来た。それは……ぐっちぃだった。オレたちを見て、きょとんとしている。
「あれ、卓ちゃん、あさみちゃん、どしたの?」
「さわちゃんが、睡眠薬飲んで自殺しようとしたンだ。でも死にきれんかったみたいで、半月まで来て倒れた」
「げえっ!」
絶句するぐっちぃ。
「命には別状なかったみたいで、ちょっとほっとしたんだけどさ」
美月さんの方の容体を尋ねる。
「美月さんは、どうなん?」
はっと我に返ったぐっちぃが、ストレッチャーの行き先を目で追った。
「とりあえず、急いで容体確認しなきゃ」
「まだ分からんのか……」
「そう。半月に行ったら、灯りは点いてるのに誰もいなくてさ。おかしいなと思って入ってみたら、戸口で美月さんが倒れてたんだ。すっごい熱でさ。慌てて救急車呼んだんだよ」
三人で顔を見合わせた。さわちゃんの方は落ち着いたみたいだし、急いで美月さんの方を確認しよう。通りかかった看護師さんに、美月さんの容体を確かめた。
「ええと、まだ検査中なんではっきり分からないですけど、脳や心臓のトラブルのような、一刻を争う状態ではないと思います。落ち着いて下さいね」
ふいー……。思わず安堵の吐息が漏れた。
オレはぐっちぃに声をかけた。
「ぐっちぃ、明日も仕事だろ? あとはオレたちに任せて帰った方がいいぜ。何かあったらすぐ電話連絡すっから」
ぐっちぃは、二人とも大事にはならずに済みそうだと分かって安心したんか、経過を知らせてくれと言い残して心配そうに帰っていった。
くそっ! なんてぇ夜だ。本当は脆い月の世界。明かりが、雨に流れる墨絵みたいに滲んで、ぼやけていく。
オレは長椅子にどさっと腰を下ろして、頭を抱えた。とりあえず、今夜は美月さんに付き添おう。あさみちゃんに、さわちゃんへの付き添いを頼まなきゃ。
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